動じない信仰の土台 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 疫病と人間の死に対する恐怖 人間は本来、死への恐怖を抱えて生きる存在です。詩編62編が語るように、人は時に揺れ動き、動揺せざるを得ない弱い存在であり、死の影をほんの少しでも感じると、すぐに不安にとらわれてしまいます。張ダビデ牧師は、この人間の死への恐れが疫病が流行するとき、より鮮明に現れると説教します。実際に歴史を振り返ると、どの時代でも周期的に襲ってくる伝染病の前で人々は為す術なく崩れ、恐怖に震えてきました。ヨーロッパを席巻した黒死病の際には、数多くの命が奪われ、その後も東洋と西洋を問わず周期的に発生した伝染病は、人類の歴史に大きな恐怖の痕跡を残してきました。科学や医学が発達した現代においても、突然現れるウイルスの前で世界は無力になり、人々は感染を恐れてソーシャルディスタンスを取ったり隔離に入るなど、同じ状況が繰り返されます。こうした状況が繰り返される中で、私たちはいったい何によって慰めを得ることができるのでしょうか。 特に疫病は、人間がいかに簡単に脅威を感じる存在であるかを実感させます。病にかかり命を失うかもしれないという恐怖が世界中を席巻すれば、現代人も日常で享受している豊かさを手放し、心を閉ざしてしまいます。死の淵に立たされるときに感じる恐れこそが、最も原初的な不安であることを誰もが体験する瞬間なのです。そうであるからこそ、疫病の前での不安は、単に肉体的苦痛への恐れや経済的損失への懸念だけでなく、「死が訪れたらどうなるのか」という存在論的な悩みを内包しています。傲慢だった人間が自然災害や伝染病の前で限りなく謙虚になり、自分の弱さを思い知らされるのは当然のことかもしれません。 張ダビデ牧師は、ある国で罪人を刀で首切り処刑にしようとしたとき、突然落雷が起きて処刑を執行しようとした者が逆に死んだという逸話を紹介します。この物語の焦点は「いのちは結局、神にかかっている」という事実です。死といのちの主権が完全に神にあると見つめるとき、人間の高慢は瞬く間に崩れ、自分自身で自分を守ることには限界があると告白せざるを得ません。すべてのいのちを司るのは神だというこの信仰は、聖徒たちが死そのものへの恐怖からある程度自由になることを助けます。しかし現実には、死への恐怖の前で揺れ動く人が大勢いるのも事実です。だからこそ、より重要なのは「私たちがどこに望みを置くか」という問題です。クリスチャンであれば、「わが魂よ、黙してただ神を待て、まことに私の望みは神から来るのだ」という詩編62編の言葉をしっかり握らなければならない、それが説教の大きな要点の一つなのです。 人間は動物よりも“知性”が優れていると自負しますが、ときに動物が自然の変化を先に察知して危険から逃れるのに、当の人間は気付くのが遅れて被害を被るという話が伝えられています。津波が襲来する前、海辺の動物たちが海とは反対の方へ避難するという逸話や、地震が始まる前にネズミが先に気配を察知して逃げ出すという事例が代表的です。こうした様子は不思議に見える一方で、人間が自然災害や伝染病といった危機に対してどれほど気づくのが遅く、それゆえどれだけ大きな被害を受けるのかを示しています。最終的に、人間は世界のあらゆる被造物の中で知的に優れていると自負し、高度な文明を発展させてきたにもかかわらず、疫病や自然災害の前ではやはり無力な姿をさらすことが多いのです。 この無力さを前に、私たちは改めて死の問題に直面します。人間の理性や高慢な心、そして世俗的な技術が、死を完全に阻止してくれるわけではないという事実を、まさに伝染病が蔓延するときに痛感するのです。たとえ科学がワクチンを開発し、ある程度の治療法を提示したとしても、死そのものを根本的に消し去る力は人間にはありません。歴史的に見ると、第一次世界大戦が勃発した頃、人間の理性の力を絶対視する自由主義神学が蔓延し、文明や科学、進歩を盲信する風潮が極まっていました。しかし戦争がもたらした破壊と莫大な死者は、その高慢を粉々に打ち砕き、“人間中心”の楽観主義が一瞬にして崩れ去ることを示したのです。張ダビデ牧師は、この歴史的教訓が今の私たちにも同じように有効だと語ります。人間が自分は強いと自負するその瞬間に、疫病や戦争のような大規模災害が現れることもあるのだ、と。 結局、伝染病の蔓延は、人間がいまだに自然と死の前で無力であるという事実の再確認でもあります。それは人々を「自分も死ぬのではないか」という恐怖に陥れ、日常的な集まりや行事、さらには対面礼拝など、あらゆることを萎縮させる結果をもたらします。多くの人は外出を嫌がり、社会的にはマスク着用や手洗いなどの衛生指針を義務化する動きが生まれます。特に教会もまた政府の防疫指針に従い、一定期間集まりを制限したり、オンライン礼拝を行ったりする方法を模索します。問題は、このような状況の中で信徒たちが「死を恐れて礼拝までも手放すのか」という自己点検に直面することです。もちろん、不必要なリスクを犯して信徒たちを危険に晒そうという意味ではありません。張ダビデ牧師は、私たちが政府の指針に従いつつも、主日礼拝を含む霊的生活を断ち切ってはならないと強調します。教会の本質は礼拝し神をあがめる共同体であり、疫病はいずれ過ぎ去ります。しばらく困難な時期を過ごす間に、私たちがもっと神の前で自分自身を省みるようにと示されているメッセージがあるのです。 教会の歴史と聖書を振り返ると、死の影が濃く覆いかぶさる時期であっても、神は常に人間に希望への道を示してくださいました。出エジプト記の場面で、エジプトに疫病や災いが臨んだとき、イスラエルの民は家の門柱に小羊の血を塗ることで、死の使いがその家を過ぎ越すように守られました。今の時代も改めて、いのちと死、そして神の守りについて思い巡らす機会を得ていると言えます。「いのちはすべて神にかかっている」という告白が再び私たちの口から出てくるのです。私たちは、シカやイノシシのように突然エサや隠れ家を求めて下りてくる動物たちの姿や、津波を察知して逃げ出す動物たちと同じく、「生きねば」という本能的な渇望と同時に、真の救いの箱舟、すなわち神の懐へ行くしかないことを認めるようになります。人間の高慢を抑制する道具が、ある意味で疫病であり得る、という視点に立つとき、私たちは不安と恐怖の中で一層謙遜になるべきだと張ダビデ牧師は言うのです。 突き詰めれば、死の恐怖というものは、人間の限界を最も鮮明に示す装置です。伝染病は外的環境を脅かすと同時に、内面的にも自分がいかに無力な存在であるかを突きつけます。人々はここで大きく二つの道を見ます。一つは完全に落胆して絶望する道、もう一つは神を仰ぎ見て希望を見いだす道です。聖徒は恐れを乗り越える力が、唯一神にあると信じます。詩編の記者も「わが魂よ、なぜうなだれているのか」と嘆きつつ、同時に「ただ神のみが、わが岩、わが救い、わがやぐらなるゆえに、私は揺るがされない」と告白しました。生死を司る主権が人間ではなく神にあると信じるからこそ、究極的には死ですら、その中にあっては永遠の終わりではなく、永遠のいのちへと入る門となるのだと確信できるのです。 Ⅱ. 神だけが岩であり救いである 詩編62編は、「神だけを待ち望め」という中心メッセージを何度も繰り返します。「私の魂は黙してただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」「まことに神こそわが岩、わが救い、わがやぐら、私は大いに揺るがされない」といったくだりが代表的です。張ダビデ牧師は、この詩編が死への恐れをはじめとする人生のあらゆる不安要素から、ただ神だけが完全な救いの源となる事実を強調する本文だと解説します。特に疫病の前で自分が揺れ動く存在であることを改めて思い知らされるとき、詩編の記者の告白はより切実に響いてきます。 詩編の記者は「岩(Rock)」というイメージを用いて、神こそが揺るぎなく堅固な土台であることを示します。