Después de la Cruz – Pastor David Jang

1. El significado de la Ley y el mundo del descanso que se abre tras la Cruz El pastor David Jang señala que, al meditar profundamente en Juan 19:31-42 sobre lo que sucede después de la muerte de Jesucristo, la crucifixión no termina simplemente como una trágica muerte. En particular, hace hincapié en la expresión … Read more

大胆な信仰 – 張ダビデ牧師

1. パウロの裁判とローマ総督フェストゥスの決定 張ダビデ牧師は、使徒の働き25章から26章にかけて続くパウロの裁判過程を通して、神の摂理とイエス・キリストの福音がどのように人間の歴史の中で展開していくのかを深く黙想させる。ここでは、パウロが既に以前の裁判で無罪同然の状況にあったにもかかわらず、新しく赴任した総督フェストゥスが着任すると、再びユダヤ人の指導者たちが訴えを試みる。しかし、これは神のご計画のもとで最終的にパウロをローマへ送り、福音をさらに拡張させる道具となる。 張ダビデ牧師はまず、ローマ総督たちの存在と性格に注目する。彼らは行政面でも軍事面でも絶大な権力を持っていたが、ときに苛酷な暴政を行い、税の搾取や暴力などでユダヤの民と深刻な軋轢を生んでいた。しかし意外にも、フェストゥスはパウロを安易にエルサレムへ移送しなかった。ユダヤ人たちが「再びエルサレムへパウロを連れてきてほしい」と強く要望した時、そこで待ち受けていた刺客たちはパウロを殺害しようと企んでいたが、フェストゥスは「証拠がない者に罪を課せない」というローマ法の基本原則を守った。張ダビデ牧師は、これが偶然ではないと言う。鉄拳政治がまかり通るローマ帝国の時代にもかかわらず、フェストゥスが最低限の原則を守ることが起こったのは、既に神がパウロをローマへ導かれようとして摂理のうちに働かれた結果だというのである。 そして張ダビデ牧師は、ここでパウロの「カイサルに上訴する」という宣言が決定的だと説く。パウロはユダヤ人の奇襲や刺客の脅威を避け、さらに主が直接エルサレムで「あなたはローマでも証しをすることになる」(使徒の働き23章11節)と言われたみことばを実現するため、与えられていたローマ市民権を積極的に活用した。ユダヤ人でありながら同時にローマ市民として生きてきたパウロは、この二重のアイデンティティを福音伝播に最適な道具として用いたのだ。何よりも張ダビデ牧師が強調するのは、パウロが自分の安全だけを望んだり苦痛を回避するために上訴したわけではないという点である。パウロは自分の意志を捨て、「これは神が既に定めておられる道であり、復活のイエスが与えてくださった使命だ」という確信のもとに進んだ。したがって、単に不当な扱いから逃れるための手段ではなく、福音のために自分はどうしてもローマへ行く必要があると悟り、決断した告白なのである。 張ダビデ牧師は、この場面において「神の絶対的計画(プロビデンス)は既に完了した状態」であることを改めて指摘する。フェストゥス総督が善良であれ悪しき者であれ、また総督の性格や政治的欲望がどうであれ、神は「罪が確定していない者に罰を下せない」という法の原則一つを通じてパウロを安全に守られた。張ダビデ牧師は、私たちも人生で遭遇する様々な試練や苦難をどのような視点で見るべきか、この出来事から挑戦を受けると言う。一見「偶然」に見える出来事の中にも神の綿密な主権が既に働いており、世の無慈悲な権力でさえ、神の救いの計画を妨げられないことをパウロの裁判の場面がはっきりと示しているのである。 さらに張ダビデ牧師は、このエピソードが単なる「パウロ個人の無実を晴らすための裁判」ではなく、「神が定められた福音の道のりを完成するための決定的な道具」であると説く。新任の総督フェストゥスがエルサレムへの道のりにあるカイサリアでパウロを再度審問したが、いかなる証拠も見いだせなかった。ユダヤ人たちは律法を破ったとか、神殿を汚したとか、カイサルへの反逆をたくらんだとか、あらゆる悪行をねつ造したが、全く証明できなかった。これはパウロに本当の罪がなかったことと同時に、神がパウロをローマの法廷へ導かれる確かな摂理があったからでもある。張ダビデ牧師は、この過程を通して「裁判」が一つの“福音宣教の舞台”となるという逆説的な場面に注目すべきだと強調する。 最後に、フェストゥスが「罪を見つけられない」という結論を下しながらも、ユダヤ人に顔を立てようとして、一時パウロに「本当にエルサレムへ上って裁判を受けたいのか」と尋ねた際、即座にパウロがカイサルに上訴した決断を“信仰の行動”と見なす。エルサレムには既にパウロを殺そうとする陰謀が公然化していたし、ローマ市民権を持っている彼には皇帝の法廷で裁きを受ける権利があったゆえに、これは福音拡張のために最善の選択だったのだ。結局パウロはこの選択によって、ユダヤ人たちのすべての攻撃と陰謀をかわし、さらに大きな舞台へと進んで、ローマ皇帝の前でさえ福音を証しする機会を得ることになる。 張ダビデ牧師はここで、イエス・キリストを伝える者が必ず備えるべき態度を説く。困難や陰謀が降りかかるときに落胆したり恐れに縛られるのではなく、私たちにあらかじめ開いておられる神の摂理を切に仰ぎ見て、信仰をもって従うべきだというのだ。パウロがカイサルに上訴したのは、臆病や卑怯の選択ではなく、「復活の主が備えてくださった道を行く」という大胆な献身の表れである。張ダビデ牧師は、この点で私たちも人生のさまざまな岐路で、理不尽でつらい状況に直面しても、「もしそれが神の許される道ならば、その道には必ず福音の拡張があり、神のご計画が実現する」という信仰的洞察を見いだすよう勧める。 2. アグリッパ王とベルニケの前での最後の証言 張ダビデ牧師は、使徒の働き25章の終わりと26章に登場するアグリッパ王とベルニケの存在に注目し、この二人がヘロデ王家の最後の継承者である点を取り上げる。ユダヤ王国は既にローマの支配下に入り滅亡寸前であった。イエスの時代のヘロデ大王、その後を継いだ分封領主たち、さらにヤコブを殺したアグリッパ1世など、暴力の家系である。ここに登場するアグリッパ2世と彼の妹ベルニケは、近親関係への疑惑や、ローマ政界の利害得失を追う複雑な人物背景を持っている。しかし逆説的にも、この陰鬱で堕落した一族の最後の王の前でパウロは福音の頂点を宣言する。 