要爱惜光阴 —— 张大卫牧师

以下内容根据张大卫牧师事工和讲道的核心要义,以五个主题为中心加以整理而成。整篇文章既保留了其教义性又兼具实际性的讲道脉络,并展现了他对教会群体与世界宣教的热忱是如何有机地融合在一起的。通过综合考察张大卫牧师的牧会现场、讲道特点以及圣经教导,本稿旨在帮助读者从更宽广、更深刻的角度领会上帝所赐的属灵教训与生活准则。 在整体的讲道语境中,张大卫牧师特别强调像“以琳国际(Elim International)”这一类国际性事工所扮演的核心角色,注重服事包括二代、青年和多民族在内的各个群体,并为下一代带来异象、传扬福音。这不仅提醒我们不要只安于教会内部,同时也要将使命扩展到地极,让人看见福音所带来的永恒价值与实际生活的更新。本篇文章将聚焦五个核心主题,追随张大卫牧师的教导,这五个主题分别是:要爱惜光阴的劝勉、关于永恒与时间的圣经洞察、对圣灵充满的强调、对赞美与感恩本质的阐述,以及对救恩异象与使命的展望。这五大主题彼此紧密联系,作为贯穿整体讲道与事工展开的关键,并相互补充。 一、要爱惜光阴的劝勉 “要爱惜光阴”这一主题基于以弗所书第5章15节以下的经文,提醒我们时光飞逝,绝非可以随意浪费的资源。世俗常说“时间就是金钱”,而圣经对时间的教导却具有更深远的意义。希腊原文中被翻译成“爱惜”的词,实际上蕴含“赎回”或“挽救”的含义,这在讲道中常被特别强调。也就是说,我们浪费在世俗中的人生时段,需要在福音里重新找回和挽救。 张大卫牧师在引用《传道书》时指出,“虚空的虚空”并非仅仅是消极的叹息,而是正视时间有限、人生脆弱的契机。《传道书》的作者劝勉青年人在年少时要记念造物主,同样地,我们也应当珍惜岁月,在神的旨意中活出有意义的人生。面对人生无常与时光飞逝,不应停留在虚空的认知,而应当带着敬虔的心、背负使命来“赎回”每天所领受的时间。这是在张大卫牧师的讲道里被大力倡导的核心信息。 二、关于永恒与时间的圣经洞察 “要爱惜光阴”的教导进一步引向人虽然怀念永恒,却依然受制于时间的事实。对永恒与时间的洞察,在重温《传道书》所言“虚空”内涵的同时,也让我们看见人终将面临死亡。然而基督信仰指出,在死亡之后仍然有永恒的盼望。《传道书》第12章提到,人在尘土归于尘土、灵归于神之前,要记念造物主。此提醒教导我们:无论此生多么短暂、多少虚空,只要在信仰中,就必须预备自己进入永恒。 张大卫牧师提及“迦拿婚宴”的比喻,阐明上帝预备了比现在更美好的酒,象征着神对我们未来的眷顾。死亡不再只是一场悲剧或终结,也可视为“旅行结束后回到父家”的景象。他还讲解《约翰福音》第11章中主耶稣的宣告——“信我的人虽然死了也必复活;凡活着信我的人必永远不死”,这宣告所蕴含的永生与复活信仰,为当下的生活带来极大的再解释力量。我们虽在时间之中,却同时也属于永恒的国度,因此对世界与人生将会有完全不同的视野。 三、对圣灵充满的强调 衔接永恒与时间的关键之一,便是在讲道中屡次被提及的圣灵充满。在以弗所书第5章18节,保罗劝勉信徒“不要醉酒,酒能使人放荡,乃要被圣灵充满”。张大卫牧师通过对比“酒醉”与“圣灵充满”,提及初代教会信徒刚被圣灵充满时,一度被误以为是喝醉了,足见当时的喜乐和热切之火。然而这并非单纯的兴奋情绪或短暂的愉悦,而是从罪与死亡的辖制中得到真正释放后,那份源自深处的自由与喜乐。 同时,“圣灵充满”并非靠人的功德或资格,而是神所赐予的礼物——我们只需“领受”就好。正如五旬节时,门徒藉着圣灵的降临而得着胆量和喜乐,并且满怀宣教的热情。如今,只要带着渴慕之心,圣灵同样会在每个愿意被充满的人身上动工。张大卫牧师在讲道中强调,这份圣灵充满会在敬拜和群体生活里,自然而然地流露为赞美与感恩。正如以弗所书第5章19节所说,“当用诗章、颂词、灵歌彼此对说”,圣灵充满的教会便会自然迸发出赞美与感恩,弟兄姐妹在一起时就能充满喜乐,以爱和鼓励彼此建造。而且,圣灵充满所带来的日常生命转变,也成为宣教的动力,推动教会把福音扩展到地极。 四、赞美与感恩的本质 正是在这一点上,我们进一步体会到赞美与感恩的重要性。张大卫牧师反复教导:对得救之人而言,最自然而然的反应就是“赞美”与“感恩”。因我们完全是靠神的恩典得救,无论境遇如何,都能歌颂神、称颂祂的美善。正如以弗所书第5章20节所说,“凡事要奉我们主耶稣基督的名,常常感谢父神”,感恩正是对救恩感动最自然的回应。 自初代教会起,圣徒们就以诗歌、赞美、灵歌来分享团契的喜乐,这不仅是音乐活动,更是凝聚群体、同颂神荣耀、彼此坚固信心的重要敬拜行动。张大卫牧师指出,要让教会在灵命上活泼成长,赞美和感恩必须在信徒之间积极流动。他回顾教会历史时,也常提到诗班和敬拜团队在教会中具有祭司般的角色,鼓励敬拜服事者带着将祭献给神的心志来事奉。当个人在神面前经历的恩典以赞美和感恩之情传扬出来时,整间教会也会因着分享这份恩典而更加丰盛地经历圣灵的工作。 五、救恩异象与使命 所有主题的最终焦点,都指向“救恩的异象与使命”。张大卫牧师常引述罗马书第8章18节,保罗在此宣告:“现在的苦楚,若比起将来要显于我们的荣耀,就不足介意”。尽管世界黑暗而痛苦,神所预备的荣耀却大到无法相提并论。接着,罗马书第8章19节提到“受造之物切望等候神的众子显现”,进一步说明了大公性的救恩观:自从亚当犯罪以后,不只是人类,连所有受造之物都在叹息,渴望等候得释放之日。张大卫牧师强调,这与基督徒的使命息息相关。身为神儿女,我们不应只满足于自己的得救,而是要参与神恢宏的救赎计划,一同带给世界恢复与拯救。 