岩は外部からのどんな衝撃にも簡単には砕けない堅さを象徴します。旧約時代のイスラエルの民は荒涼とした荒野やパレスチナ地方の険しい地形を体験し、「岩」というイメージが「安定、保護、支え」を意味することを充分に理解していました。同様に現代人にとっても、神は“岩”としての意味を持ちます。疫病が起こり、戦争が起こり、経済が揺らぐときにも、神の存在だけは揺るがない絶対的な土台となり得るという信仰です。人間が作り上げた制度や帝国は時代とともに崩壊し得ても、神は永遠に変わることのない方です。 さらに詩編の記者は「要塞(Refuge, Fortress)」という表現で、神がどのようなお方なのかを示します。要塞とは、敵の攻撃から安全を保証してくれる防御基地のようなものです。聖書の至るところで神は民の避難所や砦として言及され、信じる者が危機に直面したときに駆け込むことのできる存在として描かれています。これは単なる詩的表現ではなく、イスラエルの歴史の中で何度も繰り返し体験された実際の経験に基づく信仰告白です。疫病により死の恐怖が現実化すると、人々は本能的に自分を守ってくれる「要塞」を探します。世の方法ではもはや安全を確保できないという結論に達すると、そのとき初めて多くの人が教会や神に目を向けるようになるのです。生死を支配し、永遠の安全を保証してくださるお方は、神以外におられません。 張ダビデ牧師はヨハネによる福音書11章に目を向け、「わたしはよみがえりであり、いのちである。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる」と宣言されるイエスの言葉に注目します。イエスは友人ラザロがすでに墓に入って四日が経った頃にようやく訪れ、その遅れによって死を経験した家族は深い悲しみに沈んでいましたが、結局イエスはラザロを再び生かされました。ところがヨハネ11章35節によると、イエスは彼らの悲しむ姿をご覧になり涙を流されたとあります。これは、人間が味わう苦しみや恐れ、悲しみを主が共に感じ、その限界を痛んでくださることを示しています。その過程でイエスは、よみがえりといのちの主権者であることを宣言することで、究極的に死の力を超越する権威がご自身にあることを明らかにされています。 さらにイエスは「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない。このことを信じるか」と問いかけることで、信仰の本質を正面から提示しています。生死が全的に神の御手に委ねられているならば、人間は死の前でも永遠の希望を捨てずにいられます。イエスが死を超越されるお方であり、死の権威が彼の前で無力であるという事実を信じる者は、この世的な視点から感じる「死」という恐怖を乗り越える力を得ることができるのです。パウロもコリントの信徒への手紙一15章で「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえの棘はどこにあるのか」と死を嘲笑します。死を嘲笑するという表現は、キリストの死と復活によってすでに死の権威が廃されたと信じる信仰告白なのです。 結局、詩編62編とヨハネ11章、そしてパウロのコリント第一15章に見られる死に対する理解は一つに収れんします。神だけがいのちの主であり、イエス・キリストによって死はもはや永遠の終わりではなくなったという事実です。だからこそ、疫病が蔓延し多くの人が死を恐れていても、聖徒はそれによって完全に絶望に陥ったり、不安と恐れの中に閉じ込められてしまうべきではありません。むしろ張ダビデ牧師が語るように、このようなときこそさらに神に近づき、生死を司る方の前で謙遜になることに焦点が置かれるのです。これこそが「主だけがわが岩、わが救い、わが要塞なので、わたしは揺るがされない」という告白の現代的意義と言えるでしょう。 たとえ私たちがウイルス感染にさらされ、肉体の死を迎えることになったとしても、それが私たちの永遠の運命を決定づける終わりではないという信仰があれば、世が与える恐怖からある程度解放されることができます。もちろん、人間的な感情としてまったく怖くないというわけではありませんが、究極的には「主はよみがえりでありいのちである」ということを思い起こして心を支えることができるのです。教会はこの信仰に基づいて、「たとえ死んでも生きるいのち」についての福音を世に伝えなければならないと、張ダビデ牧師は強調します。特に疫病が蔓延するとき、不安を訴える人々には、生の福音が緊急に必要とされる時期がほかにあるでしょうか。誰かにとっては、この瞬間こそが生きる道を示される、最も重要なタイミングなのです。 こうした文脈において、詩編62編は「岩」「要塞」「避難所」という言葉で神がどのようなお方かを劇的に描写します。私たちの救いと栄光はすべて神に属するゆえ、たとえ全世界が揺れ動き伝染病が広がっても、神を仰ぎ見る私たちの望みは揺るがないというのです。「庶民たちよ、いつも神に信頼せよ。その御前に心を注ぎ出せ。神はわれらの避難所である」といったくだりのように、落胆し不安に陥っている人々に対して、私たち聖徒が伝えるべきメッセージは「もっと神に近づきなさい。私たちを救われる方はただ神だけです」という呼びかけになるでしょう。 聖書は、疫病や戦争、飢饉、自然災害などが訪れたとき、それを単なる「運の悪い出来事」として済ませるのではなく、神の前で自分たちを省みる機会にしなければならないと教えます。ソロモンが神殿を奉献した後に神が「もし飢饉や疫病が起こったら、悔い改めてわたしに立ち返るなら、その祈りを聴きこの地をいやす」と約束された部分(歴代誌下7章など)は非常に象徴的です。罪悪がはびこり、自らを高ぶらせていた人々や社会が、疫病の危機の中で神の憐れみと慈しみを求めて自白し悔い改めるとき、ようやく神はその地に癒やしをもたらされるというのです。これは現代にも通じる原理です。今日、伝染病が広がっていく時代にあって、教会と信徒たちに求められている役割は、単に肉体的な防疫対策を守るだけでなく、霊的にも自分を省みて罪を告白し、神の憐れみを願うことです。張ダビデ牧師は「こうした危機の時こそ私たちがより深く悔い改め、みことばをしっかり握り、いのちの支配者である神に駆け込むときなのです」と説教します。 詩編62編に描かれる神こそ、まさにそれにふさわしいお方です。全宇宙と全地を造られた創造主であり、歴史を支配され、個人のいのちすらも守り導かれる方。神は生と死の鍵を握っておられるので、私たちが現実的に感じる死の脅威を究極的な終結とは見なさないようにしてくださいます。信仰なくしてはこれを受け入れ難い面もありますが、一度その偉大な力と恵みを味わうと、最終的には「わが救いと栄えは神にあり、わが力の岩、わが逃れ所も神にある」という告白に至らざるを得ません。つまり、疫病やほかのいかなる災厄が私たちの限界を浮き彫りにするきっかけとなったとしても、むしろそれを神にもっと近づく踏み台にするならば、決して揺るがない霊的基盤を持ち続けることができる、というわけです。 このように、死に関する根源的問題や疫病・災厄の現実の中で、聖徒がとらえられる唯一の道は「岩なる神」であり「私の救いなる主」です。罪と死の権勢に勝利されたイエス・キリストの十字架と復活は、それを決定的に示しています。十字架は神の愛を表し、復活は神の力を証明します。伝染病の前で、人間がどれほど無力かを痛感するその瞬間においても、私たちはその愛と力を同時に握り、「私たちに対する神のご計画は善であり、永遠だ」という信仰に生きることができるのです。 Ⅲ. 教会の役割と祈り、そして実践 疫病の時代は、教会と聖徒がどのような態度を取るべきかを鮮明に示します。張ダビデ牧師はローマ書13章、すなわち「上に立つ権威に従わなければならない」という原則に則り、政府の防疫指針にきちんと従い、他者の安全にも細心の配慮をすべきだと強調します。