張ダビデ牧師によると、アグリッパ2世が「自分でパウロの話を聞いてみたい」と言い、パウロがその前に立つことになった時点で、実際にはフェストゥスが「この男には死刑や拘束に値する罪がまったくない」と断言している状況だったという。形としては「裁判」の形をとってはいたが、実際は「公開証言会」のようなものだった。パウロはこの機会を福音伝播の場として活用する。総督フェストゥス、ユダヤ王アグリッパ、そのそばのベルニケ、千人隊長や高官たちまでみな席に並ぶ場所で、パウロは“ローマの法廷”ではなく“神の法廷”の上に立つかのごとく復活の福音を証言したのである。 張ダビデ牧師は、ここでパウロが自らの回心(かいしん)の物語を詳細に語るくだりに注目する。使徒の働きには3度(9章、22章、26章)にわたってダマスコ途上の体験が記録されているが、26章には「とげのついた棒(かす)を蹴るのはあなたに痛みを負わせるだけだ」という独特の表現が含まれている。張ダビデ牧師は、イエスを信じる者たちを迫害していた時点で、実は神がすでにパウロを選んでおられ、パウロがいくら拒絶しようとしても結局は自分だけが傷つく“不可能な抵抗”にすぎなかったことを、この一言が雄弁に物語っていると解釈する。また、「なぜわたしを迫害するのか」と復活の主が語られたとき、パウロは単なる驚きではなく、存在そのものを根底から揺さぶられる衝撃を受けた。彼の回心は悔い改めの結果であると同時に、イエスご自身が直接顕現された救いの出来事に対する無条件の降伏にほかならない。 張ダビデ牧師は、パウロがこの真実をアグリッパ王の前で大胆に証言する姿に目を留める。「あなたが見たこと、これから見ることについて、あなたをしもべ(サーバント)と証人として選ぶ」という主の声、「イスラエルと異邦人たちからあなたを救い出し、彼らのもとへ遣わす」という使命、「闇の中から光へ、サタンの権勢から神へ立ち返らせる」という宣言は、パウロ個人に与えられたものにとどまらず、現代において福音を伝えるすべての人に当てはまる命令でもある。張ダビデ牧師は、この箇所でパウロが「悔い改めて神に立ち返れ」と説教するのは、ユダヤ人だけに向けた言葉ではなく、全世界――すなわち「神の救いを必要とする異邦の全世界」への呼びかけになったのだと強調する。 フェストゥス総督は、このパウロの証言を聞いて「お前の多学が、お前を狂わせてしまったのだ」と大声で叫ぶ。張ダビデ牧師は、この瞬間がパウロの大胆な説教がいかに強烈な印象を与えたかを示すと言う。ローマ総督の前で「イエスの復活」と「神の摂理」を長々と説くことは、常識から見れば度を越えた行為であり、「気が変になった」と言われるほどショッキングだった。しかしパウロは「私は狂ってはいません。正気で真実な言葉を語っているのです」と一歩も引かない。むしろパウロはアグリッパ王に向かって「預言者を信じますか? 信じておられると私は知っています」と問いかけ、「イエスが死者の中からよみがえられて、イスラエルと異邦人に光をもたらされることは、すでにモーセと預言者が予言したとおりです」と断言する。 このときアグリッパ王が「そんなに短い言葉で私を説得して、キリスト者にしようというのか」と返す場面にこそ、張ダビデ牧師は妙なる逆説的勝利を見る。圧倒的権力を持つ王が、囚人のように拘束されたパウロの前で「私を伝道しようとしているのか」と反応しており、実はこれがパウロの完全な勝利を示す瞬間だというのだ。パウロは「この鎖は別として、あなたも含めここにいる皆が私のようになることを願います」と宣言する。張ダビデ牧師は、これを「拘束されていながらも霊的には完全に自由なパウロ、命の福音を確信し、どのような場所でも証しすることをやめないパウロの勝利」と見る。反対に権力と自由を謳歌しているかのように見えるアグリッパ王は、現実には歴史の中で罪や陰謀、堕落に絡め取られた悲惨さをさらけ出している。世の目にはパウロが囚人に見えても、神の視点からはパウロこそが自由人であり勝利者だという対照的な図式がくっきりと示されているのだ。 アグリッパ王は最終的に「この人には死刑や拘束に値する行いがない」と結論づける。「もしカイサルに上訴していなければ、釈放できたのに」という最後の言葉は、パウロが無罪であることを公に認める宣言にほかならない。張ダビデ牧師は、この場面が使徒の働きの最終部分まで続く「パウロのローマ行き」を完全に確定する明らかな勝利だと力説する。ユダヤの最高権力者ですらパウロを釈放せざるを得ないほどに、この福音の代弁者はどのような政治的策略や暴力的陰謀も打ち破り進んでいく。しかしこれによってパウロはローマ皇帝の前にまで行って福音を伝えなければならない使命を、さらに明確に自覚するようになる。張ダビデ牧師は、これこそ神が歴史の中で展開される方法であり、「弱く縛られた者をあえて強く自由な者のように用いられ、全世界にみことばを行き渡らせる神の主権的な愛」なのだと説く。 3. 神の絶対的主権とパウロの大胆な信仰 張ダビデ牧師は全体の結論として、使徒の働き25章と26章を貫く核心は「神の絶対的主権とパウロの大胆な信仰」だとまとめる。これら二つの場面は、裁判という形式が続くが、実際にはパウロがイエス・キリストの福音を様々な権力者や聴衆の前で説教する巡回伝道のようでもある。パウロを排除しようとするユダヤ人指導者たちの陰謀、ローマ総督の政治的計算、ヘロデ王家の入り組んだ罪と王権争いなど複雑に絡み合っても、結局神の救いのご計画はそのすべての上にどっしりと立っている。そしてパウロは、そのことを正確に悟ったゆえに揺るぎない大胆さを手にしたのだ。 張ダビデ牧師は、旧約の預言、特にモーセと預言者たちが予言していたメシアの苦難と復活がイエス・キリストにおいて完全に成就し、パウロがその事実を「直接目撃した使徒」であることを繰り返し強調する。ここにおいて「復活」は単なる歴史的事実にとどまらず、人類史全体を貫く決定的出来事であり、預言者たちが待望していた「新しい時代の到来」の象徴なのだ。パウロは復活された主に直接出会うことで揺るぎない確信が生まれ、どんな外的権威もこの事実を動かせなかった。張ダビデ牧師は、このメッセージを通じて、現代のクリスチャンも「私が信じること」を堅く握り、世の嘲笑や暴力に直面しても揺るがない姿勢を身につけるべきだと呼びかける。 さらに張ダビデ牧師は、この本文が「福音宣教の本質」を明確に示していると強調する。パウロが王の前に立っていたとしても、そのメッセージは少しも変質しなかった。異邦人であろうとユダヤ人であろうと、「悔い改めよ、神の憐れみと恵みは既にイエス・キリストのうちに与えられている。ゆえにこの福音を拒んではならない」というのが核心だった。王であれ総督であれ、高官であれ千人隊長であれ、あるいは飢饉や荒廃に苦しむ民であれ、すべての人間は復活されたイエスの前に同じように立つ存在なのだ。