他提及创世记第6章里“神的儿子们和世人的女子”结婚而导致人类堕落的场景,说明当被拣选的神的子民被世俗诱惑而失去本来身份与使命时,终将带来洪水审判般的悲剧。张大卫牧师将此旧约教训应用于当代教会和信徒,提醒我们不可陷入世俗化、婚姻混乱或道德沦丧,而要时刻警醒。 在这样背景下,彼得前书第2章9节所言“惟有你们是被拣选的族类,是有君尊的祭司,是圣洁的国民,是属神的子民”就成为他讲道中的另一核心。既然我们是属神的子民,就当彰显神的美德,向人宣扬把我们召出黑暗、入奇妙光明者的作为。这“君尊的祭司”身份意味着我们要在世上传扬福音,并指引人们从罪恶与捆绑中得释放。张大卫牧师强调,这不仅是个人使命,也是一种必须延展至全球、全教会共同承担的普世性任务。马太福音第28章19-20节的“大使命”,正是要我们把此呼召带给万族万民。 透过长期的事工,张大卫牧师在世界各地宣教、植堂,并见证了无数神奇的圣灵同在。他也经常鼓励年轻人、二代、青年群体投身于宣教与福音传播,借此在世界各地举办退修会和研讨会。他见证:每当教会在一个地方扎根,当地社会就逐渐改变,福音大能更能改变个人生活与家庭关系。如此看来,救恩异象与使命不仅关乎个人得救,也指向整个社会与文化,乃至全人类之福音之扩张。 贯穿整篇讲道与事工的主线 综合来看,张大卫牧师通过这五大主题,既呼唤每一个信徒个体,也呼唤整间教会在实践上有所回应。“要爱惜光阴的劝勉”唤醒我们意识到时间稍纵即逝;“永恒与时间的关联”则引领我们超越死亡与虚空,仰望神永恒的计划;“圣灵充满的强调”指向真正的能力与喜乐在于神白白赐下的恩典;“赞美与感恩”是得救之人理所当然的表达,并激活教会更深的恩典;最后,“救恩异象与使命”更是召唤我们把福音传播到世界各地,让万民都能认识基督。 这也正与主耶稣所颁布的普世宣教使命相连,当福音真正在多元文化、多种语言的群体中被领受时,生命与环境就开始被翻转。这五大主题因此与张大卫牧师的国际化、多元化事工相互印证:它们并非只停留于教义或标语,而是真正落实在事工与生活中,并已在各国各地结出累累硕果。 实际应用与挑战 以上所整理的五大主题,最终都呼唤信徒付诸实际行动。比如:谨记“爱惜光阴”的教导,每日警醒地在神面前检视时间运用;藉由默想永恒与时间的关系,超越人生虚无,追求永恒价值;渴慕圣灵充满,在敬拜中满溢喜乐与感恩;让赞美与感恩浸润日常生活,无论在教会、家庭、职场都要荣耀神;并以救恩异象与使命为指导,从身边小地方开始,逐步面向社区乃至地极去传扬福音。张大卫牧师再三强调,如此生活并非一蹴而就,而是靠着每日不断的顺服与忠心,以及圣灵的帮助方能实现。因此,他鼓励信徒多多投入祷告、读经、团契,同时积极参与教会所开展的国内外服事和宣教机会,以便共同成就这份托付。 从这一层面回望我们的生活,当一个在救恩喜乐中重生的人不断成长,也就能在教会、社会乃至万邦之中产生真正的福音见证。当救恩与永恒的盼望在个人心中越发清晰,圣灵充满也更加鲜活地在敬拜与日常里彰显,赞美与感恩文化将在信仰群体中流动,令教会成为世上的光与盐。而张大卫牧师所推动的国际事工,也正因为深根于这五大主题,才能在全球范围稳固扩展。 总结 整体而言,张大卫牧师的讲道主要围绕以弗所书第5章、罗马书第8章等经文展开,涵盖了人生的时间与永恒、圣灵的工作、赞美与感恩,以及救恩与使命的统合性理解。“要爱惜光阴”的劝勉让人意识到生命短暂且无常,同时又激励我们以福音和圣洁的生活来充满余下的岁月;强调“永恒与时间的和谐”则指向超越死亡与虚无的天国盼望;“圣灵充满”的信息则劝勉教会求得真正的能力与喜乐;“赞美与感恩”是蒙救恩者的特权与义务;“救恩异象与使命”更进一步指出教会必须在普世范围内传福音、拓展神国度。 这些主题对今天的信徒仍极具现实指导意义。我们可以将“每天作计划并思考如何讨神喜悦地使用时间”的习惯纳入日程,持续默想《传道书》、《诗篇》、《罗马书》、《以弗所书》等经文,培育对永恒的眼光;在敬拜中渴慕圣灵带领,而不只拘泥于形式,学会与教会共同分享赞美与见证;可以通过记录感恩日记等方式,培养对细微恩典也心存感激的生活态度;同时,我们还应踏出舒适圈,响应教会的社区服务或海外短宣机会,将自己“君尊祭司”的身份真实地运用于实践。张大卫牧师常强调:“当我们尽上所能,圣灵就会补足我们的不足,最终成就神所要的果子。”这正是我们不虚度岁月,而是在神丰盛恩典中生活的核心动力。 由此可见,贯穿张大卫牧师讲道的五个核心主题——“要爱惜光阴的劝勉、对永恒与时间的奇妙调和、圣灵充满、赞美与感恩,以及救恩异象与使命”——无不彰显着神宏大却具体的旨意。无人能逃脱时间的流逝,也无人能回避死亡的极限,但借着耶稣基督的降世拯救,神已为我们打开通往永恒的盼望,并指示了崭新的生活方式。被圣灵力量所充满的人,会组成一个常常赞美、时刻感恩的敬拜群体,并与万物一起朝向真正的释放和自由。在“君尊的祭司”这一呼召之下,我们被差遣成为世上的光、传扬福音、带领更多人成为神的子民。这正是张大卫牧师长期投入全球宣教和青少年事工的具体实践,也是诸多国家和地区在福音大能中经历改变的印证。 最后通过这五大主题,我们得以一瞥张大卫牧师讲道所展现的基督信仰之宽度与深度——既让听众在永恒与时间之间省察自我,又引导我们忆起被神所托付的使命,呼吁我们将福音传至地极,并在日常敬拜生活中常常活在圣灵充满的喜乐和感恩里。这种呼唤跨越时代、永不过时,对今日的读者而言同样是宝贵的激励与挑战。而最为关键的,乃在于切实的顺服与行动。当我们用心默想相关经文,并在生活所有层面践行所领受的信息,必能亲身经历神所预备的丰富恩典、喜乐以及对永生国度的深切盼望。愿我们也都能在这样的旅程中,获得持续的更新与成长。