教会がソーシャルディスタンスやオンライン礼拝への切り替えなど、現代的なツールを活用して信徒の安全と健康を図ることは、国家の法や方針をまったく無視せず、同時に信仰の本質を守るための賢明な姿勢になり得ます。ただし、その過程で主日礼拝と礼拝共同体そのものを完全に放棄する態度になってはならないという点が大切です。 信仰は公の礼拝だけでなく、生活のあらゆる領域において表れなければなりませんし、教会は世の光と地の塩としての役割を果たさねばなりません。疫病が世界中を覆い、不安が極度に達したとき、人々は霊的な安息所を求めて教会に目を向けるかもしれません。そのとき、教会が誠実に礼拝を捧げ、信徒たちが力強い信仰の中で行動し、さらに謙遜と従順な態度で社会の安全に貢献するならば、世は教会を見つめて「どうして彼らは死の恐怖の前でも揺るがされないのだろう」と疑問を抱くことでしょう。そしてその問いこそ、「ただ神こそわが岩、わが要塞、わが避難所である」という福音を明かしする絶好の機会となるのです。教会はこの使命を忘れてはなりません。 現実的には、教会の中にも不安や恐れにとらわれる信徒が大勢いるかもしれません。だからこそ、お互いを励まし合い、共に祈る雰囲気が切実に必要となります。ヤコブの手紙5章によれば、苦難に遭う者は祈り、病む者は教会の長老を呼んで祈ってもらいなさいと勧めています。お互いに罪を告白し、癒やしを願って祈るよう促す言葉もまた、共同体的なケアの重要性を強調します。「正しい人の祈りは大きな力がある」と言われますが、これは教会を通して力強く現実化され得るのです。実際、エリヤが祈ったときには3年半もの間雨が降らず、再び祈ると雨が降ったという記録(列王記上17〜18章)は、たった一人の祈りが共同体や社会全般にどれほど大きな影響を及ぼすのかを示しています。ゆえに、今まさに疫病が広がっているこの時代に、教会がまず自分たちの罪を悔い改め、この地を癒やしてくださるように祈らなければならないのです。「私たちと同じような性情を持つ」普通の人間だったエリヤですらそうであったなら、ましてイエスの御名によって祈る特権を与えられた私たちには、どれほど大きな責任とチャンスがあることでしょうか。 さらに張ダビデ牧師は、隔離生活やソーシャルディスタンスを霊的訓練の機会にすべきだと提案します。普段の忙しさに追われ、十分に聖書を読み祈る時間を確保できなかった人々が、むしろ強制的に家にとどまることで“内面をより深める時間”を享受できるというわけです。強制的にでも立ち止まる状況になったときこそ、信徒たちは神の前で自分を振り返り、罪を悔い改め、みことばによって自分自身を清める機会を得るのです。子どもたちが学校に行けず家にいる時間も、“家庭礼拝”や“親による信仰的養育”を実践する時期にすることができます。教会が公に集まれないときには、各家庭が小さな教会として機能し、みことばと祈りを絶やさずに続けていくのです。 イエスの言葉の中に「めんどりがひなを羽の下に集めようとするように、わたしはおまえたちを集めようとしたが、あなたがたはそれを望まなかった」というマタイ23章の一節があります。イエスがエルサレムを見て泣かれたその場面は、本来神がどれほどご自分の民を守ろうとされているか、彼らの罪を赦し守ってあげようとなさっているかを象徴的に示しています。ところがもし民が自ら拒むならば、神は強制的にそれを押し付けはなさいません。疫病が猛威を振るうとき、ある意味では神は私たちにもっと近づいてこられ、「私の翼の下へおいでなさい」と招いておられるのかもしれません。それにもかかわらず、教会が世俗的な価値観や恐れだけに囚われるなら、結局私たちは主の守りのうちにとどまることができません。だからこそ教会はこの機会を逃さず、「主の翼の下へ来なさい」という招きを広く伝えるべきなのです。 また、私たちが得られる実践的な教訓の一つは「謙遜」です。人間が科学や文明を誇るほど、予想外の災害の前で無力になる姿がいっそう劇的に浮かび上がってきます。インフルエンザが原因で毎年数万人が亡くなるという統計があるように、伝染病は常に身近に存在してきました。ところが大きな流行が起こると、人間は「手をこまめに洗わなければならない」という最も基本的なことから見直すことになります。どれほど文明が発達していても、「基本と原則」を守らなければ簡単に崩れてしまうという事実を思い知らされるのです。さらに、信仰者であれば「神が許されなければ、私の呼吸も一日で止まる可能性がある」ということを認めて、いっそう祈りに進むべきです。疫病にかからないためにあらゆる努力をしつつも、最終的な生死の権能が神の主権にあることを忘れない姿勢こそが、真の謙遜と言えます。 教会はこのような危機の中で、世が恐怖で混乱しているときこそ、むしろより大胆な信仰と愛を実践することで、キリストの香りを放つことができます。ただし、このときの「大胆さ」とは、防疫指針を無視したり、社会的責任を放棄して強引に集会を行うような軽率さを意味しません。政府の要請事項を守り、手洗いや適切な距離の確保などもきちんと実施しながら、それでも「礼拝と祈りはやめない」という信仰的な決断を貫くことこそ、真の大胆さです。教会は不用意に社会に反感を買うのではなく、むしろ社会が教会を通して慰めと希望を見いだすようにしなければなりません。信徒一人ひとりが自分は「地域社会を代表する存在」であるという責任感を抱いて、心を閉ざし恐れている隣人たちに福音と愛を伝えることに力を注ぐべきです。 特に張ダビデ牧師は、「たとえ死んでも生きる」という主の言葉を全幅で信頼しなければならないと、繰り返し説教します。実際に死ぬかもしれないという可能性が、伝染病の時代にはいっそうリアルに突きつけられるとき、私たちは自問せざるを得ません。「私は本当に、死んでも生きるいのちを信じているのか?」「死の向こう側にある復活の希望を見つめているのか?」 これは観念的な宗教ではなく、生死がかかる現実の中で初めて胸に刻まれる真理です。教会がこの希望を握って揺るがないとき、世は教会に宿る霊的な力を目撃することになります。その目撃こそが、福音伝播の決定的なきっかけになるのです。 結局、疫病の時代は教会がさらに目を覚まして祈り、この世がどこへ向かえば真の平安と救いを得るのかを示すときです。信徒一人ひとりは自らの罪を悔い改め、生活を清め、家族と共にみことばを学び祈る中で、霊的なリバイバルを体験することができます。そしてこれが深まると、疫病が過ぎ去った後には、さらに堅固になった信仰共同体として世に道標を示すことになるでしょう。「主こそわが岩、わが要塞、私は決して揺るがされない」という告白が、スローガンではなく実際の生活の証しとして表されるようになるからです。こうして変えられた教会は、疫病前には当然と思っていた集会や礼拝、奉仕への尊さを新たに発見し、隣人を仕える愛と伝道の情熱を改めて回復することで、世は教会を通して神の国の現実と希望をうかがい知るでしょう。 要するに、張ダビデ牧師は疫病が蔓延する状況から感じる死の恐怖と人間の弱さを深く認識しつつも、それを超える希望がただ神にのみあることを宣言します。「わたしはよみがえりであり、いのちである」と言われたイエスの言葉を握り、詩編62編の告白を通して、神だけが真の岩であり要塞であることを心に刻むようにと勧めています。同時にヤコブの手紙5章の勧めに従って、教会が目を覚まして祈り合い、互いに罪を告白し、病んでいる人のために祈るなら、「正しい人の祈りは大きな力がある」と信じて実行しようと呼びかけます。政府の防疫方針や社会秩序を尊重しながらも、主日礼拝の本質を失わず、この困難な時期をむしろ霊的成熟と福音伝達の機会とすべきだと強調しています。そうすることで教会と聖徒は、「死が終わりではない」という復活の希望を世に示す光と塩の役割を十分に果たせるのです。何よりも私たちは、生死のすべてが神の主権にあることを覚え、このようなときこそ、いっそうへりくだって主の御前に伏し求めるべきです。そうするならば神がこの地をいやし、教会をいっそう堅固に立たせてくださるという信頼が、私たちのうちに芽生えるでしょう。世が恐れに支配されるとき、教会は散らされた人々やまだ信じていない人々に対しても福音の門を開け放たねばなりません。主の岩の上に立つ者は決して倒れないという、このシンプルでありながら力強い事実を証しすること──まさにそれこそが、疫病の時代に私たちが召された理由であることを忘れてはならないのです。