張ダビデ牧師は、この実現のために神はパウロの人生に数多くの困難や刑罰を許されたが、結局そうした苦難が、より多くの人に福音が伝わる結果をもたらすのだという点を見逃してはならないと訴える。 そして張ダビデ牧師は、パウロが抱いていた「私が伝えている福音は宇宙的真理であり、片隅で行われた私事ではない」という認識を、すべての信仰者が持つべきだと説く。西暦66年に勃発したユダヤ戦争、70年にローマの将軍ティトゥスがエルサレム神殿を破壊し、73年にマサダ要塞で最後の抵抗軍が自害してしまう悲劇へと至る歴史的状況を振り返るとき、歴史の大きなうねりは決して人間の力や計画だけで動くものではない。張ダビデ牧師は「歴史は神が運行される大いなる車だ」と語り、その中で聖徒たちは神の摂理のままに用いられる存在であると改めて強調する。パウロは人間的には苦痛を伴う過程を通ったが、結果的には自分が与えられた使命を全うする道へと導かれたという事実が、このメッセージの頂点だといえる。 張ダビデ牧師は、「自分が罪無きことが既に明らかなのにもかかわらず、パウロがローマ皇帝の前まで行かなければならなかったこの不思議な状況こそ、実は宣教の機会だったのだということを改めて思い巡らしてほしい」と訴える。神に仕える者にとって、一見“理不尽な状況”が、実は“神の完全な導き”であるというわけだ。詩編や箴言が強調しているように、人は心の中で自分の道を計画するが、その歩みを導かれるのは神である。パウロはカイサリアの法廷で、エルサレムで、そしてアグリッパ王の前で、繰り返し「福音はすでに成就している、私は狂人などではない、もっとも理性的かつ真実なことを語っている」と大胆に宣言した。その姿は「鎖は身体を縛ることができても、魂を縛ることはできない」という事実を実証している。 張ダビデ牧師は「このメッセージを聞くすべての信者たちも、パウロの裁判過程を深く黙想し、自分の人生に当てはめるように」と勧める。イエス・キリストの死と復活、そして聖霊の臨在によって、信じる者はどのような王や権力者の前でも恐れを知らずに歩むべきである。張ダビデ牧師はパウロにならって「王よ、あなたのみならず、ここにいるすべての人々も、私が持っているもの――この結ばれた鎖以外は私と同じになることを願います」と大胆に叫べるようであれと言う。私たちはいつも復活のイエスの声に耳を傾け、「闇から光へ、サタンの支配下から神へ立ち返る」その恵みの道へと人々を招く福音の使者(ししゃ)であるというアイデンティティを忘れてはならない。 結局、張ダビデ牧師がこの本文を通じて最も強調したいのは、人間の歴史を動かされる方はただ神だけだという点である。パウロはどんな政治体制や軍事力の後ろ盾がなくとも、むしろ囚われの身としてユダヤ最後の王の前で完全なる勝利を収め、ついにカイサルの法廷にまで至って福音を宣べ伝えるに至った。ローマが何百万人もの軍隊を擁する強大な帝国であろうと、パウロと共にあられる神の力と知恵の前ではまったく小さなものとならざるを得ない。これこそ初代教会が世界をひっくり返した真の秘訣であり、復活の主を証する者が持つべき絶対的確信だ。 張ダビデ牧師は、パウロが「イエスが復活された」ということと「私はこの復活の主に直接出会った」という確信をいついかなるときにも叫び続けたと強調する。もし私たちが同じ信仰を持つならば、社会的地位や環境に振り回されることも、悪しき陰謀に揺らぐこともなく、たとえ死の脅威を突きつけられても福音をためらうことはなくなるだろう。パウロがアグリッパ王とベルニケの前で大胆に語ったように、私たちも与えられたすべての場で福音を誇りをもって宣言すべきである。そしてその宣言の根拠は常に復活と神の摂理、つまり人類に対する神の救いの情熱なのだ。 こうして張ダビデ牧師は、使徒の働き25章と26章から私たちが学ぶべき核心的教訓をまとめる。第一に、世の権力はいかにしても神の主権を越えられない。第二に、理不尽や陰謀に遭遇するときでさえ、神はご自分の民を安全に守られ、むしろさらなる証しの機会へと変えてくださる。第三に、パウロの証言が示すように、福音は王にも総督にも千人隊長や高官たちにも同じく適用される宇宙的真理だ。第四に、福音の宣教者は常に大胆であるべきだ。人々の前で萎縮せず、「キリストの死と復活」という最も本質的なメッセージを語らなければならない。これらすべては、イエスにあってすでに完成された「神の絶対的計画」だからである。 最終的に張ダビデ牧師は、現代を生きる教会共同体や信者たちに対しても、パウロのこの裁判物語を自らの現実に当てはめてみるよう勧める。私たちも多様な形で拘束され、理不尽に追い詰められる状況に直面することがあるが、それでもなお神が歴史を支配しておられるただ中で、イエス・キリストの復活を証しし、悔い改めと救いを宣言することを決してやめてはならない。パウロが暗殺者たちに殺されかけた張り詰めた緊迫感や、総督と王の前で「気が狂った」と嘲笑されるほど情熱的に福音を証言した場面は、決して過去の一時的な出来事ではない。どの時代においても、福音を知らない世はしばしばキリスト者を誤解したり迫害したりする。しかしパウロがローマへ導かれたように、最終的にはキリストが成そうとされる目的はそのまま成就していく。 張ダビデ牧師は最後に、この結論の前で私たちが祈るべきだと強く促す。復活の主を裏切ることなく、与えられた使命に忠実であり、いかなる苦難の中でも大胆に福音を伝える霊的な勇気を求めて祈ろうではないか。そして、パウロが拘束された身でありながら「神よ願います、この人々も皆、私のようになることを」と叫んだように、私たちの持っている霊的自由と復活の喜びを世に流し伝えよう。たとえ私たちには政治的権力や世俗的な力がないように見えても、最終的に神の絶対的主権のもと、最も大いなる喜びと栄光にあずかる道が開かれるのである。 張ダビデ牧師は、すべてのメッセージを総括しながら「神は私たちが後ろ足で蹴ろうが、従順しようが、結局はご自身の道へと導き出される。であるならば私たちは無用な痛みを作り出さず、神の導きを全く受け入れようではないか」と勧める。これこそ、棘の棒に押し返され痛みを覚えながらも抵抗していたサウロが「主よ、あなたはどなたですか」と降伏した瞬間であり、同時に「なぜわたしを迫害するのか」という主の問いに対して「この復活の主のために生きていこう」と決断した使徒の姿でもある。この決断はアグリッパ王の前でも、フェストゥス総督の前でも、またあらゆる人の前でも続き、ローマにまで至ってついに世界史に福音の炎を燃え上がらせた。今日も同じである。張ダビデ牧師は、同じ召命が今まさに私たち一人ひとりにも与えられていると宣言し、キリストの血によって贖われた聖徒であるならば、少しもためらうことなくこの福音を握りしめようと呼びかける。そして、使徒の働き26章が描く「縛られていても自由なパウロの偉大なる最後の証言」を、私たちも自分の人生に再現すべきだと力強く訴えるのである。

