張ダビデ牧師 ― 聖霊の嘆き

1. 現在の苦難とやがて現れる栄光 ローマ書8章18節で、使徒パウロはこう宣言します。「思うに、現在の苦難は、やがて私たちに現れる栄光に比べれば取るに足りないからです」(新改訳2017 参照)。張ダビデ牧師はこの御言葉を解き明かしながら、キリスト者が経験する苦難と神の栄光は、まるでコインの両面のようなものだと強調します。苦難なしに栄光だけを語ることはできず、栄光もまた、苦難を完全に排除したり無視したりする形ではなく、苦難を通過することで得られる神の尊厳と聖さなのだというのです。 パウロが語る現在の苦難とやがて現れる栄光の関係は、「比較にならない(比較できない)」という表現から明らかなように、次元の違う価値を浮き彫りにしています。人間の目には、現在の苦難は非常に大きく重く見えるかもしれません。しかし神の救いの計画の中で見ると、その苦難でさえも、後に現れる栄光に比べれば、極めて軽いものだという意味です。 張ダビデ牧師は多くの説教や講演で、パウロの「未来の栄光」に対する確信はどこから来るのかについて度々説明します。すなわち、「キリストの愛に対するパウロの強烈な体験と信頼、そして未来に関する神の約束への信仰が、その確信の基礎となっている」というのです。実際、パウロがローマ書8章で展開する思想は、苦難や痛みが神の子どもである私たちから決して切り離せないことを認めつつ、それが決して私たちの破滅や絶望を意味するものではないと宣言しています。パウロが「現在の苦難はやがて現れる栄光と比べものにならない」と断言したのは、「苦難が小さい」ということを言いたかったのではなく、「未来の栄光がはるかに大きく輝かしいので、どれほど今の苦難が大きくても、それに比べれば取るに足りない」という確信から来たのです。 現実の世界で私たちが味わう苦難は、多くの場合「希望のない苦しみ」のように見える時が少なくありません。しかし、張ダビデ牧師は「キリスト者は未来があり、約束がある苦しみを背負っている」と語ります。苦難が完全に消え去る世界が来るまでは、私たちは依然として多くの痛みや困難に直面するでしょう。しかし、その終わりには必ず神の栄光が広がるという確信を持って耐え忍ぶのです。これはイエス様が約束された福音の本質の一つでもあります。イエス様が山上の説教で「義のために迫害される者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:10)と仰せられたことも同じです。つまり、この世には理解されない方法であっても、信仰者が背負わねばならない苦難の場に祝福が臨み、将来にはさらに確固たる栄光が与えられるという宣言なのです。 パウロが言う「報いの信仰」は、世俗的な代償とはまったく異なる次元にあります。イエスを信じる者として行った善行と義のゆえに受ける迫害に対して神が必ず祝福を与えてくださるというのは、最終的な栄光の主導権が神にあることを意味します。張ダビデ牧師は、信仰生活を送るすべての聖徒たちに対して「この地上で享受するささやかな祝福や現世的な豊かさ」だけに目を奪われず、究極的に私たちすべてが招かれる天上の栄光を見つめるべきだ、と何度も説いてきました。こうした視線は、私たちが目の前の困難を別の角度から解釈するように導きます。目の前にある苦痛、財政的困難、迫害、差別、健康問題、人間関係の破綻などは、私たちを打ち倒すために存在しているのではなく、むしろ後に受ける栄光をより鮮明に見据える道具にもなり得るのです。 張ダビデ牧師はローマ書8章を解説しながら、パウロが「栄光のために与えられた苦難の意味」を見抜いている点を強調します。パウロ自身もダマスコ途上でイエス・キリストに出会うまでは、意識的にも宗教的にも「自分こそ正しい」と考え、行いを積み上げていた人物でした。しかし、イエス・キリストの十字架と復活を悟った後は、かつてのすべてのユダヤ教的な熱心さや知識をむしろ「排泄物」のようにみなすようになり(ピリピ3:8)、もはやキリストのために苦難を受けることをためらわない人間へと変えられました。キリストを知り、その中にある栄光を見いだした以上、この世が与える誘惑も、逆にこの世が加える迫害も、パウロを折れさせることはできなかったのです。 パウロがローマ書8章で強調する希望は、「現在の生活苦や困難」を単に回避するための精神的勝利ではありません。張ダビデ牧師はこれを「神が計画された私たちの人生の未来は、単に幸せな結末ではなく、神の子として栄光に共にあずかることだ」と表現します。ですから、この地上でどんなに豊かさを享受できず、世の価値基準では失敗した人生のように見えたとしても、信仰の中に生きる者は天上の豊かな栄光を期待できます。こうした理由から、イエス・キリストの福音を単なる倫理や道徳に還元するのではなく、その中にある壮大で宇宙的な救いの計画に目を開かなければならない、と張ダビデ牧師は教えています。 続くパウロのローマ書8章19節からは、被造物が何を切望しているかが語られます。「被造物は、神の子たちの現れを切望しているのです」(ローマ8:19)。