The Foundation of an Unshakable Faith – Pastor David Jang

I. Epidemics and the Fear of Death Human beings inherently live with the fear of death. As Psalm 62 reminds us, people are fragile, prone to wavering and trembling at times, and when even the slightest shadow of death appears, they can quickly become consumed by anxiety. Pastor David Jang points out in his sermon … Read more

흔들리지 않는 신앙의 토대 – 장재형목사

Ⅰ. 역병과 인간의 죽음에 대한 공포 인간은 본래 죽음에 대한 공포를 안고 살아가는 존재다. 시편 62편의 말씀이 들려주는 바와 같이 인간은 때로 요동치고 흔들릴 수밖에 없는 연약한 존재이며, 죽음의 그림자가 조금이라도 느껴지면 곧바로 불안에 사로잡히곤 한다. 장재형목사는 이 죽음에 대한 인간의 공포가 역병이 돌 때 더욱 선명하게 드러난다고 설교한다. 실제로 역사를 살펴보면, 어느 시대나 주기적으로 찾아온 전염병 앞에서 사람들은 속수무책으로 무너지고 두려움에 … Read more

Après la Croix – Pasteur David Jang

1. Le monde de repos qui s’ouvre après la Croix et le sens de la Loi Le pasteur David Jang souligne, en méditant profondément sur le passage de Jean 19.31-42 décrivant la situation immédiatement après la mort de Jésus-Christ, que l’événement de la Croix ne s’achève pas simplement dans la tragédie d’une mort. Il insiste … Read more

十字架之后——张大卫牧师

1. 十字架之后所开启的安息世界与律法的意义 张大卫牧师在默想约翰福音19章31-42节中耶稣基督受死之后的情景时,强调十字架事件并非只是一个悲剧性的死亡终结。尤其是经文里提到的“那日是预备日”(参约19:31)和“那安息日是大日”这两句描述,格外意味深长。这不仅表明耶稣受死时正值星期五,也就是安息日的预备日,而且也特别标示出那日恰逢逾越节的预备日。根据犹太人的历法,一天是从傍晚六点开始计算,因此耶稣是在星期五白天被钉十字架;在日落之前,无论从律法层面还是犹太传统层面,都不能容许尸体仍悬挂在十字架上。 申命记21章23节有这样的规定:“被挂在木头上的人是被神咒诅的,你不可把他的尸首留在木头上过夜,总要当日将他埋葬,免得玷污了耶和华你神所赐你为业之地。”犹太人严格遵守这一点,因此耶稣与他同钉的两名犯人若未死去,必须在日落前处理好尸体。他们便向彼拉多请求,为了让受刑者迅速死去,可以打断他们的腿骨。与之相对,罗马人的做法常常是让犯人长时间挂在十字架上,有时甚至连尸体也不收殓,任凭野兽啃噬。然而犹太人在安息日和逾越节之前,为避免“玷污圣地”,宁可采用打断腿骨这样残酷的方式,求得罪犯迅速死去。 张大卫牧师在此特别指出,犹太人这种做法中显露的“矛盾”与“悖谬”。他们以“守律法”为由,要对已在十字架上承受极端痛苦的人再施残忍,表面看来是要恪守安息日、守护土地的圣洁,实际上却完全没有明白“安息”和“圣洁”的真义。他说,这些人只是“抓住律法的外壳,却失落了真正的生命之道”。他们所热衷维护的律法,只停留在外在的仪式层面,而不知那背后神的心意与爱,更不认识在其中所蕴含的弥赛亚恩典。 然而矛盾之中也有奇妙的神圣安排。正是在他们这“形式化律法遵守”的催逼下,耶稣基督更早地结束了在十字架上的生命,从而成就了祂成为“逾越节羔羊”的救赎历史。约翰福音明确记载:“耶稣的骨头没有被打断。”(参约19:36)这正呼应民数记9章12节所言:“不可折断逾越节羊羔的骨头”,以及出埃及记12章46节:“一只羊羔的骨头,你们一根也不可折断。”由此可见,耶稣虽然死在十字架上,但祂的骨头并未折断,正应验了旧约逾越节的预表。祂成了真正的逾越节羔羊,完全满足和应验了律法全部的要求。从此,旧约祭祀制度所带来的赎罪之途不再需要,人类在祂的死与复活中获得新的救恩与真安息。张大卫牧师强调,受难的“星期五”与“安息日”之间并不是一个割裂的空隙,而是在耶稣基督里,我们被引向真正的安息。耶稣的死并非仅仅意味着黑暗与绝望,反而预示着对人类的真安息之邀请的揭幕。 犹太人为了严格遵守安息日,特设了“预备日”,以便在安息日之前将一切都准备好;因为在安息日那天,他们不愿做任何工作。张大卫牧师指出,这种“彻底的预备日遵守”本身并无过错,若是真正怀着敬畏与分别为圣的心,确实是一种可贵的信仰态度。但他们的问题是,只停留在“形式上的律法遵守”,丝毫不关心钉十字架之人所经历的痛苦,更无视那位真正的弥赛亚已降临在他们中间。于是,我们看见,他们一方面努力想要“守住安息日的神圣”,另一方面却不断催促当局加快耶稣的死,让祂立刻从这个世界上消失。这种自相矛盾的宗教热忱,也反映了今日不少人的状态:表面上看似虔诚,却与神的心意南辕北辙,甚至践踏基本的人性与怜悯。张大卫牧师指出,这是一种“宗教伪善”的现实写照。 士兵们按照犹太人的要求,打断了与耶稣同钉的两位犯人的腿;但当他们来到耶稣面前时,见祂已经断气,就没有再打断祂的腿,却以长矛刺透了祂的肋旁,约翰说:“随即有血和水流出来。”(约19:34)张大卫牧师强调,这“血与水”并非仅仅是医学或生理现象,而包含深刻的神学与属灵意义。血代表赎罪,水象征洁净与生命。在教会传统里,血与水常被视为圣餐(血)与洗礼(水)的意象,表明耶稣的受死同时赐给我们永远的赎罪之恩与洁净之恩。血与水的流出,意味着十字架的救赎不仅是一次性的历史事件,更是基督里面新生命的源头。张大卫牧师在此特别提醒我们,正因为这血与水同出,我们今天才可藉着洗礼重生,藉着圣餐与主联合。 另外,其他福音书提到圣殿的幔子“从上到下裂为两半”(可15:38等),张大卫牧师解释说,这象征神与人之间那层阻隔已被彻底拆毁。在旧约里,进入至圣所并不是随时都能进行,即便是大祭司也只可在特定的日子(如赎罪日)才能进去。但耶稣的十字架之死扯裂了这幔子,使我们能够坦然无惧地靠着耶稣的血进入圣所(参来10:19)。因此,十字架事件是神人与好、赐下真正安息的关键转折点。耶稣于安息日前一日受死,所带来的却不再是“律法型安息”,而是“弥赛亚型安息”——人可以在罪与死的权势中被释放,坦然无惧地与神亲近。张大卫牧师指出:“这样,我们就不再受制于外在的仪文,而是在基督里进入神真正的安息。” “他们要仰望那被他们刺透的人”(参约19:37)这句话,约翰引用了撒迦利亚书12章10节——预言弥赛亚将被刺透,子民要因祂哀痛。约翰福音指出,耶稣被士兵用枪扎透肋旁,正应验了撒迦利亚的预言。张大卫牧师由此强调,耶稣的受死并非偶发或意外事件,而是早已在旧约中预言且被神预定的救恩安排。