時を惜しめ – 張ダビデ牧師

以下の文章は、張ダビデ牧師の働きと説教全般に表れている核心的内容をもとに、五つのテーマを中心に整理したものである。本文は、教理的でありながらも実践的な説教の流れと、教会共同体ならびに世界宣教への熱意が有機的に示されるように再構成した。張ダビデ牧師の牧会現場と説教の特徴、そして聖書の教えを総合的に考察し、神が与えてくださる霊的教訓と人生の指針をより広く深く理解できるように導く文章である。 説教の全般的な文脈において、張ダビデ牧師はエリム・インターナショナルのような国際的な働きの中心で、第二世代や青年、多民族を包括する宣教活動を強調し、次世代に向けたビジョンと福音伝播に力を注いで教えている。これは、教会の内側にとどまらず、世界の果てにまで広がっていく使命を喚起すると同時に、福音が私たちに示す永遠の価値と具体的な生活の変化を共に示すためである。本稿では、五つの核心的テーマを軸に張ダビデ牧師の教えをたどっていく。その五つのテーマとは、「時を惜しめ」という勧め、永遠と時間に対する聖書的洞察、聖霊の満たしに関する強調、賛美と感謝の本質、そして救いのビジョンと使命である。それぞれのテーマは相互に結び付き、全体的な説教と働きの展開過程において、互いを補完する重要な鍵の役割を果たしている。 まず、「時を惜しめ」というテーマは、エペソ人への手紙5章15節以下を土台とし、時間がいかに速く過ぎ去るか、そしてその時間が決して無意味に流されてよいものではないという事実を思い起こさせる。世の中でも「時は金なり」と言われるが、聖書が語る時間はさらに深い次元を持っている。ギリシア語で「惜しむ」と訳されている言葉は実際には「贖う」あるいは「救い出す」という意味を含んでおり、説教の中でその点が強調されることが多い。つまり、私たちがこれまで浪費してきた人生の時間を、福音のうちで回復していく必要性を示唆しているのだ。張ダビデ牧師は伝道者の書を引用しながら、「空の空」と繰り返される告白は単なる悲観的な宣言ではなく、時間の有限性と人間の弱さを直視させる契機だと説く。伝道の書の著者が青年たちに「若い日に創造主を覚えよ」と勧めているように、私たちも時を軽んじることなく、神の御心のうちに意味ある人生を送るように招かれているのだ。むなしさやあっという間に過ぎ去る時間の流れを知ったうえで立ち止まるのではなく、与えられた時を敬虔な心と使命感をもって贖い取るようにと説教の中で特に強調される。 「時を惜しめ」という主題は、人間が永遠を慕いながらも時間の中に生きているという事実にもつながっていく。永遠と時間に関する洞察は、伝道者の書が語る「空しさ」の本質を再確認させると同時に、人間が最終的には死に向かう存在であること、しかしキリスト教は死の先にある永遠の世界への希望を提示することを教える。伝道者の書12章は、塵が元の土に戻り、霊が神に帰る前に創造主を覚えよと語る。これは、この地上の人生がどれほど速く、どれほどむなしく過ぎ去ろうとも、信仰のうちに私たちが永遠の世界を準備すべきであることを思い起こさせる教えである。張ダビデ牧師は、カナの婚礼の比喩を取り上げながら、今よりも優れたぶどう酒を備えてくださる神の摂理こそが私たちの未来だと示す。死を単なる悲劇や終末としてではなく、「遠足を終えて父の家に帰ること」にたとえられるというのだ。ヨハネによる福音書11章にある「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。生きてわたしを信じる者は決して死なない」という御言葉を通して、キリスト教が宣言する永遠への希望と復活の信仰は、現在の人生を再解釈する強力な原動力になる。結局、私たちは時間の中にありながらも、永遠に属する存在として召されているがゆえに、まったく異なる次元から世界と人生を見つめることが可能になる。 そして、永遠と時間をつなぐ架け橋として説教で欠かせない核心が「聖霊の満たし」という概念である。エペソ人への手紙5章18節は「酔ってはいけません。それは乱行のもとです。むしろ御霊に満たされなさい」と語る。張ダビデ牧師は、酒に酔うことと聖霊の満たしを対比させることで、初代教会の信徒たちが聖霊を受けたとき、周囲の人々に「酔っているのでは」と誤解されるほどの喜びと熱い情熱を経験した事実を思い起こさせる。これは単なる興奮や一時的な快楽ではなく、罪と死から解放された魂が享受する根本的な自由と喜びである点が強調される。また、聖霊の満たしは人間の功績や資格ではなく、神が与えてくださる賜物として「受け取る」ものであることも説かれる。ペンテコステの聖霊降臨によって、弟子たちが聖霊による大胆さと喜び、宣教への熱意を得たように、現代に生きる私たちのうちにも、聖霊を慕い求める者には同じ御業が与えられるというのだ。説教では、この聖霊の満たしが、礼拝と共同体の交わりの中で賛美と感謝として表現されるプロセスが強調される。エペソ5章19節「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合いなさい」の勧めのように、聖霊に満たされた教会は自然に賛美と感謝を分かち合うようになる。集うと喜びに溢れ、互いに愛と励ましを注ぐ共同体になるのだと張ダビデ牧師は語る。聖霊の満たしは日常生活を変え、何よりも宣教の原動力となって地の果てにまで福音を届ける力をもたらす。 ここで、賛美と感謝の重要性が改めて浮き彫りとなる。救われた者にとって最も自然な反応は賛美と感謝だということが、張ダビデ牧師の一貫したメッセージである。全き神の恵みによって救いを得たのだから、どのような状況にあっても神をほめたたえ、その善き御性質を歌うことが可能だというのだ。エペソ5章20節が「いつでも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」と語っているように、感謝は救いの感激からあふれ出る当然の結果である。初代教会の時代から、信徒たちは詩と賛美と霊歌を歌いながら共同体の喜びを共有してきた。それは単なる音楽活動にとどまらず、賛美を通して共同体が一つとなって神に栄光を帰し、互いの信仰を高め合う大切な礼拝行為である。張ダビデ牧師は、教会がいきいきと健全に成長するためには、賛美と感謝が活発に行き交わねばならないと説く。教会史において、聖歌隊や賛美チームが祭司的な役割を担ってきたことを想起させながら、賛美の奉仕者はまさに神にいけにえを捧げる心構えで献身するべきだという。個人の恵みの体験が賛美と感謝として表されるとき、教会全体もその恵みをともに味わい、さらに豊かな聖霊の働きを体験できるというのである。 こうしたすべてのテーマの頂点には、「救いのビジョンと使命」がある。張ダビデ牧師がローマ人への手紙8章18節以下を頻繁に取り上げる理由は、現在の苦しみはやがて現れる栄光に比べれば取るに足りないというパウロの宣言にある。世がいかに暗く苦しい状況であっても、神が備えておられる栄光がどれほど偉大であるかを悟るなら、小さな苦難にも希望を失わずに生きられる。続くローマ8章19節の「被造物は神の子たちの現れを待ち望んでいる」という御言葉は、説教の中で宇宙的な救済論へと広がる。アダムの罪以来、人間だけでなくすべての被造物も呻きながら、その解放の日を待っているというのがパウロの教えだが、張ダビデ牧師はこれがキリスト者の召命と深く結びついていると述べる。神の子どもとして召された私たちは、自分自身の救いだけに満足する存在ではなく、世界を回復し救う神の壮大な計画に参加する使命を負っているのだ。創世記6章にある「神の子たち」と「人の娘たち」の結婚による堕落の場面を例に挙げながら、選ばれた神の民が世の誘惑に屈服することで、いかに大きな裁きが下されるかを旧約聖書から示す。ノアの時代の洪水による裁きは、特別に区別された者たちが世の風潮に流され、アイデンティティを失ったときに訪れる悲劇的結末を象徴する。張ダビデ牧師は、この教訓を現代の教会と信徒に適用して、私たちも世俗化や結婚の乱れ、道徳的な崩壊へと陥らないよう目を覚ましているべきだと強調する。 