張ダビデ牧師は、ここで言われる「切望(apokaradokia)」に込められたギリシア語のニュアンスを非常に重視します。アポカラドキア(ἀποκαραδοκία)とは、「必死に待ち焦がれること、苦痛の中で首を長くして待つこと」を指しています。子どもが遠足を前にして前の晩に興奮して眠れない気持ち、あるいは夜明けを待つ人が夜を徹して窓を開け「いつ東の空が明るくなるのだろう」と長い夜を過ごすような心境にも似ています。漢字で書くなら「苦待」であり、つまり「苦しみながら待つ」ということです。 この苦しみながらの待望を、パウロは被造物がしているのだと言います。注目すべきは、通常「待つ」という主体は人間を思い浮かべますが、ここでは「被造物」が主語となっていることです。自然界や宇宙万物が、キリストにあって回復された人々、すなわち神の子たちが現れることを切に待ち焦がれているというのです。これは「宇宙的回復(cosmic salvation)」を示す聖句です。創世記3章17節を見ると、人類の堕罪によって「地が呪われた」と記されています。「地はあなたのゆえに呪われ、あなたは一生苦しんでその産物を食べることになる」との宣告を通して、もともと神が美しく創造された世界は、人間の罪によって破壊されてしまいました。主となるはずだった人間が罪を犯し、自然を適切に世話し治めるどころか、むしろ横暴をふるって自然を痛めつける存在になってしまったからです。 張ダビデ牧師は、人類が行ってきた大規模な自然破壊を見ながら、「人間の悪は単なる道徳的犯罪にとどまらず、被造物までもうめき声を上げさせる」と指摘します。世界各地で起こっている環境問題、生態系破壊、気候変動は、人間の貪欲と傲慢さがどんな結果をもたらしたかをはっきり示しています。本来、神の愛のもとで美しく保たれるはずだった地球は、人間の誤った支配によって瀕死の状態に追い込まれています。こうして被造物はもはや自分の思うままに生きられず、「虚無に服従」させられる存在となってしまいました(ローマ8:20)。ところがパウロによれば、これらすべての破壊と嘆きが「永遠の結末」ではないというのです。そこには「服従させた方がおられる」からだとパウロは言います。神が、被造物が報復的に人間を破壊してしまわないように、「もう少し待て」と万物を押しとどめておられる、という洞察です。 張ダビデ牧師は、人間の能力や技術でいくら自然をコントロールしようとしても、結局は自然の力にどうすることもできなくなる場合が多いことを挙げつつ、「自然は人間よりはるかに大きな潜在的力を持っているが、神がそれを許されない限り、その裁きの力を完全に爆発させることはない」と語ります。これはパウロが「被造物も滅びの束縛から解放され、神の子たちの栄光の自由にあずかるようになることを切望している」(ローマ8:21)と宣言することとつながっています。人類の堕罪によってともに堕落した被造物ですが、彼らもいずれは回復される世界を熱望しているのです。 ここで私たちは、パウロが描く未来像をさらに具体的に確認できます。張ダビデ牧師によれば、パウロがローマ書8章でほのめかしている宇宙的救いの姿と、ヨハネの黙示録21章に予言される「新しいエルサレム」の姿は、結局同じ絵を異なる表現で示しているのだといいます。もともと神が創造された完全な世界が、堕罪によって崩れました。しかし最後には完全に回復された栄光に満ちた世界へと帰結します。その回復された世界こそが「神の子たちの栄光の自由」が満ちあふれる場であり、そこに被造物も共に喜びを味わうようになるというのです。 張ダビデ牧師は、この黙示録の結末を「グランドフィナーレ(Grand Finale)」と呼びます。歴史の悲劇や絶望が決して終わりではなく、ついには神が王座に座して「見よ、わたしは万物を新しくする」(黙示録21:5)と宣言される壮麗な結末へと至る、ということです。このような救いの大きな絵図があるからこそ、キリスト者は現在の混乱と痛みの中でも究極的な希望を抱くことができます。張ダビデ牧師は、聖書全体を貫くメッセージを「神と人間と万物が一つとなって、天と地が重なり合う完全な世界に戻ること」と解説します。神学的に言えば、旧約の預言と新約の終末論が合流し、「神の国」という結実をもたらすのです。 自然にパウロのメッセージは、この宇宙的救いだけでなく、個人の救いとも密接に結びつきます。ローマ書8章23節で、パウロはこう語ります。「被造物だけではなく、初穂として御霊をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち私たちの体のあがないを待ち望んでいるのです。」 これは単に霊魂の救いへの渇望だけではなく、体の救いをも含みます。張ダビデ牧師は、聖書が語る「体」の重要性を決して軽視してはならないと繰り返し強調しています。彼によれば、「体」とは実際の私たちの肉体であると同時に、「教会」という「キリストの体」の次元までをも包括しているのです。私たちが教会共同体の中で一つとなり、頭であるイエス・キリストが目指される愛と聖さへと進むこと、そのプロセスを通じて教会が完全に建て上げられることが「体のあがない」に含まれる、と彼は解釈します。 