勇敢的信仰——张大卫牧师

1. 保罗的受审与罗马总督非斯都的决定 张大卫牧师通过《使徒行传》25章至26章所记载的保罗审判过程,引领我们深入默想上帝的摄理,以及耶稣基督的福音如何在人的历史中展开。在这段经文里,保罗实际上已经在此前的审判中被宣告无罪或至少“无可定罪”,但新任总督非斯都上任后,犹太教领袖们再次对保罗发起控告。然而,这一切都在上帝的计划之下,最终成为把保罗送往罗马、进一步拓展福音的工具。 张大卫牧师首先探讨罗马各任总督的存在及其个性。尽管他们在行政和军事上拥有强大的权力,但有些总督的暴虐统治、税收剥削和暴力行为,常常与犹太百姓爆发严重冲突。令人惊讶的是,非斯都并没有轻率地将保罗交到耶路撒冷。犹太人曾恳求“再次把保罗送回耶路撒冷”,意图让隐藏的刺客在途中杀害他,但非斯都坚持“在没有确凿证据之前,不能给人定罪”的罗马法律基本原则。张大卫牧师指出,这绝非偶然。即使身处罗马帝国以铁腕统治的时代,非斯都却在这关键时刻守住了最起码的法律底线,这正是上帝为了带领保罗前往罗马而在暗中运行的结果。 在此背景下,张大卫牧师强调保罗那句“我向该撒上诉”(参《使徒行传》25:11)的宣告至关重要。保罗藉此躲避犹太人的袭击和刺客的威胁,更是为了回应主在耶路撒冷对他说“你必须在罗马为我作见证”(参《使徒行传》23:11)的应许,积极运用自己所拥有的罗马公民权。身为犹太人、又是罗马公民的保罗,善用这双重身份,使之成为传福音的绝佳工具。张大卫牧师特别强调,保罗并不是只为保全自身安全或逃避痛苦而提出上诉,而是清楚意识到“这是上帝已经预定的道路,也是复活的耶稣所赐给他的使命”,因此心甘情愿地顺服。换言之,这并非简单的“为申冤而上诉”,而是“我必须前往罗马,完成福音使命”的坚定宣告。 张大卫牧师在这里再次指出,“上帝的绝对计划(providence)早已成就”。无论非斯都这位总督性格善恶如何,无论他的政治野心为何,上帝都能借用“没有确凿罪证就无法定罪”这一法律原则来保护保罗。通过这个过程,张大卫牧师提醒我们:在我们的生活中,无论遇到什么样的试炼或苦难,都应当带着属灵的眼光看待。即使是我们看似偶然的遭遇,也在上帝精妙的主权之下;即使这个世界充满无情的权势,也无法阻挡上帝救恩计划的实施。保罗在受审的场景正向我们展现了这一点。 张大卫牧师进一步指出,这段情节并非“为保罗个人雪冤的审判”,而是“上帝为完成福音旅程所设定的关键工具”。虽然新任总督非斯都在前往耶路撒冷的路上,于该撒利亚重新审问保罗,却找不出任何罪证。犹太人指控保罗违背律法、玷污圣殿、反叛该撒等,但均无证据支持。这既由于保罗的确清白无罪,也因为上帝要把保罗送往罗马法庭的旨意非常明确。张大卫牧师特别提醒我们,应当留意“审判”本身在此竟成为“福音宣讲的场合”这一反转场景。 最后,张大卫牧师提到当非斯都“找不到罪证”却仍想讨好犹太人,于是试探性地问保罗:“你是否愿意上耶路撒冷受审?”保罗立刻决心向该撒上诉,这被视为重大的“信心之举”。在耶路撒冷,已有人公然策划暗杀;而罗马公民拥有向该撒上诉、在皇帝面前受审的权利。保罗的选择不仅让他逃脱犹太人的所有攻击和阴谋,更让他有机会走向更广阔的舞台,甚至在罗马皇帝面前为福音作见证。 张大卫牧师在这一幕中,特别谈及传扬耶稣基督的人应有的态度。当我们面临困境或阴谋时,不是陷于沮丧或惧怕,而应仰望上帝早已为我们开辟的道路,并以信心顺服。保罗向该撒上诉并不是懦弱或胆怯之举,而是“我要走复活主所预备的道路”的勇敢奉献。张大卫牧师由此鼓励我们:当面对人生中各种“十字路口”,即便遭遇委屈或艰难,只要我们确认那是上帝所许可的道路,就一定会带来福音的扩展与上帝旨意的成就。这是我们应当持守的属灵洞见。 2. 在亚基帕王与百尼基面前的最后见证 在《使徒行传》25章末尾和26章,亚基帕王与百尼基登场时,张大卫牧师指出,他们是希律王族的最后后裔。犹太王国在罗马的统治下已近消亡,当年耶稣诞生时的希律大帝,以及随后的一些分封王、包括杀害使徒雅各的亚基帕一世等,这条暴力世家血统正延续至此。这位亚基帕二世与他的妹妹百尼基之间,不仅有被人怀疑的近亲关系,也纠缠着罗马政治的利益算计。然而具有极大讽刺意味的是,保罗正是在这个邪恶、腐败家族最后一位王的面前,宣告了福音的最高峰。 张大卫牧师注意到,亚基帕二世说“我也想亲自听听保罗”(参《使徒行传》25:22),此时实际上非斯都已经认定“此人并没有该处死或监禁的罪行”。虽然走了“审判”的形式,实质上更像一次公开听证会。而保罗就借此机会,将其化为福音传扬的舞台——在总督非斯都、犹太王亚基帕、身旁的百尼基,以及众千夫长与要员面前,保罗并非站在“罗马的法庭”之下,反而彷佛立于“上帝的法庭”之上,大胆地见证复活的福音。 在这幅图景里,张大卫牧师强调保罗详述自己蒙恩得救的经历——《使徒行传》中三次记录了保罗在往大马士革的路上遇见复活主的事(分别见于9章、22章、26章),其中在26章引用了“用脚踢刺是难的”这句独特的话(参《使徒行传》26:14)。张大卫牧师解释,当保罗逼迫信徒时,实际上上帝早已拣选他;保罗的抵抗徒劳无功,只会让自己受伤,这正是一种“无法成功的对抗”。而当复活的主对保罗说:“你为什么逼迫我?”(参《使徒行传》9:4;26:14)的时候,保罗不只是惊恐,更是存在被彻底震撼,其悔改不只是认错,更是对基督亲自向他显现的救恩事件的完全降服。 张大卫牧师回顾保罗在亚基帕王面前这样勇敢地见证:“我要拯救你脱离百姓和外邦人;我差你到他们那里去”(参《使徒行传》26:16-17),并宣告“要叫他们的眼睛得开,从黑暗中归向光明,从撒但权下归向神”(参《使徒行传》26:18)。这不只是对保罗个人的呼召,也是今天所有传福音之人的共同使命。张大卫牧师指出,“悔改归向神”并非只对犹太人说的,而是面对包括外邦世界在内的所有“需要上帝救恩的人”所发出的呼吁。 然而总督非斯都听到这些就大声喊道:“保罗,你疯了吧?你学问太大,反倒使你疯了!”(参《使徒行传》26:24)。张大卫牧师指出,这段对话反映了保罗的宣讲带来的强烈冲击:向罗马总督宣告“耶稣的复活”和“上帝的摄理”,对一般世人而言几乎匪夷所思,以至被人说成“疯了”。保罗却坚定回答:“我不是疯了,我说的乃是真实清醒的话”(参《使徒行传》26:25),丝毫没有退让。相反,保罗直接问亚基帕王:“你信先知吗?我知道你是信的。”(参《使徒行传》26:27),强调“耶稣从死人中复活,并向以色列和外邦人宣告光明的福音,这本就是摩西和先知所预言之事。” 这时亚基帕王回应道:“你想一点点劝我就做基督徒啊?”(参《使徒行传》26:28),张大卫牧师在其中看到了奇妙而讽刺的胜利。