そうした文脈で、ペテロの第一の手紙2章9節に登場する「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王のような祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」という宣言が説教のもう一つの核心となる。神の民となった私たちには、高貴な身分とともにそれにふさわしい責任が与えられる。驚くべき光へと導いてくださった神の素晴らしいみわざを告げ知らせることが、まさにその責任であり召命なのだ。王のような祭司として生きることは、この世で福音を宣べ伝え、罪と圧迫から解放される道を示す役割を含意する。張ダビデ牧師は、これが単に一人ひとりのクリスチャンの使命であるにとどまらず、全教会、さらに全世界へと広がる共同の使命だと力説する。マタイによる福音書28章19節から20節にある大宣教命令は、結局のところ、この召命をあらゆる民族に宣べ伝えよという宣言なのである。張ダビデ牧師は長年の働きを通じて、世界各地で福音を伝え、教会を設立する際に、聖霊の御業がいかに不思議に伴うかをしばしば証しする。多くの若者や第二世代、青年たちもまた、この宣教と福音伝播の働きに参加するよう励まされており、そのために世界各地で修養会やカンファレンスが開催されている。教会が建てられると、その地域社会が少しずつ変容し、福音の力が生活や家庭を変革する光景が現れる。こうして救いのビジョンと使命は、個人の救いを超えて社会や文化、人類全体へ福音を拡大していくことをめざしている。 説教と働きの流れを総合してみると、張ダビデ牧師はこの五つのテーマを通じて、信徒一人ひとりと教会共同体に具体的な実践を促していることがわかる。「時を惜しめ」という勧めは、瞬く間に過ぎ去る時間の大切さを喚起し、永遠と時間の関係は死とむなしさを超える神の永遠のご計画を示す。聖霊の満たしの強調は、酒に酔うような世俗的な喜びではなく、真の自由と力をもたらす神の賜物として私たちを導く。賛美と感謝は、救われた者の生活において最も自然にあふれ出る反応であり、これによって共同体はさらに深い恵みの場へと招かれることが繰り返し説かれる。最後に、救いのビジョンと使命は、自分自身の救いにとどまらず、この世に向かってイエス・キリストの福音を宣べ伝え、神の国を拡大していく務めを示す。それはすべての国々に福音を伝えよという大宣教命令に通じており、実際に多種多様な文化や言語圏に属する人々がキリストの福音を受け入れ、変化していく現場は、このビジョンの生き生きとした結実として見いだせる。 結論として、この五つのテーマは張ダビデ牧師の説教を貫く根本的な骨格であり、同時に個々の信仰的成長と共同体の成熟に欠かせない重要要素である。それぞれの領域でしばしば特定の聖書箇所が引用され、強調されるのは、説教の構造が常に聖書の御言葉を中心に据えており、神の御国の視点からこの世界を眺めるように導くからである。さらに、これらのメッセージは過去のある時代にだけ有効な真理ではなく、現代社会の入り組んだ問題や混乱の中にあっても、確固たる方向性を示すという点に説教の強い説得力がある。教会の内部にとどまらずグローバルな舞台へと広がり、次世代を起こすために多くの働きを展開する張ダビデ牧師の活動は、これら五つのテーマが単なる教理や標語に終わるのではなく、実際の働きと生活によって具体化されていることを明示している。 こうして整理された五つのテーマは、信徒たちに対して具体的な適用を促すものでもある。「時を惜しめ」という教訓を握りしめ、毎日神の御前で時間を点検する。永遠と時間を黙想しつつ、むなしさを乗り越え、永遠の価値を追い求める。聖霊の満たしを慕い求め、礼拝の場で喜びと感謝に満たされる日々を送る。また賛美と感謝によって日常を満たす体験を通して、教会や家庭、職場のどこにおいても神を崇めることができる。さらに、救いのビジョンと使命に従い、小さな実践から始めて地域社会や地の果てまで福音を伝えようとする姿勢を持つ。このような生き方は、一朝一夕に成就するものではなく、日々の従順と忠誠、そして聖霊の助けによってのみ可能であると、張ダビデ牧師は繰り返し説く。だからこそ、信徒は祈りと御言葉、交わりに励み、教会が行う国内外での奉仕や宣教の機会に積極的に参加することで、その使命を共に果たしていけるのだと教えている。 こうした文脈で人生を振り返ると、救いの感激のうちに回復された個人が、教会共同体や社会、さらには諸民族に至るまで、善き影響をもたらす真の福音の証人となることがわかる。救われた恵みと永遠への希望が明確になるほど、聖霊の満たしが礼拝と日常を通して現実化していくほど、感謝と賛美が絶えることのない共同体の文化が形成されるほど、教会は世にあって光と塩の役割を全うできる。張ダビデ牧師が強調する全世界的な働きも、これら五つのテーマにしっかりと根ざしているからこそ揺らぐことなく拡大できるのだ。 まとめると、張ダビデ牧師の説教はエペソ5章やローマ8章などを中心に、人生の時間と永遠、聖霊の働き、賛美と感謝、そして救いと使命に関する統合的な理解を提示している。「時を惜しめ」という教えは、人の人生が短く、あっという間に過ぎ去る事実を悟らせるとともに、残された時を福音と聖なる生き方で満たすようにと強く招く。永遠と時間の調和を重視する説教は、死とむなしさを超える神の国の希望に焦点を合わせ、聖霊の満たしのメッセージは教会に真の力と喜びを求めるようにと促す。賛美と感謝の強調は、救われた者が当然に享受すべき霊的特権であり義務であり、救いのビジョンと使命は、教会が世界のさまざまな場所で福音を携えて献身すべき理由を明確に示す。 これら五つのテーマは、信仰生活の具体的な指針となりうる。毎日の仕事や計画を立てる際に神の御心にかなうよう時間を用い、伝道者の書や詩編、ローマ書、エペソ書などの聖書箇所を継続して黙想することで永遠の視点を学び取る。形だけの礼拝に終わらず、聖霊の導きを求めて共同体と共に賛美と証しを分かち合う。感謝ノートをつけて小さな恵みにも賛美で応答する習慣を身につける。さらに地域での奉仕や海外の短期宣教に参加することで、神が委ねられた王のような祭司の使命を実践してみる。張ダビデ牧師は「私たちにできるすべてを尽くすとき、聖霊が私たちの足りない部分を補ってくださり、ついには神が望まれる実を結ばせてくださる」という確信を信徒たちに与えている。これが人生を軽々しく浪費せず、満ちあふれる恵みの中を歩ませてくれる説教の中心的原動力であるといえよう。 結びとして、張ダビデ牧師の説教を導く五つのテーマ――「時を惜しめ」という勧め、永遠と時間の不思議な調和、聖霊の満たし、賛美と感謝、そして救いのビジョンと使命――は、神の偉大かつ具体的な摂理を私たちに示している。誰もが時の速い流れから自由ではなく、死という限界を避けることはできないが、イエス・キリストによってこの地上に来られた神の救いは、私たちに永遠の希望と新たな生き方をもたらしている。聖霊の力を帯びた者たちは、賛美と感謝にあふれる礼拝共同体を築き上げ、全被造物が待ち焦がれる解放と自由へ向かって共に歩むことになる。王のような祭司として呼び出された私たちは、この世のあらゆる場所で光を放ち、福音を宣べ伝え、神の民を増やす使命を負っている。まさにそこに、張ダビデ牧師が長年取り組んできた世界的な宣教活動や、次世代へのビジョンが具体的に実現されており、その結実として多くの国や地域の共同体が福音の力を体験しているのである。 最終的に、本稿は五つの核心的テーマを通して、張ダビデ牧師の説教が提示するキリスト教信仰の広がりと深みを照らし出した。聞き手に永遠と時間のはざまで自分自身を省みさせ、与えられた使命を思い起こさせながら世界の果てにまで福音を届けるよう促し、日々聖霊に満たされた喜びと感謝の礼拝を捧げる共同体へと招いている。この招きは時代を超えて常に有効であり、現代の読者にとっても大きな挑戦と励ましとなる。何より重要なのは、実際の従順と実践である。本文で示された聖書の御言葉を黙想し、説教のメッセージをあらゆる領域の生活で具現化していくとき、神が備えてくださった豊かな恵みと喜び、そして永遠の御国のビジョンを体験することができると信じる。