最終的に、ローマ書8章24節でパウロは「私たちは、この望みによって救われているのです。ところが、目に見える望みは望みではありません。だれでも見ていることを、どうしてさらに望むでしょうか。」と言います。張ダビデ牧師はここで、「すでに(Already)」と「まだ(Not Yet)」という神学的概念をうまく紐解きます。すなわち、救いはすでに私たちのうちに到来しているものの、一方でまだ完成していないということです。イエス・キリストを信じ、聖霊を受けた時点で、私たちはすでに救いという賜物を得ています。しかし、最終的かつ完全な形での神の国がこの地に実現したわけではないため、私たちは今もなお期待しつつ待つ「まだ」の状態に生きているのです。この緊張の中で、信徒は未来の栄光を「信仰」によって先取りし、忍耐をもって生きていくのです。 張ダビデ牧師は、この部分を説教する際、ヘブライ書11章1節の言葉と合わせてよく説明します。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」(新改訳2017)というように、信仰によって、まだ目に見えていない神の国と約束を、今この瞬間に生き抜くことができるのだ、と。だからこそ苦難のただ中でも喜べるし、迫害を受けても忍耐でき、絶望的な状況にあっても確信を失わずにいられるのです。パウロも、また現代において私たちが尊敬する多くの信仰の先達も、この信仰を携えて生きてきました。そして張ダビデ牧師も、自身のすべての宣教・牧会の働きを通じて、「聖徒は未来の栄光を先取りすることによって今日を勝ち取るのだ」という視点を繰り返し提示しています。 さらに、張ダビデ牧師は救いを単に「個人の魂の救い」に限定して理解してはならないと言います。ローマ書8章の核心は、人間の罪性の問題を超えて、宇宙的スケールへと拡張されているからです。キリストにあってすべての万物が回復され、自然も再び本来の姿を取り戻し、神と人間と自然が一つとなって築かれる国こそが、救いの最終的な姿なのです。パウロがローマ書全体で救いを深く説き明かしたあと、8章後半で「被造物の嘆き」と「やがて回復される世界」を強調しているのも、まさにこのためです。このように救いの「個人的側面」と「宇宙的側面」の両方を統合的に見るとき、人間中心的な偏りから脱却し、神の壮大で美しい計画に参与することができるようになります。 そうしたわけで、張ダビデ牧師は「神の国」というキーワードに注目する必要があると言います。使徒の働きの最後の節は、パウロが「神の国と主イエス・キリストのことを、少しもはばかることなく大胆に説き続けた」(使徒28:31)という言葉で締めくくられます。これはつまり、パウロがその宣教を通じて一貫して強調してきた中心メッセージが「神の国」であったことを示しています。イエス・キリストが福音を宣べ伝えられたときも同様であり、私たちが暗唱する主の祈りも「み国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」(マタイ6:10)という部分に要約されます。このように、パウロの宣教、イエスの教え、初代教会の伝承はすべて「神の国」という結論へ向かっているのです。 張ダビデ牧師は、「神の国と主イエス・キリスト」が新約全体の核心であり、私たちの終末論も結局はその国が到来することにあると説きます。ときに教会が、終末を「恐ろしい裁き」の枠組みだけで捉えたり、あるいは過度に世俗的な願望(現世的欲望の充足)に没入してしまうことがありますが、それは聖書が語る救いの大きく美しい結末を見失う道なのです。なぜなら、聖書が究極的に示しているメッセージは、「神の国」という聖なる新しい世界への明るい展望だからです。かつて世界史で登場した世俗的ユートピア運動は、ある意味聖書が語る希望を模倣しつつも、それを歪めて適用した例が多く、最終的に限界を露呈して消えていきました。しかし私たちが聖書に明示された「新天新地」をしっかりと握っていれば、誤った終末論や虚無主義に陥ることなく、真の希望の中で人生を歩むことができる、と張ダビデ牧師は説きます。 そしてパウロが語るローマ書8章の結びは、私たちに一つの結論を示します。「私たちは、まだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望むのです」(ローマ8:25)。張ダビデ牧師は、この「忍耐」の重要性を何度も強調してきました。忍耐とは、苦難を意味なく耐える受動的な態度ではなく、未来の栄光をつかんで、今日を能動的に踏みとどまる成熟した信仰の姿です。農夫が種をまいてから実がなるまで労苦して待つように、私たちも人生という畑に福音の種をまいて、時には涙で、時には喜びで耕しながら生きていくのです。そうして耐え忍ぶとき、神が備えてくださった栄光にあずかることができるのです。 2. 被造物の嘆きと聖霊の助け ローマ書8章26~27節へと進むと、パウロは読者を祈りの世界へと誘います。