具备巨大世俗权势的王,竟然在一个戴着锁链的囚犯面前说出“你想传福音给我吗?你想叫我也成为基督徒吗?”这其实意味着保罗在灵里已经完全得胜。保罗回道:“无论是多是少,我向神所求的不但你,也愿所有听我今日说话的人,都能像我一样,只是不要像我有这些锁链”(参《使徒行传》26:29)。张大卫牧师对此评论道:表面上,保罗被捆绑,亚基帕王看似拥有自由与权势;但从上帝的角度看,保罗才是真正自由的得胜者,他满有生命的福音确信,无论站在哪个审判席上都能继续作见证。而自以为高高在上的亚基帕王,却深陷于罪、阴谋与堕落之中。世人的眼睛看见的是囚犯的锁链,然而在上帝眼中,保罗乃是真正的自由人和胜利者。 最终,亚基帕王也下结论:“这人并没有犯什么该死或该绑的罪”,“他若没有上诉于该撒,就可以释放了”(参《使徒行传》26:31-32)。张大卫牧师指出,这等于是最高层也正式承认保罗无罪,并开启了保罗去罗马的道路。犹太最高掌权者也无法找出保罗的罪,这位福音的见证人打破了一切政治陷阱与暴力阴谋,得以继续前行。至此,保罗更加清晰地领受那“要在罗马皇帝面前见证福音”的使命。张大卫牧师解释,这便是上帝在历史中运行的方法——“透过软弱和被囚的人,展现出刚强与真正的自由”,让福音流传到世界的中心,这是上帝在爱中所彰显的主权。 3. 上帝的绝对主权与保罗的勇敢信心 张大卫牧师在总结时指出,《使徒行传》25章和26章的核心,是“上帝的绝对主权”与“保罗的勇敢信心”。这两章以“审判”为叙事形式,但其实更像保罗在各大权威及众听众面前作“巡回布道”的过程。犹太领袖层层谋害、罗马总督的政治算计、希律家族复杂的罪性和王位之争,虽然看似错综复杂,但上帝的救赎计划仍牢牢掌管一切。而保罗正因看透这一事实,才能无比刚强,不为外在权势所动摇。 张大卫牧师反复强调:旧约的预言,特别是摩西与先知关于弥赛亚受苦与复活的预言,在耶稣基督里完全应验;保罗就是那“亲眼见过复活主”的使徒。这里的“复活”不仅是一件历史事实,更是贯穿整个人类历史的决定性事件,是先知们所盼望的“新时代来临”的标志。保罗亲身经历到复活的主,因此拥有不可动摇的确据,任何外在权势都无法撼动这一点。张大卫牧师借此提醒今日的基督徒,应当牢牢抓住自己所信的真理,在世人的讥笑和逼迫面前仍然屹立不摇。 同时,张大卫牧师强调,本段经文也揭示了“传福音的本质”。即使是在王面前,保罗的信息依然不打折扣,不论犹太人还是外邦人都是同样的信息:悔改吧!因为上帝的怜悯和恩典已经在耶稣基督里降临,不要拒绝它。无论是王、公侯、千夫长或官长,还是贫穷饥饿的百姓,所有人都必须在复活的耶稣面前谦卑下来。张大卫牧师再次提醒:为成就这一点,上帝允许保罗经历诸多困境与刑罚,但这些苦难反倒成为使更多人听见福音的机会。 在此基础上,张大卫牧师强调保罗内心的意识:“我所传的福音乃是宇宙真理,并非在暗处行的私事。”公元66年犹太人发动对罗马的战争,公元70年罗马将军提多摧毁耶路撒冷圣殿,公元73年马萨达要塞的最后抵抗军自尽收场——回顾这些历史事件,可知人类历史的巨大漩涡从不是只凭人力与计划在运转。张大卫牧师指出,“历史是上帝所驾驶的巨大车轮”,其间上帝按祂的摄理使用圣徒。对保罗而言,虽然经历许多痛苦,最终却走向完成使命之路,这正是本信息最重要的高潮。 张大卫牧师呼吁我们再思:“明明已经证明保罗无罪,却仍要让他去罗马皇帝面前受审,这看似令人费解的局面,其实是宝贵的传道契机。”对于属上帝的人而言,那些“委屈的处境”常常正是“上帝完美的带领”。正如诗篇与箴言多次提及:“人心筹算自己的道路,但耶和华指引人的脚步。”在该撒利亚、在耶路撒冷,在亚基帕王面前,保罗都不断宣告:“福音已经完成;我并非疯了,而是理智清醒地宣讲最真实的真理。”这是“锁链可以束缚肉身,却无法禁锢灵魂”的铁证。 张大卫牧师在结尾敦促每个信徒深思并应用保罗的审判过程。我们虽也可能在现实生活中遭遇不同形式的捆绑或不白之冤,但只要仍处于上帝掌管的历史核心,就当为耶稣基督的复活作见证,并宣告悔改与救恩,绝不可退缩。保罗曾屡遭暗杀威胁,又在总督和王面前被嘲笑是“疯子”,却依然热切作见证,这绝非仅限于某个时代的特殊故事。历世历代,那些不认识福音的世人,也常常误解或迫害基督徒。然而,如同保罗最终还是被带往罗马一样,基督要成就的旨意决不会落空。 最后,张大卫牧师呼吁我们当在这结论前献上祷告:求主赐给我们能在任何苦难中依然忠实传福音、坚守使命的属灵勇气。正如保罗虽被捆绑却说:“我向神所求的,无论是你,或是今天一切听我的人,都能像我一样,只是不要像我有这些锁链。”我们要将自己所拥有的属灵自由和复活的喜乐传递给这世界。或许我们看起来缺乏政治权势与世俗力量,但在上帝的绝对主权之下,却能与祂同享最深的喜乐与荣耀。 张大卫牧师总结指出:“无论人如何抵触,或最终顺服,上帝都会使人走上祂的道路。与其徒然地用脚踢刺而自受伤害,不如完全降服在上帝的带领之下。”这正是当年在大马士革路上被主大光照耀的扫罗,问出“主啊,你是谁”的那一刻,也是听到“你为什么逼迫我”时,他毅然降服,并且立志“为这位复活的主而活”的开端。这样的决断一直延续到他站在亚基帕王与非斯都面前,并一路带领他前往罗马,最终在世界史上燃起福音的烈火。直至今日,上帝给予我们每个人同样的呼召;若我们是真正被基督宝血赎买的子民,就当毫不犹豫地抓住这福音。这样,我们便能在生活中重现《使徒行传》26章所见证的“虽被捆绑却仍自由”的保罗那伟大的末段见证。 愿我们也能如此,阿们。

담대한 신앙 – 장재형(장다윗)목사

장재형(장다윗)목사는 사도행전 25장부터 26장에 이르기까지 이어지는 바울의 재판 과정을 통해, 하나님의 섭리와 예수 그리스도의 복음이 어떻게 인간의 역사 속에서 펼쳐지는지를 깊이 묵상하게 만든다. 이 본문에서 바울은 이미 이전 재판에서 무죄로 판결된 것과 다름없는 상황에 놓여 있었는데도, 새로운 총독 베스도가 부임하자 다시금 유대인 지도자들이 고소를 시도한다. 그러나 이는 하나님의 계획 아래, 결국 바울을 로마로 보내 복음을 더욱 확장케 하시는 도구가 된다. 장재형목사는 먼저 … Read more

La colère de Dieu et la voie du salut – Pasteur David Jang

Le passage de l’Épître aux Romains (1.18‑32) est l’un des plus importants dans lequel l’apôtre Paul traite de la question du péché. Bien que le thème central de l’Épître aux Romains soit la doctrine du salut, Paul insiste sur le fait qu’il faut d’abord cerner en profondeur la nature du péché pour comprendre correctement ce … Read more