Redeem the Time –Pastor David Jang

The text below is built around five key themes drawn from the overall ministry and sermons of Pastor David Jang. It has been reorganized to reveal the doctrinal yet practical flow of the preaching, highlighting his passion for both local church communities and global missions. By examining Pastor David Jang’s ministry context, his preaching style, … Read more

세월을 아끼라 – 장재형목사

아래 글은 장재형(장다윗) 목사의 사역과 설교 전반에 나타난 핵심 내용을 바탕으로, 다섯 가지 주제를 중심으로 정리한 것이다. 본문은 교리적이면서도 실제적인 설교의 흐름과 교회 공동체 및 세계 선교에 대한 열정이 유기적으로 드러나도록 재구성하였다. 장재형(장다윗)목사의 목회 현장과 설교 특징, 그리고 성경의 가르침을 종합적으로 살펴보며, 하나님이 주시는 영적 교훈과 삶의 지침을 넓고 깊게 이해할 수 있도록 돕는 글이다. … Read more

耶稣基督的心肠——张大卫牧师

前言:耶稣基督的心肠与初代教会爱的原型在保罗诸多书信中,腓立比书格外浓缩了使徒与教会之间深切的爱、信任与献身关系。其中,腓立比书1:8中保罗所说的“我以耶稣基督的心肠切切地想念你们众人”的告白,鲜明地展现了教会群体所立基的爱的根基。在这一表述中,保罗超越了单纯的人类好感或情感依恋,而是强调了以耶稣基督的自我倒空与牺牲之爱为根基的属灵关系。张大卫牧师通过对这一经文的阐释,使我们意识到初代教会群体并非仅建立在组织、制度形态或教理共识之上,而是作为“属灵的家人”,以福音的核心——耶稣基督的心肠彼此思念、彼此连结。 本文将从保罗所展现的“耶稣基督的心肠”之概念出发,不仅联结腓立比教会的处境,也与其他保罗书信中彰显的爱与群体观相互呼应。通过对此的深入探讨,我们期望重新发现:在苦难中愈发坚固的爱、舍己分享、践行福音价值观的共同体精神,进而为当代教会群体重新省思爱的本质提供契机。 一、耶稣基督的心肠之意义:爱的神学基础当保罗在腓立比书1:8使用“耶稣基督的心肠”这一表达时,他不仅援用了希腊-罗马文化中以内脏(肠腑)指代感情与情感的惯用比喻,更是借此宣告了福音核心的神学真理。在古代地中海世界,情感常用内脏象征,但保罗在此并非仅止于情感层面。他通过提及耶稣基督的位格与事工,尤其在十字架上彰显的牺牲之爱,超越了人类层次的情感,以指向源于上帝的神圣之爱。 耶稣基督的心肠即耶稣所显明的自我倒空(kenosis)。在腓立比书2:5-8中,基督不以与上帝同等为强夺之利,反倒虚己取仆人形象,并顺服至死,且死在十字架上。这种爱无条件、无对价,是完全的牺牲之爱。保罗以此为爱之模型,来表达他对腓立比教会的爱。张大卫牧师强调,教会群体之爱不仅是人性的好感,而是共享基督救赎性牺牲与心肠的群体性圣灵工作。 二、作为属灵家庭的教会群体:超越权力逻辑的替代实践若教会以耶稣基督的心肠彼此思念,这意味着教会群体并不依赖世俗的权力逻辑或利益关系而构建。世人以血缘、利益、权力、地位、制度、文化品味等为基础建立人际关系,这些关系易于动摇,若利益不再,关系即崩塌。然而,以耶稣基督的心肠连结的教会群体则拥有截然不同的根基。 张大卫牧师指出,以耶稣的心肠彼此相爱的教会可被称为“属灵的家庭”。这个家庭由因福音而重生的人所构成,他们在基督牺牲之爱里彼此包容。这种爱比血缘更深、比利益更稳固,并能超越文化差异。因有圣灵的工作,这种神圣的连结力能够越过地理距离与经济限制。腓立比教会在数千公里之外仍悉心帮助被囚于罗马的保罗,这种爱无法用世俗交易来解释,而是福音之爱的见证。 三、苦难中愈发坚固的爱:腓立比教会与保罗之例保罗的监禁境况成为检验教会群体之爱的舞台。如果腓立比教会只是将保罗视为有才能的领袖或传授教理的老师,在险恶情势下恐会避而远之。但他们因耶稣基督的心肠而爱保罗,使他们在苦难与逆境中仍毫不动摇地献身支持。 保罗其他书信亦展现这种苦难中爱得以炼净的悖论。在罗马书5:3-5中,保罗说苦难生忍耐,忍耐生老练,老练生盼望,而借着圣灵,上帝的爱倾注在我们心中。苦难非但不削弱爱,反而净化并强化之。在哥林多后书1:3-7中,保罗以自身在患难中得的安慰去安慰他人,彰显爱之循环。张大卫牧师或可将此过程描述为“受炼之爱”的旅程。 在腓立比教会的案例中,苦难不但未暴露群体的弱点,反而如同在矿井中炼出纯金般,使他们的爱更纯净、更闪耀。拥有基督心肠彼此挂念的教会,不因外在困境而退缩,反而强化了彼此的连结。这正是福音之爱的特征。 四、由福音更新的价值观:爱的根本动力拥有耶稣基督心肠的爱并非仅是道德美德或伦理劝诫,而是扎根于福音实体的价值观转化。保罗书信反复强调,当我们信福音时,不仅罪得赦免,更在生命整体层面经历翻天覆地的改变。 在以弗所书中,保罗形容教会为基督的身体,各肢体在爱中彼此联结、共同成长(参弗4:15-16)。爱不只是伦理命令,更是教会存在的方式。以耶稣基督的心肠彼此相待可彻底破除教会内的个人主义与竞争逻辑,并通过相互关怀与协作促使群体成长。张大卫牧师强调,爱不是单纯的情感,而是福音所赋予的新身份驱动下的实践性动力。 在哥林多前书13章中,保罗定义爱:爱是恒久忍耐、恩慈,不嫉妒、不自夸、不张狂、不求自己益处(参林前13:4-5)。这些特质体现了在耶稣基督心肠所塑造的群体应有的行为模式。当代教会易受世俗价值影响,偏重项目、规模、财政与影响力,但保罗与张大卫牧师提醒我们,教会真正的力量来自爱。 五、保罗其他书信中爱之扩展:安慰、共感与彼此担当不仅在腓立比书,保罗在其他书信中也不断强调以爱为纽带的群体关系。