「同様に、御霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちは何をどう祈るべきかを知りませんが、御霊ご自身が言いようもないうめきをもって、とりなしてくださるのです」(ローマ8:26)。張ダビデ牧師は、ここで「祈りの本質は自分の弱さを認めるところから始まる」と語ります。つまり、祈りとは「自分ですべてを解決できる力を持つ存在」ではなく、「弱く、未来を知ることができず、神の助けなしには生き抜けない存在」であることを悟った人だけが行う行為だというのです。 「なぜ祈らなければならないのですか?」という問いは、しばしば投げかけられます。人間の知性を重んじる人の中には、祈りを漠然とした自己安慰だとみなす人もいます。しかし、聖書と神学はまったく違うことを語ります。祈りは、単に心理的な安定をもたらす道具ではなく、全能の神に参与し、神の働きを願い求めるための通路なのです。張ダビデ牧師は、パウロが「私たちは何をどう祈るべきかを知らない」と率直に認めた部分に着目します。罪によって私たちの判断力は曇っており、そもそも何を求めるべきなのかさえわからないほど弱いのです。ところが、聖霊がその弱さを助けてくださる。「助ける」とは、聖霊が私たちを引き上げ、私たちの祈りが不十分で歪んでいたとしても、それを「執り成し」として神へと取り次いでくださるという意味です。 張ダビデ牧師は、この「聖霊のとりなし」という概念を理解するには、イエス・キリストが私たちと神との間に立って成し遂げられた仲保の働きも併せて見る必要があると言います。テモテへの手紙第一2章5節は「神は唯一であり、神と人との間の仲保者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」と宣言します。私たちの祈りは、本来罪深い人間の唇から出るものなので、それ自体では神の前に届きません。しかしイエスは十字架の血潮によってその道を開いてくださいました。その結果、私たちはイエス・キリストの名によって大胆に神の御座へと近づけるようになったのです(ヘブル10:19)。さらにイエスが昇天された後、聖霊が教会に降臨されたことで、イエス・キリストがもたらした救いの現実を私たちは日々享受できるようになりました。聖霊は単に私たちの心に「漠然とした宗教的感覚」を与えるだけの霊ではなく、神の御心と人間の状況を知り尽くしておられる方であり、私たちの祈りさえも「神の御心」に合うように整えてくださるのです。 張ダビデ牧師は、「聖霊が私たちのためにとりなしてくださる」という表現、すなわち「言いようもないうめきをもって、私たちのために親しくとりなしてくださる」という箇所を深く黙想すべきだと勧めます。私たちが祈る際、「これをください、あれを解決してください」と願うものの、それが本当に私たちに必要なことなのか、神の善なるご計画にかなうのか、目先では判断しづらいところがあります。しかし聖霊は私たちの深い内面を知り、かつ神の善なる御心を正確に知っておられるので、「うめき」という切実で胸を締め付けられるような表現を通じて私たちのために執り成してくださるのです。これは旧約聖書で預言者たちが民の罪と滅びを見て嘆いた姿(たとえばエゼキエル21:6など)にも似ていますが、さらに親密かつ強力な次元で、聖霊は私たちのうちに住んでくださり「腰が砕けるほどの嘆き」の思いをもって私たちの祈りを神へと取り次いでくださるのです。そういうわけで、不十分で力のない私たちの祈りであっても、聖霊の補いと仲保によって神の御座に届くのです。 「人の心を探られる方は、御霊の思いが何であるかをよく知っておられます」(ローマ8:27)という御言葉は、祈りの結論を示すようです。結局のところ、祈りは私たちがどれほど美しい言葉や修辞学的表現を並べたから応えられるのではありません。私たちの心を探られる神が、同時に聖霊の思いをご存じであり、聖霊が私たちに代わって神のみこころに従ってとりなしてくださる、その嘆願をお聞きになるからこそ、応答がもたらされるのです。張ダビデ牧師は、これを「イエス・キリストによって開かれた恵みの祈りの通路の上に、聖霊が私たちを力強く助けておられるのだ」と説明します。だからこそ、キリスト者は祈るときに絶望しないのです。もし自分の祈りが的外れであっても、聖霊がそれを正してくださり、私たちが言い尽くせない部分を補い、神の善なるみこころが成就するよう導いてくださいます。 ここで張ダビデ牧師は、祈りにおける核心的態度として「自らの弱さの自覚」と「聖霊の働きに全面的に拠り頼むこと」を挙げます。人間は本質的に未来を予測できません。賢い大人でも、経験豊富な人でも、一寸先がわからないことは多々あります。古代中国の逸話「塞翁が馬」を思い浮かべてみると、馬が逃げてしまって嘆いていたら、その馬が雌馬を連れて戻ってきて喜び、今度は息子がその馬に乗っていて足を骨折して嘆き、しかしそれゆえ戦場に狩り出されずに命拾いをした、という話です。結局、何が福で何が禍なのか、その時点で正確に見極めることは困難です。