即便那是最残酷的刑罚,最终却与圣经的预言一一契合:祂的骨头未被打断、肋旁被刺出血与水、救恩应许得以完全成就。这些都成为耶稣确系真弥赛亚、世人唯一救赎者的确凿证据。 归根结底,张大卫牧师要我们看到:耶稣死后被埋葬这件事并非“完全结束”,反而是“通往复活与安息的全新开始”。耶稣在星期五(预备日)受难,安息日停留在坟墓中,而在安息日过后拂晓即将到来之际便复活了。祂的复活不仅仅是祂个人的复活,更是为所有信祂的人打破罪的锁链、胜过死亡权势、敞开永远安息之门的重要事件。在这里,张大卫牧师也发出挑战:“我们今天是否还像这些犹太人,只是执着于律法条文与形式,却失去了神的心意,成为定罪和排斥他人的工具?我们是否口口声声知道基督的十字架之爱与复活的喜讯,却仍抓住外在形式,无法进入真正的安息与自由?”张牧师呼吁人们进入耶稣所赐的“新安息”,这是神为我们预备的真救恩,是旧约预表的完成,也是真正蕴藏在基督之内的生命。 2. 亚利马太的约瑟与尼哥底母,以及真正服事的道路 张大卫牧师在讲解约翰福音19章38-42节时,特别关注了亚利马太的约瑟与尼哥底母如何安葬耶稣的过程,指出这背后蕴含着深层意义。在耶稣传道大受欢迎时,这两位曾是“暗中”的门徒。亚利马太的约瑟是公会成员,尼哥底母也是犹太公会的官员,曾在夜间秘密来见耶稣(参约3章)。他们身居犹太宗教领袖阶层,不敢公开承认耶稣是弥赛亚,唯恐失去名望地位,引来巨大麻烦。 然而十字架事件之后,他们作出了勇敢的决定。他们请求彼拉多把耶稣的身体交给他们,并将祂安放在新的坟墓里,还准备了约一百斤(约合30-35公斤)没药与沉香的混合香料,用细麻布把耶稣的身体仔细裹好,郑重地安葬。张大卫牧师称之为“虽迟来的服事,却是勇气可嘉、令人感动的奉献”。要把一个被罗马处死的人的尸体领回并尊严地安葬,意味着极大的风险。罗马当局可能会注意到他们的举动,犹太领袖也会严加指责,民众或许会唾弃他们。但亚利马太的约瑟和尼哥底母仍然“不顾惧怕”,向彼拉多坦然提出请求,并用极隆重的方式为耶稣送终。约翰福音强调那是“一座从来没有葬过人的新坟墓”,这与旧约关于丧葬方式有明显对比:耶稣并没有被草草埋在某个已经使用过的坟墓里,而是获得了干净、全新的安息之所。这一点也为复活的事实提供了见证和依据。 张大卫牧师指出,他们所用的香料数量之大、材料之珍贵,几乎是王侯贵族下葬时才有的规格,象征了他们对耶稣的崇敬。然而,在耶稣尚活着的时候,这些宗教精英们并没能公开跟随或帮助祂;当耶稣在公会中被审讯、被罗马巡抚判死刑时,他们也没能站出来为祂辩护或作证,只是在耶稣死后才“用坟墓和香料表达他们的尊敬”。张大卫牧师将之称为“错过时机的奉献”,但也肯定他们并未完全放弃“服事主”的心。在耶稣完全被钉死之后,他们还是选择了实际行动。 在这里,张大卫牧师提到了与此相映的一群妇女。其他福音书提及,耶稣在世时,那些妇女曾为祂奉献衣物或贵重的香膏,甚至在耶稣被钉十字架时也一直跟随祂。她们是在耶稣尚且活着时就倾注爱心与物质奉献,直至十字架脚下,毫不退缩。相比之下,亚利马太的约瑟与尼哥底母则是在危险之时退缩,直到耶稣死后才挺身而出。谁的奉献更宝贵呢?张大卫牧师说:“当然两者都宝贵,只是时机不同。然而在耶稣还在世、还能接受爱的安慰与支持的时候就行动,会更直接地使主心得到安慰,也更符合神所喜悦的信心之路。”一个人在过世之后,无论我们如何为他举行隆重的葬礼,对当事人本身来说,都已无从体验那份安慰;但人在世时所给予的爱与奉献,却能带来最真实的温暖与祝福,同样也能使主的心喜乐。 因此,张大卫牧师提醒:“我们对那位复活的主,也应当在‘当下’就回应祂。”耶稣已在两千年前死而复活,如今仍然活着,若我们真信祂、敬拜祂,就当在“现今”将爱心与顺服显明出来。现在也有不少基督徒与当年的亚利马太约瑟、尼哥底母相似,因惧怕世人眼光、顾虑身分地位,而不敢积极地为主作见证;只在一些局势已定或得不到指责时,才说“我其实很敬重祂”。但那样往往为时已晚。等到人离世后才拿着鲜花去追悼或表示缅怀,虽说也能表达心意,却失去当面相交的可贵机会。张牧师强调:“我们当前所能献给主最尊贵的东西,正是在祂‘活着’并且‘与我们同在’的此刻去实行的服事。” 然而,也不应因此全然贬低亚利马太约瑟和尼哥底母的举动。尽管确实来得稍晚,但他们仍然把握住最后的机会,作出了勇敢的奉献。看到耶稣在十字架上倾尽血和水,为人舍命,他们最终跨越了恐惧,去见彼拉多。这一选择绝非易事:公开尊崇一位刚被罗马处以最羞辱刑罚的人,可能会让他们的政治、宗教身份蒙受严重损失。但他们不再顾忌这些,因为他们看见了“这真是神的儿子、弥赛亚”。张大卫牧师说,正是十字架的“吸引万人的力量”(参约12:32),使他们放下身段与利益算计,只余下单纯的信心与表白。 同时,他们并没有预料到复活的结局。所以他们细心包裹耶稣的身体,准备大量的没药和沉香,却没想到三天后耶稣要从死里复活,使这些殓葬用品完全变得“多余”。这也正彰显了复活的震撼——神的计划超越人的所有想象和预备。张大卫牧师说:“人可以为一具死尸预备再多的香料和细麻布,但在复活的大能面前,这些都显得多余。然而神也不会让这份心意徒劳无功,祂珍视这一切真诚的奉献。”后来在约翰福音20章,耶稣从那座坟墓里走出来,与门徒相见,只余下那叠好的细麻布留在墓中。亚利马太的约瑟和尼哥底母用最隆重的方式安置耶稣的尸体,却被主用更大的神迹——“从死里复活”——所翻转。 这也引出张大卫牧师常作的对比:“死的信仰”与“活的信仰”。他说:“如果我们的信仰生活只停留在礼仪、制度、崇拜的形式中,而并没有与复活的主建立真诚的关系与顺服,那就像给耶稣的尸体包裹香料和细麻布一样,终究只是对‘死后’的尊崇,是空洞的宗教举动。”我们也可以每天上教会、参加礼拜、奉献金钱,但若不是真因爱主、相信主而甘心乐意地摆上,这一切只是外表的仪式。真正重要的是:“我们的敬拜与奉献,是对那位今时今日仍然活着的主、真实地与我们同在的主所作出的回应。”哪怕我们奉献得不多,看似微不足道,只要是在主“活着”并“看顾”我们的时刻里所献上的,主必悦纳。 与此同时,张大卫牧师也补充:“亚利马太约瑟和尼哥底母并没有因为过去错失了机会,就陷入自责而一蹶不振;他们在所剩的时刻中,仍尽力付出了最好的奉献。”在神的恩典之下,他们的抉择和勇气被载入圣经,成为永远的见证。同样,我们也许曾错过许多向主献上顺服与爱的机会,但主仍然给我们回转的时间。有人是在年少时就信主,有人是在晚年才决志归主。人虽有不同的阶段,但只要我们愿意在十字架与复活面前“回归”主,都会得到神的怜悯。关键在于“当下”的决定。张大卫牧师说:“趁我们现在还能喘气、还能听见福音、还能思考神的话,就应当把自己的一切献给祂,这样就不算太晚。” 约翰福音里一再提及“新坟墓”的意义。张大卫牧师认为,这是为了突显耶稣的复活与其他尸骨不会混杂,毫无争议地显示祂的空坟墓,更显出复活的真实性与独特性。倘若那个坟墓先前埋过别人,就容易滋生疑问。但神的安排让耶稣下葬于“从来没有葬过人的新坟墓”,复活的事实因此更清晰明了。另外,他也指出:“新坟墓”暗喻“新创造”。耶稣虽然进入了死亡,但祂却从墓中再次出来,宣告不朽的永生。对信祂的人而言,这也象征了“在基督里成为新造的人”(参林后5:17),是福音真理的核心场景。 因此,约翰福音19章31-42节不只是一段关于耶稣死后处理尸体的叙述,其中浓缩了诸多奥秘和反转。十字架与安息日之间,虽然是耶稣躺在墓中的日子,却隐含着血与水所带来的救赎生机,也凸显了两个向来“暗中跟随”耶稣的人在最后时刻作出的勇敢服事。耶稣在十字架上完成了律法,成为真正的逾越节羔羊,把咒诅与审判的象征之木变为恩典与救赎之标记。亚利马太的约瑟和尼哥底母则让我们看到:“要么选择趁主还活着时就抓住机会奉献,要么就在最后关头依然鼓起勇气,但无论如何,人都需要对主作出实际回应。”他们的故事也提醒我们,当今的敬拜,若只是一味陷于仪式或守旧的宗教形式,恰似用香料与细麻布处理已死的身体,失去了“与活的主同行”的精髓。 张大卫牧师最后总结道:基督徒应当同时记住两条实践路径。