上帝的忿怒与救恩之路 —— 张大卫牧师

罗马书本文(1:18~32)是使徒保罗论及罪恶问题的一个极其重要的段落。尽管罗马书的核心主题是救恩论,但保罗在阐述这救恩之前,首先强调必须深刻地认清罪是什么。若把罪比作疾病,那么救恩就是医治这疾病的过程。因此,如果不彻底察看罪之本质,就难以完全领会对救恩的感恩和感动。耶稣曾说:“我来本不是召义人,乃是召罪人。”(可 2:17)这话表明我们的根本状态如同病人,必须先知道自己患的是什么病,才能接受医治。同理,在罗马书1章18节至3章20节中,保罗的罪论构成了救恩论的基石,而这一罪论的开端,正是从1章18节开始所揭示的外邦人的罪。 张大卫牧师在强调罗马书1章18-32节时,指出我们应注意保罗为何用“上帝的忿怒”这句话来开启论述。人往往只想到“上帝是爱的上帝”,但保罗却明确指出,当上帝看到满是罪恶的人类时,祂会发怒。这显示出全能的上帝并不是毫无情感、仅高高在上的超然存在;相反,祂渴望把人当作儿女,但却被人拒绝和背叛,因此发出深切的叹息与痛心。圣经多处经文都透露出上帝对人的不义与不敬虔既悲伤又愤怒的心,这与希腊神话或世俗哲学中所描绘的那种“无情感之神”截然不同。张大卫牧师认为,罗马书1章所论及的罪,直截了当地呈现“人拒绝上帝时那种存在的悲惨”。当人离弃上帝,上帝最终也只好任凭他们离去,这不仅是审判的阴影,更是对拒绝上帝之人的正当报应。 从罗马书1章18至32节的整体脉络来看,可分为三个要点:第一,“上帝的忿怒与不敬虔”;第二,“人的不义与道德沦丧”;第三,“永远的审判与救恩的盼望”。在这三重主旨下,保罗揭露了外邦人的罪,并进一步显示所有人都难免处于灭亡之路中;然而唯有借着耶稣基督方能得救。张大卫牧师在这里强调,我们必须谨记:不敬虔(与上帝的垂直关系)是背叛上帝的罪,不义(与邻舍的水平关系)则是伤害他人的罪。而若不先解决不敬虔的根源,无论世上何种伦理或道德,最终都会坍塌。保罗正按此逻辑推进论述,系统地阐明罪是何等致命,并且这罪会最终引发上帝的忿怒。以下我们将依这三大分题更深入地探讨本文。 第一小主题:上帝的忿怒与不敬虔 保罗在罗马书1章18节宣告:“原来上帝的忿怒从天上显明出来……”。人们通常更倾向于把上帝想象成慈爱与恩典的化身,却忽略了为何保罗会如此严肃地使用“忿怒”一词。其背后原因在于,人虽然“知道上帝,却不把祂当作上帝荣耀祂,也不感谢祂”,这正是严重的不敬虔。英文里常用的“ungodliness”或“godlessness”就指人在生活中排斥上帝、否认上帝的态度:不敬畏祂,也不记念祂,对祂毫无感恩之心。这种对上帝的彻底忽视才是罪的根本根源。 上帝虽全能且是创造者,却并不强行把自己注入人心,也不会用强制手段施加祂的爱,因为真正的爱必须在自由意志中实现。然而,正如保罗所说:“他们既然故意不认识上帝,所以上帝就任凭他们存邪僻的心”(罗1:28),也就是“把他们交给”那种境况。这是一种“遗弃”(reprobation)的状态。张大卫牧师在此解释,意思就是上帝对坚持拒绝祂的人说:“既然你执意如此,那就随你所愿吧。”这是因为上帝并非失去了爱或能力,而是人的顽固抵挡逼得自己走向灭亡。不敬虔的本质就是离弃上帝而自高自大。 为说明此等不敬虔何所起源,保罗接着指出,上帝已在人的良心和理性,以及周围壮丽的自然界中留下充分让人“认识上帝”的证据(罗1:19-20)。如此井然有序、精妙无比的宇宙绝不可能没有创造主,任何留心观察者都能得出此常识性结论。因而张大卫牧师强调,拒绝上帝并非出于知识的匮乏,而是出于人心灵上的问题。所谓“看不见神就等于不存在”,归根结底往往是“因为我不想要,所以我宁可相信祂不存在”的自欺。 保罗在1章21节继续说:“他们虽然知道上帝,却不当作上帝荣耀祂,也不感谢祂,反倒在他们的思念中变为虚妄,无知的心就昏暗了。”这里的“虚妄”意指空虚与虚假的状态。人一旦背弃荣耀的上帝,其心中剩下的只有虚无与黑暗。接着在23节又指出,这样的虚妄之人“将不能朽坏之上帝的荣耀变为偶像,仿佛必朽坏的人、飞禽、走兽、昆虫的样式”。可见偶像崇拜正是典型的不敬虔之果实。人把本该归给上帝的敬拜与荣耀转移到受造物身上,幻想受造物能解决人类的问题,而这正是不敬虔的典型写照。纵观历史,人类不断沉溺于各种迷信或对天体的崇拜,乃至于神化皇帝,把许多本不该崇拜的对象奉为神明。在古罗马帝国时期,皇帝崇拜盛行,而拒绝向皇帝献祭的早期基督徒因此遭受迫害。 总之,不敬虔是垂直层面对上帝的罪,也是诸罪之根。张大卫牧师指出,即使在当今,人们依旧把金钱、权力以及各种物质当作偶像,并沿着不敬虔的道路前行。他说:“不真正敬拜并敬畏上帝的地方,最终就会不断出现对其他事物的依附与崇拜。”当我们不愿意心中有上帝的位置,自然而然会用其他东西来填补那个空缺;这便是偶像崇拜的开始,也是不敬虔的后果。保罗指出,这正是招致上帝忿怒的原因。上帝赐予我们爱,却被彻底排斥,而且人竟让那些受造物取代造物主的位置,上帝的心情如何可想而知。如此一来,忿怒与审判就只能随之而来。 第二小主题:人的不义与道德沦丧 若说不敬虔是在垂直关系中拒绝上帝的罪,那么不义(unrighteousness)就是在水平关系中对邻舍和社会所犯的罪。保罗在1章18节就已经宣告:“上帝的忿怒显明在那些以不义阻挡真理的人身上,也临到他们的一切不敬虔和不义。”先谈不敬虔,再论不义,并非偶然。因为离弃上帝的心,往往会引发伦理、道德的破败,并在社会层面带来各种不义。保罗举的一个显著例子就是性方面的堕落,特别是同性恋(罗1:26-27)。之所以突出提到同性恋,是因为它正是悖逆创造秩序的典型。 在圣经的创造秩序里,上帝造男造女,并将婚姻和家庭建立在男女结合、生养众多的基础上。然而,若此秩序崩坏,出现男人与男人或女人与女人行“可耻的事”(罗1:27),结果往往会带来个人与社会的严重破坏。这里并非要说这是所有罪中最恶劣的一种,因为保罗在1章后半部分还列举了许多罪行——嫉妒、凶杀、争竞、诡诈、毒恶、搬弄是非、毁谤、悖逆父母、无亲情、不怜悯等等,都属不义的范畴。然而,同性恋在此被用为一个象征性例子,明确展示:当人拒绝上帝,就可能在道德上无限下滑,甚至扭曲到与创造本身背道而驰的程度。 张大卫牧师在阐释此段经文时,也特别批评现代社会所面对的道德混乱与伦理相对主义。有一种乐观论认为:“即便没有上帝,世界也可以维持许多良好的价值和行为。”但回顾历史可以发现,当敬畏上帝的心淡去时,道德放纵和混乱都会极其迅速地蔓延。古罗马帝国在其鼎盛时期,尚保有一定程度的道德规范;可一旦沉溺于物质享乐、纵欲和性堕落,其内部逐渐腐败,最终走向帝国衰亡。而其最根本的症结就在于不敬虔,继而蔓延出大规模的不义。 