よって「何をどう祈ればよいかを知らない」私たちの姿を、正直に自覚することこそが、真の祈りの出発点なのです。それは「自分にはできる」という自己確信ではなく、「自分にはできない」という切実さから始まり、同時に「しかし神にはできる」という信仰へとつながる道です。 張ダビデ牧師は「このように聖霊の時代を生きる教会は、もはや旧約時代のように私たちの罪の問題のせいで神から断絶されたまま留まる必要はない」と語ります。イエスの十字架と復活によって罪の道は断たれ、聖霊降臨によって私たちは「神が共におられる現実」を日常の中で体験できるようになったのです。この驚くべき恵みは、仲保者であるイエス・キリストの犠牲に基づいており、その仲保の実りが私たちの心に宿って「いつも生きていて私たちのために執り成してくださる」聖霊の働きとして広がったのです(ヘブル7:24~25)。この事実を悟るとき、祈りは決して機械的な宗教行為や形式的な作業にはとどまりません。「聖霊の嘆き」という不可解な次元に結ばれ、宇宙的な救いの計画とも結び付く強力な通路へと変えられるのです。 このようにローマ書8章18~27節を文脈的に見ていくと、第一に「現在の苦難とやがて現れる栄光との対比の中で、キリスト者の希望がいかに堅固であるか」が明らかになり、第二に「被造物が嘆き、私たち自身も嘆くけれども、聖霊が言いようもないうめきをもって執り成してくださることで、最終的に私たちを栄光の自由と完全な救いへと導いてくださる」という神のご計画が鮮明になるのです。張ダビデ牧師は、これこそパウロが示す「宇宙的救い」のビジョンであり、同時に祈りへとつながる生き方の原動力だと説きます。私たちが目を覚まして祈らなければ、日常の雑多な現実に囚われて簡単に落胆したり、世俗的価値観に飲み込まれやすくなります。しかし「私たちのために執り成してくださる聖霊」を認め、頼るとき、私たちの祈りが拙く弱いものであっても、神はその善なる御心に従って力強く働かれるのです。 総合すれば、ローマ書8章18~27節は、キリスト者が今抱えている苦難が決して「栄光」を妨げることはなく、同時に私たちの弱さが「祈り」を妨げることもないと告げる箇所です。使徒パウロは、誰よりもイエス・キリストにあって新しい被造物となり、過去を精算し、耐えがたい迫害や艱難に遭いながらも疲れ果てなかった人物です。彼の力の秘訣は自分自身にあるのではなく、ただイエス・キリストと聖霊の助けにかかっていました。張ダビデ牧師は、この真理を現代の教会と聖徒たちが絶えず心に刻む必要があると強調します。なぜなら私たちも、依然として苦難がいたるところにあり、嘆きたくなる出来事にあふれ、祈りすら思うようにできないほどの弱さを痛感する現実を生きているからです。 しかし、私たちが希望を握るとき、この希望は私たちを絶えず「信仰の新しい段階」へと運びます。張ダビデ牧師は「キリスト者にとって希望とは、現実を無視したり覆い隠す楽観主義ではなく、イエスの十字架と復活によってすでに宣言された救いが確実であるという信仰に基づく『揺るぎない未来認識』だ」と解釈します。ゆえに、今この時に遭遇する不正や理不尽、迫害や悲しみは決して永遠ではなく、むしろ後にさらに大いなる栄光を目撃することになると宣言します。さらに、私たちが何をどう求めればよいか分からない時でさえ、聖霊が私たちのために親しく執り成してくださるゆえに、私たちは絶望ではなく感謝と賛美をもって祈りの席を守り続けることができるのです。 張ダビデ牧師は、ローマ書8章を説教するたびに、「私たちが虚無に屈しない理由は、神がこのすべてのプロセスを通して最終的に救いと回復を成し遂げられるという約束を堅く信じているからだ」と力説します。神が道徳的世界秩序を治めておられるというキリスト教信仰は、歴史のミクロな局面では無数の混乱や矛盾が一度に解消されなくても、マクロな視点において必ず正義と善へと帰結させてくださる神を仰ぎ見るように私たちを促します。ですから、ローマ書8章が「私たちは希望によって救われたのです」と語るとき、その救いはすでに聖徒たちの内に始まっており、現在も進行形であり、ついには完成すると確信できる救いなのです。 私たちがこの地上に生きる間は、依然として欠乏や失敗を体験し、ときに自然も私たちにとって害となったり、私たちの罪の結果としてうめくこともあるでしょう。しかし、私たちが忍耐をもって待ち望む姿勢を失わなければ、究極的にその日にふさわしい栄光を味わうことになるのです。この事実を疑わない信仰、そしてそれを現実に適用していく祈りこそが、今日の教会が力を注ぐべき領域である、と張ダビデ牧師は語ります。パウロが救い論の頂点を宇宙的ビジョンと聖霊の祈りの働きの中に見いだしたように、私たちも「神の子ども」として嘆く被造物と共に栄光の日を待ち望みつつ、日々聖霊のうちに執り成しを祈り求めることをやめてはならないのです。 ローマ書8章18~27節は、書簡全体、さらには聖書全体の中でも非常に核心的な本文です。それは単なる教理的知識や神学的理論にとどまらず、生活の苦難のただ中で奮闘する聖徒たちに、「なぜ耐え忍ぶべきなのか、どこで希望を見いだすのか、どのように祈るべきなのか」を具体的に示してくれます。