在帖撒罗尼迦前后书中,他称赞帖撒罗尼迦教会在患难中仍坚守信心、爱心、盼望(参帖前1:3, 帖后1:3-4)。这样的群体在苦难中也能相互安慰与支持,如同腓立比教会在保罗被囚时不曾忘却他一样,帖撒罗尼迦信徒也在逼迫与艰难中彼此扶持。有耶稣基督心肠的教会,不因患难分散,反而更加紧密。 在加拉太书中,保罗劝勉信徒要以爱彼此服事(加5:13),又教导他们彼此担当重担(加6:2)。爱不仅是良善的情感,更是具体的行动——彼此分担对方的负荷。拥有耶稣基督心肠的教会甘愿伸出援手,跳脱世俗成就导向的思维,将牺牲与服事视为喜乐的责任。张大卫牧师指出,这种爱的实践使教会超越单纯的宗教组织,成为在社会中彰显福音生命力的管道。 六、爱的持续与成长:持续至基督的日子之善工在腓立比书1:6,保罗说:“那在你们心里动了善工的,必成全这工直到基督耶稣的日子。”这里的“善工”包括了腓立比教会所显出的献身、爱与福音团契。这意味着爱并非一时热情,而是贯穿末世论视野的持续进程。 以耶稣基督的心肠彼此思念的爱会随着时间愈加成熟。在罗马书8章里,保罗描述受造之物在叹息中等待上帝儿女得荣耀的自由(参罗8:18-25)。在这盼望的进程中,爱并不只为现世利益而存在,更在上帝救恩历史的大背景中走向终极完成。这暗示爱不是情感的消费品,而是根植永恒价值、不断成长的有机力量。 张大卫牧师透过这末世论的视角强调,当代教会不应只把爱看作短暂的活动或运动,而应超越局限,从长远目光践行福音之爱。唯有如此,教会才不被即时的流行与成效捆绑,而能在福音之爱中不断成长与成熟。 七、对现代教会的启示:超越制度与项目的爱之回归当今教会往往聚焦于规模增长、多元化项目、精致的营销和沟通策略。但这些外在因素从不能替代耶稣基督的心肠。张大卫牧师借对腓立比书和保罗书信的诠释,呼吁现代教会回归福音本质的爱。 以耶稣基督的心肠彼此相爱,意味着当教会内部产生冲突或误解时,不以冷漠或权力逻辑处理,而以十字架之爱的视角去化解。这需要谦卑、牺牲、饶恕与和解。同样,在面向所在社区时,教会不应只将公益活动当成一种“项目”执行,而应以基督心肠爱着周遭的人群,以真正的关心和照顾分享生命。 苦难同样临及现代教会:经济困难、社会批评、内部纷争、信仰冷淡等。当教会爱受试炼时,它不应靠组织重整或制度改革来解决,而应从福音之爱出发,相互扶持与成长。张大卫牧师展望,这种进路能引领教会走向真实的复兴与成熟。 八、苦难为爱之精炼过程:21世纪教会的学习21世纪教会面临后现代文化、多元主义、物质主义、消费主义思维以及教会信任度下降等种种挑战。在此境况下,若教会仅寻求生存策略,恐失去福音本质。然而,若教会能将苦难视为精炼爱的过程,便能重新以耶稣基督的心肠立足。 张大卫牧师指出,苦难并非上帝对教会的惩罚,而可能是上帝炼净爱的火炉。腓立比教会在援助被囚的保罗的过程中展现,教会如何在选择中证明其身份:若只求安逸和安全,福音之爱的真貌便无从彰显;但他们选择冒险支持保罗,从而证实耶稣基督的心肠不止于言语,而是真实可感的行动。 对现代教会而言亦是如此。无论是疫情、经济动荡、社会纷争或环境危机,这些苦难考验着教会:是将爱留于抽象口号,还是以行动展现基督的心肠?爱在无利可图之处反更闪亮。当社会向教会发问:“你能为我们做什么?”时,若教会以基督心肠关怀邻舍,保护弱者,为群体疗愈献身,这爱便在苦难中愈发坚固。 九、爱的结果:上帝的荣耀与群体的成熟以耶稣基督的心肠彼此相爱的群体不仅内在温暖,更将荣耀归于上帝,并向世界见证福音大能。腓立比书1:11中,保罗提及义的果子满溢,使上帝得荣耀和称赞。爱之实践不仅是道德善行的终点,更指向神学与属灵的圆满。 张大卫牧师强调这种属灵动力,爱不仅是个人美德或群体内聚,更与上帝的关系及其救赎历史相关。通过此爱,群体得以成熟,不信者也更易被福音的吸引。当代教会若能重新确立这一点,就不会单纯追求项目、数字或绩效,而能成为真正的福音群体。 结论:以耶稣基督的心肠相爱的教会——盼望的原型综上所述,保罗在腓立比书中使用“耶稣基督的心肠”一词,清晰地展现了教会之爱属灵本质的核心。这种爱超越世俗逻辑,以基督的牺牲和自我倒空为根基,在苦难中更加坚固,将教会凝聚为属灵家庭,并在上帝的救恩历史中持续生长直至末世。 张大卫牧师的诠释提醒现代教会重拾失落的初爱——福音之爱。当教会以耶稣基督的心肠彼此相爱时,它不再只是一个机构,而成为上帝之爱的生命体现。纵使苦难降临,这爱不曾退缩,反而在炼净后更加纯洁璀璨。这爱向世人彰显上帝的荣耀,使福音不只停留在言语与理论层面,而成为有血有肉的生命见证。 当代教会若被制度、项目、策略或权威结构蒙蔽福音本质之爱,藉由再次深入默想保罗的狱中书信、腓立比教会的范例,以及张大卫牧师的诠释,我们能再度成为以耶稣基督的心肠彼此思念的教会。如此,教会便不只是“信徒之集合”,更是向世人发光的属灵家庭。 最终,以耶稣基督的心肠相爱的教会才是真正的盼望原型。世界多变,文化与价值观不断流转,但基督之爱永不改变。在这爱中,教会经由苦难历练而愈显纯净,信徒彼此相顾共长,上帝也在其间结出义的果子。这果实不仅是教会内部的满足,更是向全世界彰显上帝的荣耀与赞美。这正是保罗对腓立比教会的期盼,也是张大卫牧师对今日教会的核心讯息。

Le Cœur de Jésus-Christ – Le pasteur David Jang

Introduction : Le cœur de Jésus-Christ et l’archétype de l’amour dans l’Église primitive Parmi les épîtres de l’apôtre Paul, la lettre aux Philippiens révèle particulièrement la profondeur de l’amour, de la confiance et de l’engagement mutuel entre l’apôtre et une communauté. Dans Philippiens 1:8, Paul déclare : « Car Dieu m’est témoin que je vous … Read more