在此背景下,张大卫牧师强调教会和信徒应当扮演的角色:若要成为世上的光和盐,首先要恢复“敬畏上帝的生活”。若人心中没有上帝,纵然外表怎么努力显出高尚的伦理,也最终挡不住自私欲望和享乐占据高位。保罗所说的“任凭他们”意味着上帝容许人的贪欲越演越烈,让人无可遏制地走在堕落的道路上,甚至行出最丑恶的罪行。罗马书1章29-31节列出的21种罪行,其实并非别人家的故事;在任何一个不敬畏上帝的社会,都可看到这些现象。它们包括凶杀、纷争、贪婪、恶毒等明显的暴力罪,也涵盖了悖逆父母、挑拨是非、骄傲、背约、无亲情、不怜悯等种种罪性。这就像一张“罪的目录”,证实所有人在上帝面前都是罪人。 保罗补充说,这些罪不只停留在个人层面,还会变成群体共犯——“他们不但自己去行,还喜欢别人去行。”(罗1:32)也就是说,整个社会会开始默许甚至赞同这些罪,并以文化或制度加以合理化。这可称为“罪的结构化”或“制度化”,当不敬虔和不义结合在一起,便会把个人与社会一并拉入深渊。无论科学多发达,若心里拒绝上帝,就难以真正建立正确的伦理价值。当今世界的贪腐、暴力和各种丑闻层出不穷,也再次暴露了人自我管控的软弱和无能。 张大卫牧师也深刻剖析了此处教会的责任:教会若失职、不起作用,往往也是因为与世俗同流合污,犯下同样的不敬虔与不义。若教会真正敬畏上帝,并忠实传达上帝的旨意,即便遭世人逼迫,也仍能保持圣洁与光明。但若教会也沦陷于罪,就会如保罗所说,一面指责别人,一面自己也在犯罪,最终显出虚伪的真面目。保罗接下来会在此书信中论证,无论外邦人还是犹太人,都逃不脱罪的辖制;而在罗马书1章里,他集中揭示外邦人的罪状:不敬虔、不义,以及导致的性堕落。 第三小主题:永远的审判与救恩的盼望 保罗在1章32节说:“他们虽知道行这样事的人是当死的,然而他们不但自己去行,还喜欢别人去行。”这里的“当死”不仅仅指肉体上的死亡,更指上帝面前的永远刑罚。保罗表明,罪的结局是灭亡,也就是可怕的地狱。由于人是自作自受、顽梗到底,上帝虽然用各种方式劝人悔改,但人仍拒绝不敬虔,所以只能面临此下场。 然而保罗的逻辑并不止于“你们是罪人,所以注定下地狱,毫无希望”。从整卷罗马书可知,保罗在如此绝望的罪况里,必然要引出唯有借着耶稣基督的救恩,才有独一的出路。比如罗马书3章23节:“因为世人都犯了罪,亏缺了上帝的荣耀”,接着3章24节却宣告:“如今却蒙上帝的恩典,因基督耶稣的救赎,就白白地称义”。这正是保罗想带出的盼望。 张大卫牧师对此解释道,保罗以逻辑并循序渐进的方式揭示人之绝境:1章18-32节先凸显人顽固地拒绝上帝,如何一步步堕落,以至于上帝的忿怒临到是何等理所当然。接着保罗转向耶稣基督的福音:尽管人落在罪中,但上帝依然保留盼望之路。上帝憎恶罪人所犯的罪,却依旧不放弃拯救他们的爱心——这正是贯穿罗马书的福音核心。 有人会觉得“上帝的忿怒”与“上帝的慈爱”似是矛盾,但圣经却表明这两者都同样出自上帝圣洁、公义的本性:当人悖逆,祂就发怒;当人悔改,祂又用慈爱接纳。先知书里一再体现这个信息;以赛亚、耶利米、以西结、何西阿都强调了这种“既忿怒、又挽回”的神性。以赛亚书1章2-3节里上帝忧心地说:“牛认识主人,驴认识主人的槽,以色列却不认识,我的民却不留意。”全能的上帝本来无须叹息,但因祂把人视作儿女,所以被背叛时会痛苦不已。 张大卫牧师表示:“上帝的忿怒之目的,不是单单为了审判,而是要人悔改归正。”若我们持续浸泡在罪中,便注定要灭亡。上帝用忿怒警示我们,让我们转离罪恶,归向祂。然而充满不敬虔与不义之心的人,有时连上帝的警告也拒绝,或自我合理化——或说“并不存在上帝”,或说“就算有神,祂是爱,最终一定会原谅一切”。保罗认为这些想法都是愚昧:一方面声称上帝不存在,另一方面又觉得“反正神爱我,不会惩罚我”。正是这样的虚妄与悖谬,体现了人心的昏暗。 总而言之,人之罪应受死亡宣判,即永刑。但正如约翰福音3章16节所宣告:“上帝爱世人,甚至把祂的独生子赐给他们……”。这才是基督教的福音,也是罗马书的最终信息。保罗要先让我们看见罪的绝境,才能让我们真正理解耶稣基督救恩的浩大。张大卫牧师说:“不知自己病入膏肓,就不会对救治之恩有任何感动。”诚然,仔细对照罗马书1章,我们才发现自己正坐在“通往地狱的列车”上,从而愈发体会耶稣基督恩典之宝贵。 在不敬虔和不义,以及由此导致的永刑威胁面前,我们唯一的盼望就是十字架的福音。保罗在后面的章节更明确地宣告:借着耶稣基督的宝血,我们被算为义,借圣灵大能过新生活。可即便救恩之门敞开,有些人还是会抗拒上帝,不愿把上帝摆在心中;这样的人也只能继续做罪的奴仆,并最终面临审判。我们不可轻忽罗马书1章18-32节的警示。保罗对我们的提醒适用于历世历代,也同样适用于当今时代。 当今世界上常有人质疑:“如果真有神,为何世上仍有如此多痛苦和不公?”但从圣经角度看,这些痛苦与不公,很大程度上源自人决意离开上帝,“不想要上帝”的后果。当我们失去了本该敬拜的上帝,各种欲望、虚妄思想和不合理体制就会乘虚而入,纷争、贪婪、暴力与堕落也就随之遍地。由此可见问题根源在于“不敬虔”,而解法则在于“向上帝悔改并顺服祂的统治”。这正是福音所言及的拯救——宣告耶稣基督为主,走信仰的道路。 张大卫牧师强调,若无法正确认识“上帝的忿怒”,那么对“上帝的慈爱”的理解就容易沦为一种肤浅的浪漫。圣经里的上帝之爱,是建基于公义与正直之上;祂绝不会视罪如无物,随意纵容所谓“反正祂是爱,就都能容忍”的态度。上帝憎恶罪,若罪人仍不悔改,必有永远的审判。与此同时,祂又以献出独生子的方式彰显了牺牲的爱。我们正是在这种张力中同时敬畏上帝,又赞美上帝的慈爱。若只看一面——“上帝是爱,所以犯罪也无所谓”,或“上帝在发怒,我害怕到不敢亲近”,那都是对圣经真理的偏失。 罗马书1章18-32节正是在帮助我们认识这个平衡:它不仅凸显上帝的慈爱,也严肃强调祂的圣洁与公义,对罪的定罪之重。一旦人偏要合理化罪,纵然千方百计否认上帝,造物主却通过万物清楚表明了自己。虽有理性与灵性可归向祂,但罪使我们的心昏暗,最终沉溺于偶像崇拜、淫乱、杀戮、嫉妒、纷争、悖逆父母、不怜悯等各样罪行。保罗说这种状况等同“死刑”已定,本无路可逃。然而,就在穷途末路之际,福音却出现:即便人堕落至如此地步,上帝仍愿接纳愿意悔改之人,让其通过耶稣基督的十字架得生命。凡信靠祂的,就不会灭亡,反得永生(约3:16)。 张大卫牧师反复提到,此乃我们信仰的核心真理:“只有当人知道自己是罪人,才会真正体验耶稣基督恩典的可贵。若对罪认识不深,即使听到福音,也不会有太大感动。”保罗在罗马书1章严厉揭示罪状,正是要使人看见自己的深重罪性,从而热切抓住十字架上的福音。若对罪讳莫如深,福音就只能沦为一种空洞的思想或文化,甚至变成一种个人的宗教爱好,无法释放真正的拯救大能。 总之,罗马书1章18-32节中,保罗的讯息可归纳如下:当人拒绝上帝而活在不敬虔中,随之便会出现不义和道德败坏。