張ダビデ牧師はこの本文を講解するにあたり、「私たちはすでに聖霊の時代に生きているゆえ、決して一人ぼっちではなく、私たちが耐えきれない部分にまでも聖霊の嘆きが私たちを包み込んでくださる」という事実を繰り返し強調します。そして、パウロが「私は毎日死んでいます」(第一コリント15:31)と告白したその裏には、「聖霊への全面的な委託」があったことを思い起こさせます。 私たちに残されている課題は、この偉大な保証と約束を日常でどのように適用するかです。張ダビデ牧師は具体的に三つを提案することがあります。第一に、苦難に直面したとき、それをただ避けたい対象とみなすのではなく、やがて現れる栄光をよりはっきり見せる装置として解釈すること。第二に、被造物がうめいている現状を目の当たりにするとき、自然に対して慈しみ深い管理者の役割を果たせと命じられた神の言葉を思い起こし、生命と環境を守り育てる生き方をすること。第三に、自分の弱さを自覚し、日ごとに聖霊の助けを求めること。とりわけ祈りの生活を決してあきらめず、イエス・キリストの名によって近づく大胆さの上に、「聖霊の執り成し」を信頼しながら従う姿勢を持つことです。 これこそが、パウロが「思うに、現在の苦難は、やがて私たちに現れる栄光とは比べものになりません」と宣言した深い理由であり、「私たちは希望によって救われたのです」という逆説的な言葉の真の意味です。パウロにとって、この希望は空想や幻想ではなく、十字架と復活によって既に証明された事実でした。だからこそ彼は、この壮大な希望によって教会を建て上げ、福音を伝え、獄中に囚われ鞭打たれる状況の中でも喜びと賛美を失いませんでした。張ダビデ牧師は、ローマ書8章の講解において、パウロが書簡全体を通じて強調してきた十字架の神学と復活の力が、最終的にこの未来の栄光と聖霊の祈りへと集約されていると指摘し、現代のキリスト者も同じ原理を適用して生きるべきだと助言しています。 ローマ書8章18~27節は、宇宙的救いであると同時に個人的救いの性質も合わせ持っています。被造物がうめき嘆くのは、この地上で続く苦しみの現実を反映しており、私たちも苦しみと無縁ではいられません。しかし、それらすべてを超えて最終的に新しい天と新しい地を与えてくださる神に目を向けるのです。そしてその確信のもと、私たちは聖霊の助けを祈り求めてやみません。張ダビデ牧師が各地で語ってきたメッセージを総合すると、この本文が与える核心的な教えは次のように要約されます。「神の約束を信じ、希望をもって耐え忍び、私たちのために親しく執り成してくださる聖霊の恵みを見失わないようにせよ」。そうするとき、私たちが受けているどんな苦難も無意味な痛みで終わることはなく、被造物のうめきも結局は神の国の栄光へと集約され、私たちは「比較にならない栄光の未来」へと大胆に進むことができるのです。 www.davidjang.org

ゲッセマネの園 – 張ダビデ牧師

 張ダビデ牧師は、現代キリスト教界において独特の宣教の足跡と神学的見解を示してきた人物であり、とりわけ聖書を深く研究し黙想する過程で、キリスト者の生と教会の使命を強調してきた。彼は多くの著作や説教を通じて、イエス・キリストの福音が個人の霊的変化にとどまらず、教会共同体と社会全般に及ぼす影響まで幅広く論じる必要があると力説してきたのである。そうした観点から、ヨハネの福音書18章1節から11節に記録されている、ゲッセマネの園でイエスが捕らえられる出来事を中心に、張ダビデ牧師が捉えるキリスト教の本質とクリスチャンの人生の志向点、そして教会が進むべき方向についての洞察を整理してみる必要がある。また、彼は聖書本文が与える歴史的・神学的意味を見落とすことなく、現実の生活においてどのように適用し、実践すべきかを模索してきたが、こうした問題意識は、彼が一貫して強調してきた「福音の能動的実践性」と深く結びついていると言えよう。ヨハネの福音書18章1節から11節において、私たちは十字架へと向かわれるイエスとそのそばに立つ弟子たちの姿を目にするが、これは教会と聖徒が現実の困難や罪の構造的問題に直面する際、いかなる姿勢をとるべきかという重要な示唆を与えている。張ダビデ牧師は、この本文が単なる歴史的事件の記録ではなく、すべての時代の教会と聖徒がイエスに従って十字架の道へと進むとき、必ず向き合うことになる信仰的緊張と決断を含んでいると解釈するのである。  彼が強調する核心の一つは、イエス・キリストが「自らの意思と決断によって」十字架の道を選ばれたという点である。ヨハネの福音書18章1節から11節の中で、イエスは捕らえられる状況をすでに知っておられたにもかかわらず、キドロンの谷を渡ってゲッセマネの園へ向かわれる。一般的に、人は死や危険が迫ると逃れようとするが、イエスは逃げずに堂々と自分を捕まえに来る者たちの前へ進み出られた。「わたしだ(エゴー・エイミー)」というイエスの言葉は、ご自身のアイデンティティと使命を明確に自覚していることを示しており、福音書の著者ヨハネは、主が「捕らえられた」のではなく「ご自身を差し出された」のだという点を強調している。