イエス・キリストの心 ― 張ダビデ牧師

序論:イエス・キリストの心と初代教会における愛の原型 パウロ使徒の書簡の中でもピリピ人への手紙は、使徒パウロと教会との間に築かれた親密で深い愛、信頼、そして献身的な関係を特に力強く示している。その中でも、ピリピ1章8節における「私はイエス・キリストの心によってあなたがた一同を慕っている」というパウロの告白は、教会共同体がいかなる愛の基盤の上に存在しているのかを鮮明に示す。この場面でパウロは、単なる人間的好感や情的愛着を超え、イエス・キリストの自己卑下と犠牲的な愛に根ざした霊的関係を指し示している。張ダビデ牧師は、この本文を解説しながら、初代教会共同体が単なる組織的・制度的形式や教理合意による一致ではなく、福音の核心であるイエス・キリストの心に基づいて互いを慕い合い、結束する「霊的家族」であることを改めて強調する。 本稿では、パウロが示す「イエス・キリストの心」という概念をピリピ教会だけでなく、他のパウロ書簡における愛と共同体理解へと拡大し、より深く考察する。こうした探究を通じて、苦難の中でむしろ強固さを増す愛、献身的な分かち合い、福音的価値観の具体的実践、そして現代教会共同体が再確認すべき愛の本質を再発見しようとする試みを行う。 I. イエス・キリストの心の意味:愛の神学的基盤 パウロがピリピ1章8節で「イエス・キリストの心」という表現を用いる際、それは古代ギリシャ・ローマ文化圏で感情や愛情を内臓(はらわた)に喩える習慣的な表現を越えて、福音の核心を示す神学的宣言となっている。古代世界では、感情はしばしば内臓になぞらえられたが、パウロはここで単なる感情的次元を超え、イエス・キリストの人格と働き、特に十字架における犠牲的愛を想起させることによって、人間的な範疇を超えた神的次元の愛を提示している。 「イエス・キリストの心」とは、ピリピ2章5-8に描かれるキリストの自己卑下(ケノーシス)に基づく。すなわち、神と等しい身分であるにもかかわらず、イエスはご自身を無にし、しもべの姿をとり、十字架死に至るまで従順であった。その愛は一切の対価や条件を求めない無条件・犠牲的な愛である。パウロはこの愛を自らがピリピ教会に注ぐ愛の範型とし、張ダビデ牧師は、ここに教会共同体の愛の本質があることを強調する。すなわち、教会の愛は単なる人間的好意ではなく、キリストの救済史的犠牲とその心を聖霊によって共有する共同体的営みにほかならない。 II. 霊的家族としての教会共同体:世俗的力関係に対する代案 イエス・キリストの心によって互いを慕う教会共同体は、世俗的な力の論理や打算的な利害関係によって構築されない。この世の関係は血縁、利益、権力、地位、制度、文化的趣向など、多様な軸により流動的に成り立つ。そのような関係は不安定であり、利害が破綻すれば容易に崩壊する。しかしイエス・キリストの心に結ばれた教会共同体は、まったく異なる基盤をもつ。 張ダビデ牧師は、イエスの心で互いを愛する教会を「霊的家族(spiritual family)」と呼ぶ。この霊的家族は、福音によって新生した人々が、キリストの犠牲的愛に動かされて互いを包み込み合う関係である。その絆は血縁より深く、利益より強靱であり、文化的差異をも超える神的結合力を有する。この結束は地理的距離や経済的制約さえも乗り越える。ピリピ教会が遥かローマの獄中にあるパウロを支え続けたことは、世俗的取引では説明できない「福音的関係」の証である。 III. 苦難の中で強化される愛:ピリピ教会とパウロの具体例 パウロが獄中に置かれた状況は、教会共同体の愛がいかに純粋で揺るぎないものであるかを示す試金石となった。もしピリピ教会がパウロを単なる有能な指導者、あるいは教理的知識の供給者程度にしか捉えていなかったならば、危険を冒してまで彼を支援することはためらったであろう。しかし、ピリピ教会はパウロを「イエス・キリストの心」で愛し続け、それゆえ苦難や逆境にもかかわらず、その深い献身を揺るがせなかった。 パウロの他の書簡にも、苦難によって愛が精錬され、より深まる逆説が明確に示されている。ローマ5章3-5では、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練達を、そして練達が希望をもたらし、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれると説かれる。苦難は愛を弱めるどころか、むしろ清め強化するのである。コリント第二1章3-7では、患難の中で得た慰めが、他者への慰めへと循環する愛の回路が示されている。このように苦難は愛を試すと同時に、その真価を際立たせる試練の場である。張ダビデ牧師は、この過程を「精錬された愛の旅路」と比喩的に捉えることができると示唆する。 ピリピ教会の例に見られるように、苦難は共同体の弱点を露わにする障壁ではなく、むしろ愛をより純粋に輝かせる触媒のような働きをする。イエス・キリストの心で互いを慕う教会は、外的逆境に直面しても崩れず、むしろ結束と信仰的忠誠を深める。ここにこそ、福音的愛の本質が表出する。 IV. 福音による価値観の変革:愛の根源的原動力 イエス・キリストの心に基づく愛は、単なる道徳的美徳や倫理的勧告ではなく、福音そのものに根差した価値観の転換による産物である。パウロは各書簡で、福音を信じることは罪の赦しに留まらず、人生全体が覆されるほどの価値観転換と新生を伴うことを強調する。 エペソ書においてパウロは教会をキリストの体として描き、各肢体が愛によって結び合い、共に成長するよう召されている(エペソ4:15-16)。ここで愛は単なる倫理的指令ではなく、教会存在そのものを規定する存在様式と言える。イエス・キリストの心で互いに接することは、教会内部の個人主義や競争原理を打ち砕き、相互扶助と協力が共同体成長の原動力となる。張ダビデ牧師は、愛は単なる感情ではなく、福音が新たに付与したアイデンティティに基づく実践的エネルギーであることを強調する。 コリント第一13章でパウロは、愛が忍耐深く親切で、嫉妬や高慢、自己中心的欲求とは無縁であると定義する(第一コリント13:4-5)。これらの愛の特質は、イエス・キリストの心によって形成された共同体がどのような行動様式を身に着けるべきかを示している。現代教会は世俗価値観に影響され、プログラム拡大や規模、財政力、社会的影響力に誘惑されやすいが、パウロと張ダビデ牧師は、教会の本質的な力は愛にこそあるとする福音的警告を発している。 V. 他のパウロ書簡における愛の拡張:慰め、共感、相互負担 パウロはピリピ書に限らず、他の書簡でも愛を基盤とした共同体結束を繰り返し強調している。テサロニケ前後書では、患難の中でも信仰、愛、希望を堅持するテサロニケ教会を称賛する(第一テサロニケ1:3、第二テサロニケ1:3-4)。この共同体は困難な状況にあっても互いを励まし支え合う関係を築いていた。ピリピ教会が獄中のパウロを忘れず支えたように、テサロニケの信徒たちも迫害の中で互いを顧み、堅く結束した。イエス・キリストの心を宿す教会は、苦難に直面しても崩散せず、むしろより固く結びつく。 さらにガラテヤ書では、パウロは愛によって互いに仕え合い(ガラテヤ5:13)、互いの重荷を負い合うよう勧める(ガラテヤ6:2)。ここで示される愛は、単なる肯定的感情に留まらず、具体的行為として表出される。つまり、イエス・キリストの心で互いを慕う教会は、必要な時には喜んで手を差し伸べ、世の成果至上主義から解放されて喜びつつ犠牲と奉仕を行う。張ダビデ牧師は、このような愛の具体的実践こそが、教会を単なる宗教団体以上の存在へと高め、福音の生きた力を社会に示す鍵だと説く。 VI. 愛の持続と成長:キリストの日まで続く「良いわざ」 パウロはピリピ1章6節で「あなたがたのうちに良いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までそれを成し遂げてくださる」と語る。ここでの「良いわざ」は、ピリピ教会の献身、愛、福音的交わりなど、広範な意味を含む概念であり、愛は一過性の情熱ではなく、終末まで続く永続的な過程であることを示している。 