对此,上帝本可理所当然地发怒并施行审判,人必然陷于灭亡。然而,在绝望之际,上帝借着耶稣基督打开了救恩之门。人唯有信靠基督并悔改方能离开这条通往永刑的路,走向永生之路。这段罗马书1章的“沉重真相”并不只是消极信息,反倒更使我们看清救恩的必要与珍贵。若我们心里仍有“一点也不想把上帝放在心里”的顽梗,就应借此机会彻底拔除根源,彻底回转归向上帝。正如保罗所言,若人心里拒绝上帝,就会受到“任凭”的惩罚,下场就是灵性与道德的败坏;但若肯“把上帝放在心中”,就能在圣灵里渐渐效法基督,结出公义与圣洁的果子。 罗马书1章18-32节对罪的论述,不仅是揭露昔日外邦人的罪,也如同镜子映照今日我们时代和我们内心的黑暗。保罗在第二章、第三章会说明犹太人也在罪中,最终全人类都在上帝审判之下。因而1章18-32节更像一个“所有人类的缩影”,象征所有人都面临的困境。紧接着,罪论的结尾指向我们只有在耶稣基督里才有出路。张大卫牧师说:“当人直面自己的罪,就不得不奔向十字架。”因为上帝的忿怒是真实,但祂的爱也真实。唯有在这双重面貌的上帝面前谦卑悔改,并抓住基督的代赎,我们才能得到真正的自由与生命。 张大卫牧师也提出,这段罗马书经文对当今社会的伦理议题依然有着深远意义。比如教会内外对同性恋问题争论不休时,我们不能只停留在文化层面的支持或反对,而应回到圣经对创造秩序和上帝旨意的阐述,逐条省察。此外,经文所列的贪婪、嫉妒、纷争、邪恶、悖逆父母、残忍无情等问题,今天仍在社会层面屡见不鲜;个人与教会群体都应严肃对待。归根结底,所有罪的根源都在于“把上帝该有的位置让给了偶像”,这偶像可能是金钱、权力,也可能是个人欲望。一旦我们将受造物或任何事物凌驾于上帝之上,就已经踏上不敬虔的道路,势必引发不义,带来毁灭与混乱。 如此看来,罗马书1章18-32节与圣经整体的核心讯息一脉相承:自创世以来,人类背叛造物主,旧约中不断重演失败与审判;然而上帝却藉与亚伯拉罕立约、应许大卫后裔中要出现弥赛亚,最终在耶稣基督里成就了拯救。保罗在罗马书中把这宏大“救赎史”推向结论:先揭露人类完全堕落与无能为力,再宣告基督宝血的绝对恩典。张大卫牧师称此为“创造天地的上帝,为拯救罪人所成就的奇妙救赎故事”。 我们要同时握住“上帝的忿怒”何等可怕,以及“上帝的慈爱”何等宏大,这才能真确理解福音。罗马书1章18-32节虽展示了人类的深重绝望,然而在罗马书乃至整本圣经的脉络下,却不以绝望收场:只要人肯向上帝承认自己是罪人,并倚靠耶稣基督的救赎,就能从永刑转向永生。这样,约翰福音3章16节“叫一切信祂的,不至灭亡,反得永生”的宣告才更有光彩。《希伯来书》9章27节也提醒我们:“按着定命,人人都有一死,死后且有审判”,因此我们既应严肃对待审判,也要珍视借耶稣基督所开启的救恩。 概括而言,罗马书1章18-32节论及不敬虔与不义这罪的两面,以及罪引来的永远刑罚;但同时,这段经文又是催逼我们“回转、得救”的恩典之手。保罗之所以不畏艰险多次传道、写信给罗马教会,并在两千年来一直震撼人心,其唯一动机就是这福音大能能使人活、使人得更新,并赐下永生。张大卫牧师也提醒我们,阅读这段经文时,要祈求圣灵先开启我们看见“自己的罪”,同时也祈求能定睛“仰望耶稣基督”。如此我们才能明白保罗为何以“上帝的忿怒”这种沉重的话题作为本论开端:目的并非要消灭人,而是要让罪人彻底看清罪之严重,从而显出救恩的宝贵。 保罗在1章末了似乎只得出“所有人都无可避免地走向地狱”的结论,但整卷罗马书的终极结论却是:“然而借着耶稣基督,我们得称为义,并能享有永生”。这正是基督信仰最为震撼的翻转与张力。我们并不因自己是义人才得救,而是全靠上帝的恩典而被算为义,因此只能带着感恩与谦卑来敬拜上帝。张大卫牧师说,这才是学习罗马书的目的,也是信仰的全过程。简言之,人本当灭亡,却因耶稣基督的十字架而被拯救,有了新生命的盼望。 因此,罗马书1章18-32节的信息把我们带到两条路的抉择:要么持续排斥上帝,将最终被任凭而堕落至灭亡;要么正视上帝的忿怒,选择悔改,进入耶稣基督的恩典之中。人在自由意志里只能做这二选一:要么面对上帝,要么转身离开。若我们执意拒绝悔改,不可避免地将走向永死;若愿回转并接受福音,就能体验如保罗所宣告:“我活着就是基督,我死了就有益处”(腓1:21)的自由与生命。 由此可见,罗马书1章18-32节既讲“上帝的忿怒和审判”,又预示了“上帝的慈爱和救恩”。正如张大卫牧师指出的,本文关键在“因为不敬虔而生不义,最终引向永刑”;然而在这黑暗中,上帝仍为人预备了一条恩典之路,人可选择上或拒绝之。罗马书并未在此终结;后文将更加系统地阐释救恩。可在进入救恩教义前,保罗先让我们对罪有充分的意识:这也解释了为何保罗要用看似激烈的“上帝的忿怒”来作开场。很多人读到此处会感到不舒服,但圣经不会只说悦耳的话。为了让我们得着永生与真理,痛苦的诊断也是必要的。 最后,罗马书1章18-32节对于现今依然适用。文明或科技再发达,也无法改变一个根本问题:我们愿不愿意承认并敬拜这位上帝?张大卫牧师认为,保罗的警示在当代依旧十分紧迫:不只在同性恋或性堕落上,也在拜金主义、个人主义、各种暴力与剥削的世俗现实中,我们看到了离弃上帝之恶果。真正的出路仍然是向上帝悔改,依靠福音之大能。世上任何其他方式都无济于事,因为问题的症结在灵魂深处——一个与上帝决裂的心,就算外表做些“善事”,也终究有限。 因此,学习罗马书1章18-32节时,我们应省察自己的心灵,谦卑聆听保罗传递的福音真理。“上帝爱世人,甚至把祂的独生子赐下”(约3:16),当中蕴含的是将罪彻底剔除的救赎计划。凡信而接受,就能得永生,不再做罪的奴仆;拒绝它的人,则无法逃避永刑的后果。在这分岔路口,保罗斩钉截铁地劝诫我们选择紧紧抓住福音,而这劝诫在两千年后依旧适用。 综观罗马书1章18-32节,信息非常明晰:在人类不敬虔与不义、并被上帝公义的忿怒所定罪之际,上帝却籍耶稣基督开辟了一条救恩之门。保罗既展现了人性无可逃避的悲惨,又宣告了悲惨之中仍闪耀的救恩之光。这正是罗马书罪论与救恩论之间的关口:先问“人堕落到了何种程度”,再问“上帝如何把我们从如此深的泥潭中拯救出来”。因此,保罗以“上帝的忿怒”这样的沉重字句启程,绝非偶然,而是迈向恩典之路的必经过程。 张大卫牧师高度评价保罗撰写罗马书时的这一构思,并反复教导:“要想让福音真正成其为福音,必须先有面对罪的时刻。”若只讲讨人喜欢的安慰或道德说教,福音就容易被稀释成“宗教哲学”或“心灵鸡汤”。而保罗的做法是彻底揭露罪,好让所有人都有机会悔改,亲身经历救恩大能。由此,罗马书1章18-32节首提“上帝的忿怒”,其用意并不是置人于死地,而是要让我们站在抉择的岔路口:要么轻视并拒绝这严肃警告,继续陷在不敬虔里;要么心存敬畏而悔改,奔向耶稣基督的十字架。在那十架之下,我们才得蒙罪得赦免、称义并获得永生的确据。