第一,不要停留在“律法的外在遵守”,而要在生活中实践十字架的爱。犹太人虽然极其注重安息日和预备日的礼节,反倒因为这种表面功夫,行出残暴之举。可见若不与神的怜悯和真理结合,再“虔诚”的宗教操练也可能沦为残酷的迫害工具。第二,要“敬拜并奉献给那位仍然活着的主”,切勿失去宝贵的当下时机。亚利马太的约瑟和尼哥底母最终还是向耶稣献上诚挚的敬意,却也留下了“若能更早一些见证主就好了”的遗憾。更蒙福的是那些妇女,早在耶稣行走之时就爱祂、服事祂,并且在十字架前不离不弃。 所以,约翰福音19章31-42节向我们展示的,不是耶稣殒命后绝望的终局,反倒是召唤我们看见真安息和复活的新生已经在黑暗当中开始酝酿。张大卫牧师说:“当主在十字架上断气之时,生命之门已然开启;当主在坟墓里安息之时,复活和新安息的未来已被预备。”若我们到现在还拒绝耶稣、或仍然在虚假的敬虔中畏缩不前,就应当趁着还有机会,赶紧把自己最珍贵的奉献摆上。在这既严肃又充满盼望的关口,张牧师再次提问:“我们要像亚利马太约瑟和尼哥底母那样在最后关头才‘大动作’吗?还是要及时抓住当下,向活着的主献上真正的爱与顺服,以使祂心得慰?”无论如何,迟来的献上也被神接纳,但主更渴望我们今日就进入祂的复活生命,领受复活的喜乐,以具体可见的爱来回应祂,以此在每一个平凡的时刻里分别为圣,过真正的安息生活。 这正是约翰福音第19章所传递的福音精髓,是所有相信并站立在十字架与复活盼望之下的信徒每日该反复默想的真理。张大卫牧师通过这段信息,再次指向核心:十字架上的耶稣已经完成救赎,而那空坟墓宣告了祂的得胜。我们若已经领受了十字架的恩典,就不应该再迟疑,乃要当下就活在祂的复活生命里。那才是融汇了律法真义、充满圣灵更新,并且合乎神心意的敬拜和生活之道。愿我们都能回应这呼召,把心和生命真正献给那位死而复活、今仍长存的主。

十字架の後 ― 張ダビデ牧師

1. 十字架の後に開かれる安息の世界と律法の意味 張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書19章31~42節に描かれたイエス・キリストの死後の状況を深く黙想する際、十字架の出来事が単なる悲劇的な死で終わらないことを強調する。特に本文にある「その日は準備の日であり」「その安息日は大いなる日であった」との言及が示唆的だと述べる。これはイエスが亡くなられた時点が金曜日、すなわち安息日の前日であるだけでなく、とりわけ過越の祭りの準備日でもあったことを示している。当時のユダヤ人は夕方6時から一日が始まるため、金曜日の日中にイエスの処刑が行われ、日没前までに遺体が十字架にかかったままでいることを律法上も伝統上も認められなかった。 申命記21章23節には「木にかけられた者は神に呪われた者」と規定され、たとえ呪われた者であろうと、その遺体を夜通し木に掛けてはならず、その日のうちに降ろして地を汚すなというおきてがあった。ユダヤ人たちはこれを厳守していたので、イエスとともに十字架につけられた罪人たちの遺体を日没前に処理しようと、まだ息がある者の足を折ってでも早く死に至らせてほしいとピラトに要請したのである。ローマの慣習では、罪人を十字架に長く放置し、ときには遺体を埋葬させず猛獣の餌として放置することもあった。しかしユダヤ人にとっては、安息日と過越の祭りを目前に控えた“聖なる地”をそんな状態で汚すわけにはいかなかったため、死にきっていない罪人の足を折るという残酷な方法を選択したのだった。 張ダビデ牧師は、ここに表れるユダヤ人たちの逆説的な姿に注目する。彼らは律法を守るという理由で、すでに十字架で極度の苦痛を受けた者たちをさらに残酷に扱おうとしたのだ。表向きには安息日を守り、土地を聖く保つという宗教的熱心を示しているが、実際には「安息」と「聖さ」の真の意味を全く理解せず、人間性を失った暴力的行為を続けていた。特に張ダビデ牧師は、彼らを「律法の殻だけを握りしめ、本当のいのちの道を見失っている者たち」と評する。彼らが徹底的に守ろうとしていた律法は、外面的な儀礼レベルにとどまり、神の御心と愛、そしてメシアの恵みがこもる真意を理解できていなかったというわけだ。 しかし皮肉にも、イエス・キリストは彼らの「形式的な律法遵守」という要求の下で早めに死を迎えられたことによって、結果的に「過越の小羊」としての贖いのみわざを成就されることとなる。ヨハネの福音書は「イエスの骨は折られなかった」と明確に記す。これは民数記9章12節の「過越の小羊の骨を折ってはならない」、また出エジプト記12章46節の「小羊の骨を折ってはならない」という過越の規定がイエスのうちに成就したことを示している。十字架で死に至ったが、その骨が折られることはなかったイエスは、律法全体を成就する真の過越の子羊となられたのだ。その死によって、もはや旧約のいけにえ制度は必要なくなり、罪人には新たな救いの道と安息の世界が開かれる。張ダビデ牧師は、ここで「金曜日の苦難」と「安息日」が断絶した出来事ではなく、イエスにあって真の安息へと導く過程であることを強調する。イエスの死はただの闇と絶望で終わるのではなく、人間を真の安息へと招く序幕となるのだ。 ところで、ユダヤ人たちは安息日を厳格に守るために「準備の日」を活用した。安息日にはいかなる「仕事」もしないように、安息日の前日(金曜日)を準備日と定め、万全の用意をするようにしていた。張ダビデ牧師は、この「徹底した準備日遵守」自体は本質的に悪いことではないと説明する。実際、安息日を本当に目覚めた心で準備し、聖別する姿勢は優れた信仰態度とも言えるだろう。だが彼らの問題は、その準備日を守る行為があくまで「形式的な律法遵守」にとどまり、十字架につけられた人々の人間的な苦痛や、イエスこそ真のメシアとして来られたことを全く考慮していなかった点にある。結局、彼らは一方では安息日を聖く守ろうと躍起になりながら、他方ではイエスを早く殺して取り除くべきだと主張する自己矛盾に陥っていたのである。今日的にたとえれば、「表面的には信仰生活を熱心にしているように見えても、実際には神の御心を少しも思わず、人間性を踏みにじる宗教的偽善」とでも言える姿だと張ダビデ牧師は指摘する。 兵士たちはユダヤ人の要求に従い、イエスの両隣で十字架につけられた二人の罪人の足を折った。そしてイエスにも同じ処置をしようとしたが、すでに息を引き取っているのを確認した。そこである兵士がイエスのわき腹を槍で刺したところ、「血と水が流れ出た」とヨハネは証言している。張ダビデ牧師は、ここで「血と水」が単なる医学的・生理学的現象では説明できない、重要な神学的・霊的意味をもつと強調する。血は罪の赦しを、そして水は清めと命の象徴を示す。教会の伝統では、これを洗礼(水)と聖餐(血)の意味として理解してきたが、イエスの死が私たちに永遠の贖いと清めを同時にもたらすことを示しているのだ。また、その血と水が流れ出た事実は、十字架の代償が単なる出来事で終わるのでなく、キリストにあって新しい命を生み出す源となることを物語っている。張ダビデ牧師は、血と水が流れ出た出来事によって、私たちがイエス・キリストのうちに洗礼によって新生し、聖餐によって交わりを得る恵みにあずかったのだと力説する。 また、他の福音書が「聖所の垂れ幕が上から下まで裂けた」と記録していることについて、張ダビデ牧師は、この垂れ幕の裂け目こそが、神と人間の間を隔てていた壁が打ち壊されたことを示すと教えている。旧約時代、至聖所に入る道は大祭司であってもいつでも入れるわけではなく、贖罪日など定められた時だけだった。しかしイエスの十字架の死によって、その仕切りが破られ、今やイエスの血によって大胆に聖所に入ることができる道が開かれた(ヘブライ10章19節)。このように、十字架の出来事こそが神と人間との和解を成し遂げた決定的な出来事であり、真の安息はこの和解によって可能となる。つまりイエスが安息日の前日に死なれたことによって、私たちには律法的安息ではなく「メシア的安息」、すなわち罪と死の力から解放されて神との親しい交わりを得る真の休みが与えられた、と張ダビデ牧師は説く。 