張ダビデ牧師は、この場面に表れる「神への絶対的信頼と従順」こそが、今日を生きる教会と聖徒が必ず掴まねばならない信仰だと教えている。私たちの人生においても、ときには信仰を守るために、あえて逆境を避けるのではなく、正面から向き合わねばならない局面が生じることがある。彼は「逃避ではなく、イエスのように積極的受容を通してこそ、信仰はより深く強固になる」と語ってきた。そこで張牧師は、ヨハネの福音書18章に関する説教において、イエスの決断に内包されている福音の逆説をしばしば強調する。イエスは十字架の恥辱を喜びとされた方(ヘブライ人への手紙12章2節)であり、これは人間には耐えがたい道であると同時に、神の力が現れる道でもあると説く。  では、このようなイエスの決断と従順が具体的にどのような意味を持つのか、張ダビデ牧師の解説を通してさらに見てみよう。まず、彼は十字架を「死をもって死に打ち勝つ場所」としてとらえる。人間の罪とその結果である死は、人間自身では解決できない問題であり、それゆえ神であるイエス・キリストが自ら私たちと同じ「血と肉」をもって来られ(ヘブライ2章14節)、死を通して死の支配を打ち破られたというのだ。ゲッセマネの園でイエスが「父がお与えになった杯を、わたしは飲まないでいられようか」と語られる場面は、この偉大な救いの過程が意図されたものであることを示す。すなわち、イエスは政治的・宗教的な陰謀に巻き込まれて不当に犠牲となられたのではなく、罪と死から人類を解放するために神の御心に従われたのである。張ダビデ牧師は、この救いの過程が見せる逆説的な美しさを非常に重視する。世の観点から見ると敗北のように見える十字架が、実は勝利の道となるという点にこそ、福音の力があるからだ。彼はこれを「神の国の逆説的ロジック」と説明する。一見すると無力な犠牲に見えても、実際には霊的勝利がそこで完成しているという意味において、イエスの捕縛と十字架刑は「救済史的転換点」だというわけである。  こうした十字架の逆説を強調する中で、張ダビデ牧師はペテロの「人間的な勇気」とイエスの「信仰の勇気」とを区別する。ヨハネの福音書18章10節でペテロは、大祭司のしもべマルコスの耳を切り落とすが、これは師を守ろうとする強い意志の表れともいえる。人間的視点から見れば、勇敢で正義感のある行動のようにも思える。しかしイエスはペテロに「剣を鞘に収めなさい」とお叱りになり、父がお与えになった杯を飲むことこそ真の従順だと宣言される。張牧師は、この場面が示しているのは、キリスト者の信仰とは単なる「正義感に基づく行動」や「自分の義の発露」ではなく、「神が望まれる十字架の道を選ぶこと」であると解説するのである。正義のために武力を行使する道もあり得るし、ときには敵を打ち負かす方法で勝利を求める道もあり得るが、イエスはその道を選ばれなかった。代わりに、罪人である私たちのための贖いの犠牲となられることで、罪と死の支配を根本的に断ち切られたのだ。張ダビデ牧師は「武器を手に取って対抗するだけでは、罪と死の根源を解決できない」という点を常に強調してきた。結局、霊的勝利は神の愛と正義が出会う十字架で完成するのであって、人間的な手段で一時的な正義を成しても、それは福音の根本的解決策とはなり得ないというのである。  張ダビデ牧師は、このメッセージを現代の教会と聖徒が社会の中で奉仕し献身する際にも適用すべきだと主張する。教会が世の悪と不正に直面するとき、私たちの「人間的な義憤」だけでは限界があり、むしろ別の暴力や分裂を生み出す可能性があることに留意すべきだというのだ。そこで彼が提示する実践は、「生き方として現れる福音」である。イエスのように罪人のためにご自分を差し出されることによって、かえって悪の根源を覆される神の方法を、教会が模倣すべきだという主張である。要するに、暴力や強圧的手段によって世の秩序を変革しようとするのではなく、十字架で示された犠牲的愛を通して、新しい秩序が出現するように仕向けることこそ、真に福音的な在り方なのだという。そしてその意味で、イエスの堂々とした姿、「わたしだ」と宣言して自ら捕縛される出来事は、教会が世の中で「世の光」と「地の塩」として自らを示す根本モデルとなる。教会が喜んで自己犠牲を担い、また信徒一人ひとりがキリストの愛を日常生活で実践していくならば、最終的には世の構造的悪と対峙し得る力が与えられるのだと、張ダビデ牧師は強調する。  さらに彼は、ゲッセマネの園の出来事が、信仰の実際的適用の観点で三つのことを示していると解釈する。第一に、本来なら真理の光を“ともし火”や“たいまつ”のようにかざして歩むべき人々が、その光をイエスを見つけ出して殺すために使ってしまったという点において、宗教的形式主義と制度権力が陥り得る過ちを警告する。もともと神を礼拝し福音を伝える役割を担うはずの大祭司やパリサイ人たちが、政治的で世俗化した利害の中でイエスを排斥したように、今日の教会もいつでも同じ落とし穴に陥る可能性があるということだ。