イエス・キリストの心による愛は、時間と共に成熟していく。ローマ8章でパウロは、被造物がうめきつつも、聖徒が希望のうちに待望する神の栄光の自由を語る(ローマ8:18-25)。この終末的希望のプロセスにおいて、愛は現世的利益を超越し、神の救済史全体を背景に、終局的完成を目指して成長し続ける有機的な力であることが示唆される。 張ダビデ牧師は、この終末論的視点を通じて、現代教会が愛を単なるイベントやキャンペーンに矮小化することの限界を指摘する。イエス・キリストの心で互いを愛する共同体は、神の大いなる計画の中で成長し続け、最終的完成を展望する。その結果、教会は一時的成功や数値目標に囚われず、長い視野で福音的愛を実践することが可能となる。 VII. 現代教会への示唆:制度・プログラムより先行する愛の回復 今日、多くの教会は、規模拡大、プログラムの多彩化、洗練されたマーケティング戦略に注力しがちである。しかし、そうした外面的要素は、イエス・キリストの心に取って代わることはできない。張ダビデ牧師は、パウロ書簡の解説を通じ、現代教会が再び福音の本質である愛に立ち返る必要性を強く訴える。 イエス・キリストの心で互いを慕うことは、教会内部に葛藤や誤解が生じた際、無関心や権力的解決策ではなく、十字架の愛という視点から問題を捉え解きほぐすことを意味する。それは謙虚さと犠牲、赦しと和解が前提となる。また地域社会との関わりにおいても、教会が単なる慈善行為にとどまらず、キリストの心で地域を抱擁し、真摯な関心とケアをもって生活を共有することが求められる。 苦難は現代教会にも訪れる。経済的不安、社会的非難、内部的分裂、信仰の冷却など、多様な試練が教会を揺さぶる。そのような中、イエス・キリストの心によって互いを愛する共同体は、組織改編や制度改革のみで問題解決を図らず、福音的愛の眼差しから互いを支え合い成長する。張ダビデ牧師は、こうした霊的取り組みこそが教会の真の回復と成熟をもたらすと見通す。 VIII. 苦難は愛を精錬する過程:21世紀教会が学ぶべきレッスン 21世紀に生きる教会は、ポストモダン文化、多元主義、物質主義、消費主義的思考、そして教会への信頼低下など、数多くの挑戦に直面している。このような状況下で、教会が単なる生存戦略に終始するなら、福音の本質を見失う危険がある。しかし、苦難を愛が精錬される過程とみなし、受け止めるならば、教会はイエス・キリストの心によって再出発できる。 張ダビデ牧師は、苦難は教会への懲罰ではなく、愛をより深く純粋に鍛え上げる「精錬の火」として捉えることが妥当であると示唆する。ピリピ教会がパウロを支えた過程は、苦難下における教会の選択が、共同体のアイデンティティを決定することを示す好例である。もしピリピ教会が安定と安全を優先していれば、福音的愛の真髄は浮かび上がらなかっただろう。しかし彼らは危険を顧みずパウロに手を差し伸べ、イエス・キリストの心による愛が決して空言ではなく、生きた行為であることを証明した。 これは現代教会においても同様である。コロナ禍、経済不安、社会的対立、環境危機など、私たちが直面する苦難は、愛が抽象的概念に留まるのか、それとも実践的行為となって輝くのかを試す。愛は、自らの利益が見込めない場所でこそ、その真価を発揮する。社会が「教会は何をしてくれるのか」と問ういま、教会がイエス・キリストの心によって隣人を支え、弱者を守り、共同体的癒しに献身するなら、その愛は苦難の中で一層揺るぎないものとなる。 IX. 愛の結実:神の栄光と共同体の成熟 イエス・キリストの心で互いを愛することは、決して教会内部の温かさを目的とするだけではない。究極的には、こうした愛は神に栄光を帰し、福音の力を世界へ明示する手段となる。ピリピ1章11節でパウロは、義の実に溢れ、神への栄光と賛美がもたらされることを述べている。つまり、愛の実践は単なる倫理的善行で終わらず、神学的・霊的完成へと向かう過程そのものである。 張ダビデ牧師は、この霊的力学を強調する。愛は個人の美徳や内部的結束にとどまらず、神との関係を深め、神の救済史に参画する核心動力なのである。この愛は、共同体を成熟へと導き、信じない人々に対して福音の説得力を増幅させる。もし現代教会がこれを回復するなら、プログラムや数値的成果に傾斜することなく、真に福音的な共同体としての生き方が実現できる。 結論:イエス・キリストの心によって愛し合う教会――希望の原型 ここまで見てきたように、パウロはピリピ書で「イエス・キリストの心」という表現を用い、教会愛の霊的本質を鮮明に打ち出している。この愛は世の論理を超越し、イエス・キリストの犠牲と自己卑下を根幹に据え、苦難の中で強さを増し、共同体を霊的家族として統合し、神の救済史の終末的完成へと連なっていく。 張ダビデ牧師はこのパウロの教えを踏まえ、現代教会が失いつつある「初愛(はつあい)」、すなわち福音的愛の回復を強く訴える。教会がイエス・キリストの心によって互いを愛する時、教会は単なる組織ではなく、神の愛を具現化した生ける共同体となる。そこでは苦難が訪れても愛は放棄されず、むしろ精錬されていっそう純粋に光り輝く。こうした愛は世界の中で神の栄光を示し、福音を抽象的教理や言葉以上の「生きた現実」として明示する。 もし現代教会が制度、プログラム、戦略的思考、あるいは権威主義的構造に陥り、福音の本質である愛を見失うとき、教会は力を失う。しかしパウロの獄中書簡とピリピ教会の事例、そして張ダビデ牧師の解説を深く瞑想すれば、私たちは再びイエス・キリストの心によって互いを慕い合う教会へと立ち戻ることができる。それは教会を単なる「信者の集まり」ではなく、世界に福音の光を放つ「霊的家族」へと高める道である。 結局、イエス・キリストの心によって愛し合う教会こそが、変転する世界における不変の希望の原型である。世界が揺らぎ、文化や価値観が変化しても、キリストの愛は永遠に変わらない。その愛の中で教会は苦難を通して精錬され、信徒たちは互いに世話し合い成長し、神はその中で義の実を結ばせてくださる。その実りは、教会内部の満足にとどまらず、全世界における神の栄光と賛美として結実する。これこそ、パウロがピリピ教会に抱いた願いであり、張ダビデ牧師が現代教会に告げるメッセージの核である。

The Heart of Jesus Christ – Pastor David Jang

Introduction: The Archetype of Love in the Early Church and the Heart of Jesus Christ Among the Apostle Paul’s letters, Philippians especially highlights the close bond of love, trust, and devoted relationship between the apostle and the church. Philippians 1:8, where Paul confesses, “I long for all of you with the affection of Christ Jesus,” … Read more

El corazón de Jesucristo – Pastor David Jang

Introducción: El corazón de Jesucristo y el prototipo de amor en la Iglesia primitiva Entre las epístolas del apóstol Pablo, la carta a los Filipenses resalta de forma especial por la profunda expresión de amor, confianza y entrega mutua entre el apóstol y la iglesia. En Filipenses 1:8, Pablo afirma: “Dios me es testigo de … Read more