「彼らはその突き刺した者を見るであろう」(ヨハネ19:37)という言葉も、ゼカリヤ書12章10節の引用であり、メシアが刺し貫かれ、その姿を見て嘆く民の予言がなされていた。ヨハネの福音書は、十字架でイエスのわき腹が槍で突き刺されたことによって、このゼカリヤの予言までもが完成したのだと示す。張ダビデ牧師は、ここからイエスの死が突発的または偶然的な出来事ではなく、既に旧約に予言されていた救いの摂理であることを力説する。十字架という最も凄惨な死に遭われながら、その方法と結果が神の言葉の通り「骨は折られず」「わき腹は刺されて血と水が流れ」「ついには予言が成就」に至った事実は、イエスこそ真のメシアであり人類の贖い主であることを示す確かな証拠なのである。 結局、張ダビデ牧師は、十字架の後にキリストが死に葬られたこの出来事自体が「完全な終結」ではなく、むしろ復活と安息へと続く「新たな始まり」であることを読者に見落とさないよう促す。金曜日の準備日に十字架にかけられたイエスは、土曜日の安息日には墓にとどまられ、その安息日の後の夜明けに復活の出来事が起こる。これは単なるイエス個人の復活ではなく、イエスを信じるすべての者の罪の鎖と死の力が解き放たれる永遠の安息の道が開かれた出来事であるというのだ。ここで張ダビデ牧師は読者に問いかける。「私たちはいまだに律法の形式にとらわれ、人を裁き排斥する位置にいないか? 主が成し遂げた十字架の愛と復活の命の喜びを知りながら、いまだに外面的なものに縛られ、主の真の安息を享受できずにいるのではないか?」 そしてイエスがもたらしてくださった「新しい安息」に入るべきであり、それがすなわち神が備えておられる真の救いであり、旧約のひな型が完成した実体、イエスにある命なのだと改めて確認させる。 2. アリマタヤのヨセフとニコデモ、そして真の仕えの道 張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書19章38~42節に登場するアリマタヤのヨセフとニコデモの姿を通して、イエスの遺体を葬る過程が何を意味するのかを深く探る。イエスの公生涯期間中、人々の注目を集めていた時期でさえ、彼らは公にイエスに従えなかった「隠れた弟子」だったと言える。アリマタヤのヨセフはサンヘドリン(ユダヤ最高議会)の議員であり、ニコデモもユダヤ人の指導者として夜中にこっそりイエスを訪ねた人物(ヨハネ3章)であった。彼らはユダヤ教の指導的立場に属していたため、イエスを公然と支持したり、イエスこそメシアであると告白するのは難しかった。いわゆる「宗教エリート」として、イエスを擁護すれば面目を失い、深刻な不利益を被る可能性があったからだ。 しかし十字架の出来事の後、彼らは大きな決断を下す。ピラトのもとへ行き、イエスの遺体を下げ渡してほしいと直接願い出て、まだだれも葬ったことのない新しい墓に安置し、没薬と沈香を混ぜ合わせたものをおよそ百リトラ(約30~35kg)にもなる量で用意し、その遺体を亜麻布で包んで心を込めて葬った。張ダビデ牧師は、この場面を「遅れてはいるが、勇気のある美しい献身」と呼ぶ。十字架で完全に処刑された人の遺体を引き取ること自体、大きなリスクを伴う行動である。ローマ当局の視線、ユダヤ指導者たちの非難、群衆の激しい批判にさらされるかもしれなかった。だがアリマタヤのヨセフとニコデモは「恐れを押して」ピラトのもとへ行き、イエスを運んで盛大な葬りを行ったのだ。ヨハネの福音書は、「イエスの墓が新しい墓だった」と強調するが、これは旧約時代の死者の葬られ方とは対比的な意味合いもある。イエスに対しては、いわゆる「中古の墓」ではなく、清い新しい墓が用意され、そこに葬られたことが、イエスの復活の出来事を紛れもなく明確に示す根拠ともなった。 張ダビデ牧師は、彼らが用意した香料の量や亜麻布が、王族や貴族の葬儀で見られるような豪華なレベルだった点にも目を向ける。実際、30~35kgもの没薬と沈香は、並大抵の人物ではあり得ない大量のもので、イエスをそれほど「尊いお方」として扱ったことを象徴する。一方で、こうした誠実な礼遇が葬りの時点でようやく行われたという事実には、ある種の惜しさも残る。イエスが生きておられたとき、彼らは目立った援助ができなかった。イエスがサンヘドリンで尋問を受け、ピラトに引き渡され死刑宣告を受ける場で、少なくとも議員の一人として弁護に立ったり、イエスの無罪を証言する行動が取れたはずだった。しかし彼らは恐れゆえに、自分の体面や地位を失うリスクを負えず、隠れたり沈黙していた。そしてイエスが亡くなって初めて、墓と香料を用意することで、自分たちの信仰と尊敬の念を表した。張ダビデ牧師はこれを「時期を逃した献身」と呼びつつも、それでも「主に仕える道」を最後まで放棄しなかった点を高く評価する。 この文脈で張ダビデ牧師は、生前のイエスに「一続きに織られた下着」(ヨハネ19:23-24)を差し出した女性たちの物語にも思いを巡らせる。他の福音書の並行箇所では、イエスのそばで仕えていた女性たちが、どのようにイエスに香油を注ぎ、衣服を用意したかにも言及されている。女性たちはイエスが生きておられる間に、惜しみなく愛と物質を捧げ、イエスが十字架で処刑されるその場までも最後まで付き添った。それに対してアリマタヤのヨセフとニコデモは、危険が高まるや否や隠れてしまい、イエスが亡くなったあとになってようやく姿を現した。どちらの方がより尊い献身だろうか。張ダビデ牧師は「もちろんどちらも大切だ」としつつも、「生きておられる主に対して時期を逃さず直接的にお世話や献身をする方が、はるかに尊い信仰の道である」と語る。誰かが世を去ってしまってから、どんなに立派な葬儀や墓を設えても、当人はすでにこの世にいないのだから、実のところその慰めは大きくない。しかし生きているうちに捧げられる愛と献身は、当人に直接的な喜びや慰めをもたらし、主もまたその献身を喜ばれるというわけだ。 張ダビデ牧師は「私たちの信仰も復活の主に対して現在形で応答すべきだ」と力説する。イエスは2,000年前にすでに死んで復活されたが、今も生きて働かれるお方として私たちは信じ、礼拝しているのなら、その信仰の実践は「今、ここで」現れるべきだというのだ。今日でも多くの人がアリマタヤのヨセフやニコデモのように、周囲の目や体面を気にして、主に対する積極的な献身を後回しにしたり隠して生きている。そして状況が大きく変わったり、いざ誰かが亡くなってしまうと、後になって花束を持ち「その方を本当に尊敬していた」と告白する。ところが、その時にはすでに遅すぎるのだ。生きている間に伝えられなかった感謝や愛はあまりにも惜しく、真実な交わりの機会は失われてしまう。そこで張ダビデ牧師は「私たちが持っている貴いもの、イエスに捧げうる最も尊い仕えは、今この瞬間にこそ実行されるべきである」と教える。 とはいえ、だからといってアリマタヤのヨセフとニコデモの行いを全面的に卑下すべきではない。たとえ遅くなったとはいえ、彼らが示した「勇気ある葬りの仕え」は、十字架を目の当たりにした後にもたらされた真実な悟りの実りでもある。イエスが十字架の上で血と水を流し尽くすほど徹底的にご自身をささげられたことを知り、彼らは恐れを乗り越えてピラトのもとへ出向いた。それは決して容易い選択ではなかった。十字架刑を受けた人物を公に尊び扱う姿勢は、宗教指導者・議員という自分たちの身分に致命的なダメージを与えかねなかった。しかしそれでも「この方こそ本当に神の子であり、真のメシアだった」という告白が心の奥底から湧き上がり、どんな不利益があってもイエスの遺体を尊く扱うべきだと決断したのだ。張ダビデ牧師は、この選択こそ「すべての人を引き寄せるキリストの力」(ヨハネ12:32)であると説明する。キリストの犠牲の前では、人の地位や体面、利益計算などは色あせ、結局は真実な信仰だけが残るのである。 さらに、彼らはイエスの復活を予測できていなかった。そのため亜麻布や没薬、沈香といった埋葬のための用品をふんだんに準備したものの、イエスは三日後に復活され、事実上それらは「必要なくなってしまう」。これは復活の出来事の驚きであり、神の救いの摂理がいかに人間の予想を超えるかを示す。張ダビデ牧師は「人間は死んだ遺体に対して最上の香料や葬りの衣を用意したとしても、復活の力の前ではそれらすべてが過剰供給となる」と語る。とはいえ、こうして「不要となった」献身さえも神は虚しく捨てることはなく、その人の思いと奉仕を尊く受け止めてくださる。結局、ヨハネ20章でイエスはその墓からよみがえられ、弟子たちに姿を現し、墓の中には畳まれた亜麻布だけが残される。アリマタヤのヨセフとニコデモは死後のイエスを最高の敬意をもって葬ろうとしたが、イエスは墓を破って出られることで「死の葬り」そのものを無力化なさったのである。 この出来事は、張ダビデ牧師が強調する「死んだ信仰 vs. 生きた信仰」の対比を連想させる。彼は「もし私たちの信仰生活が、ただ儀式や制度、礼拝の形式にばかりとらわれ、実際には生きておられる主との交わりと従順がないなら、それはイエスの遺体に亜麻布と香料を包んで差し上げる『死後の礼遇』にとどまる宗教行為にすぎない」と警告する。教会へ通い、礼拝に参加し、献金を捧げるあらゆる行為が、本当に復活のイエスを信じ、愛して行う「生けるいけにえ」(ローマ12:1)でなければ、結局は形だけで終わってしまう。ゆえに私たちに必要なのは、「いまだ生きておられるイエス、今も働かれる主の御前に捧げる実質的で現在的な献身」なのである。それがたとえ小さく、一見地味に見えるものであったとしても、主は生きておられる間に捧げるその仕えを大いに喜んでくださる。 同時に、張ダビデ牧師は「アリマタヤのヨセフとニコデモも決して『遅すぎた』と嘆いて終わったわけではなく、自分たちに与えられた機会の中で最善を尽くして献身した」と言う。そして神の恵みの中で、彼らの決断と勇気は聖書に永久に記録された。私たちもまた過去に機会を逃して悔やむことが多々あるかもしれないが、主は今この時にでも心を翻し、主の御前に進み出る決断を受け取ってくださる。人によって信仰のきっかけやタイミングは異なるが、結局、十字架と復活を通して主のもとへ「戻る道」こそが、真理と命に至る道なのだ。大切なのは「今」である。張ダビデ牧師は「まだ息があるうち、そして福音を聞けるこの時に、生ける主に自分の人生と心をささげる礼拝と献身の場へ踏み出すべきだ」と強く語る。 一方、本章で強調される「新しい墓」の象徴性にも目を向ける必要がある。ヨハネはわざわざ「まだだれも葬ったことのない新しい墓」と表現しているが、張ダビデ牧師は、これがイエスの復活が他のどんな死とも混じり合うことなく、ただイエスの力とみわざによって示されるように用意された背景だと述べる。もし既に誰かが使っていた墓であったなら、復活の事実をめぐっていろいろな疑問や誤解が生じる余地もあったかもしれない。だが主は、ほかの誰とも混同のしようがない「新しい墓」で復活されることによって、その復活のリアリティと唯一性を証されたのだ。さらに張ダビデ牧師は、「新しい墓」が象徴するのは「新しい創造」の恵みでもあるという。イエスは死の場を墓へと進んでいかれたが、そこから再び生きて出てこられることで、朽ちない永遠の命を指し示された。それはイエスにあって私たちが「新しい被造物」(Ⅱコリント5:17)となるという福音の核心を視覚的に示した場面だと言える。 こうしてヨハネの福音書19章31~42節は、イエスの死後に起こる出来事を詳細に描く一方、その中に驚くべき逆説と恵みを内包している。金曜日の受難と安息日のはざまには「絶望」があるのではなく、「キリストの血と水が流れ出る贖いのみわざ」と「隠れた弟子たちの遅きに失した勇気と献身」が浮き彫りにされているのだ。十字架で死なれたイエスは、律法を完成する過越の小羊となられ、人々が気づいていなかった安息の実体となられ、裁きと呪いの象徴だった十字架を救いと恵みの象徴へと逆転させられた。また、アリマタヤのヨセフとニコデモの仕えは、私たちに「いまだ生きておられる主にささげるべき献身」を思い起こさせるとともに、「たとえ時期を逃してしまっても、今からでも立ち返れば神は受け入れてくださる」という慰めと励ましのメッセージをも与えてくれる。 張ダビデ牧師はこの本文を締めくくりながら、信仰者が取るべき態度を二方向で提示する。第一に、「外面的な律法遵守」にとどまらず、十字架の愛を実践的に生きること。安息日準備日を厳格に守りながら、イエスと隣の罪人たちの足を折れと命じたユダヤ人の姿は、宗教的熱心が人間性を損なう可能性を示す恐ろしい教訓を与える。ゆえに信仰は律法の本質である「愛」をつかむとき、初めて完成される。第二に、「生きておられる主を見失わない礼拝と献身」を捧げること。アリマタヤのヨセフとニコデモのように遅くなってから主を探し求める姿にも学ぶことは多いが、それ以上に、女性たちが示したように、生きておられる主イエスに今まさに私たちの心と時間、そして物質を惜しまず捧げることこそが、はるかに尊い信仰の道だ。それは形だけの宗教を越えて、復活のいのちと直結する「生けるいけにえ」の礼拝であり、主が最も喜ばれる礼拝の姿勢だ。 結局、ヨハネ19章31~42節は、キリストの十字架と死が決して絶望の終わりではないことを私たちに悟らせると同時に、今日を生きる信仰者たちが真の献身の時期と対象を逃さないように促している。張ダビデ牧師は「主が十字架で死なれたとき、すでにいのちの門が開かれた」と語る。また「主が墓にとどまられたとき、すでに復活の新しい歴史と新しい安息が備えられていた」と言う。そして「もし私たちが今、イエスを排斥したり、イエスへの完全な献身をためらっているなら、これ以上遅くならないうちに、生きておられる主に私たちの大切なものをささげるべきだ」と強調する。これこそがヨハネ19章全体が語ろうとしている福音の真髄であり、私たちがキリストの十字架の前に立ち、復活の希望のうちに握るべき真の信仰の道なのである。 張ダビデ牧師はこのメッセージを結論として、改めて問いかける。「私たちはアリマタヤのヨセフやニコデモのように、遅れての後悔を抱えながら大きな献身をするのか、それとも生きておられるイエスに感謝と愛を今捧え、その御心を喜ばせるのか?」遅れての献身も恵みのうちに尊く用いられるが、主は今日、生きておられるその方と共に歩み、愛を実践することを私たちに望んでおられる。十字架の恵みを既に受けた私たちであれば、もう先延ばしにせず、復活のいのちの中に喜んで入り、主の御旨に従う実践的な愛によって準備日と安息日、そして私たちの全生涯を聖別するべきである。こうしてこそ、律法の真髄である「愛」を握り、イエスがくださる新しい契約の恵みにあずかり、聖霊のうちに日々新しくされる真の礼拝者の生き方が可能となるのだ。これこそ、張ダビデ牧師がヨハネの福音書19章31~42節の説教を通して力強く伝える中心的メッセージであり、すべての信仰者が日々噛みしめるべき福音の真髄なのである。

Después de la Cruz – Pastor David Jang

1. El significado de la Ley y el mundo del descanso que se abre tras la Cruz El pastor David Jang señala que, al meditar profundamente en Juan 19:31-42 sobre lo que sucede después de la muerte de Jesucristo, la crucifixión no termina simplemente como una trágica muerte. En particular, hace hincapié en la expresión … Read more