第二に、イエスの「わたしだ」という宣言には、死の勢力が襲ってきてもまったく後退しない神の権威と威厳が込められていると彼は付け加える。これは世の恐れや迫害に直面しつつも、信仰の本質を守り抜くときに教会が示し得る大胆さでもある。第三に、イエスがペテロをいさめて「剣を鞘に収めなさい」と言われた御言葉は、教会が世と対峙する際、どのような根本姿勢をとるべきかを提示しているという点を再認識させる。暴力や人間的な熱心ではなく、神が与えてくださる愛と恵み、そして犠牲の実践を通じてこそ世を変えうる道が主の道だということだ。張牧師は、この三つの要素が教会史の中で絶えず再確認されてきたことを指摘しつつ、韓国教会もまたこの教えを真剣に噛みしめねばならないと語る。  また張ダビデ牧師は、ゲッセマネの園でのイエスの姿勢を見習い、信徒一人ひとりが自発的に十字架の道を選び取っていくべきだと多方面で説いてきた。彼によれば、私たちが福音を真に知るとは、教会の伝統や神学的知識を習得する以上の意味がある。むしろ福音によって私たちの生き方が変容し、その変化が他者にまで肯定的な影響を与えることこそが本質だというのだ。イエスが弟子たちを守るために自ら進み出たように、教会は共同体の内部にいる弱い者たちをまず顧み、その回復のために犠牲するべきだというメッセージを伝える。そしてその延長線上で、社会的にも苦しむ人々を探し出し、その人々が人間らしい尊厳を回復できるよう支援することこそが、教会の本質的役割だと説くのである。こうした文脈で、張牧師がよく引用する聖句がガラテヤ6章2節の「互いの重荷を負い合いなさい。そうすればキリストの律法を成就することになります」である。彼は、この御言葉がゲッセマネで捕らえられるイエスの態度とつながっていると語る。イエスは単に弟子たちを守られただけでなく、人類全体の背負う罪の重荷までも代わりに担われた方であるゆえ、「互いに重荷を負う」とは、私たちの小さな部分からでも他者の痛みや責任をともに分かち合うことから始まるという論理だ。  では、現代の教会現場でこのメッセージをどのように具現していくのかについて、張ダビデ牧師は幾つかの方向性を提示してきた。たとえば、教会が社会奉仕や宣教活動を行う際にも、単なる施しの態度ではなく、現場の人々と同じ立場に立って共に痛みを感じ、実際にその必要を満たそうとする「同行」の精神が必要だと説く。これはゲッセマネでイエスがしばしば弟子たちと共におられたように(ヨハネ18章2節)、教会も共同体的な絆の中で互いの状況を分かち合い、世話し合うべきだというモデルとして捉えられる。張牧師は、ゲッセマネがイエスが祈りを通じて神の御旨に完全に服従された場所であると同時に、弟子たちと深く交わりを持たれた場所でもあった点に注目する。つまり、神の臨在を経験し、神の御心に従う霊的な訓練は、個人の次元を超えて共同体の次元で行われるべきだというのである。だからこそ彼は、教会内で共に祈り、御言葉を分かち合い、互いに仕える小さな集まりが活発に運営されるとき、初めてゲッセマネの園が私たちの日常の場となるのだと説く。  張ダビデ牧師は、このように教会の中でゲッセマネの霊性を回復することが、最終的にクリスチャンたちに十字架の道を直面できる「霊的筋肉」を育てるのだと語る。ペテロが剣を抜くほどの情熱を持っていたにもかかわらず、実際イエスが捕らえられ裁判にかけられる過程で三度も否認してしまう場面(ヨハネ18章15節以下)を例に挙げ、「人間的な熱意は簡単に挫折や裏切りへと転じうる」と指摘するのである。唯一、御言葉と祈りによって鍛えられた霊性があるときこそ、患難のただ中でも根を下ろし揺るがずにいられるというわけだ。この点に関して張牧師は、教会が信徒に対して単に「行動」を促すだけでなく、「御言葉と祈りによって自らの内面を武装せよ」というメッセージを絶えず伝えねばならないと主張する。ペテロが本能的に剣を抜いた場面は非常に人間的な反応だが、キリストはその瞬間にも「父が与えてくださった杯を飲む」と語る、聖くも深い霊的決断を示された。この違いは、結局「人間的な熱意」と「神の御心に従う生き方」の隔たりがいかに大きいかを浮き彫りにする。ゆえに教会は、この部分において信徒たちがペテロの轍を踏まないよう、御言葉に堅く立ち祈りを通して心を整える訓練を提供しなければならないというのが、張牧師の考えなのである。  とはいえ、彼は信徒の「行動」自体を無価値とみなしたり、教会が世の問題に無関心であれと主張したりしているわけではない。むしろ彼は、福音の実践こそがきわめて重要な聖書的教えだと語る。ただしその実践は、キリストの思いと動機から出発しなければならないという前提を強調しているのだ。たとえば、イエスを捕らえようと担いできた灯火やたいまつ、そして武器は、本来なら真理を照らし革新を起こす象徴にもなり得たが、むしろイエスを排斥し殺す道具となってしまったように、教会も福音の名のもとに、かえって福音に反する行いをする危険が常に存在する、と彼は警告する。これは教会が社会で何かを推進したり声を上げたりするとき、「果たしてこれはイエスの道なのか」「私たちが言う正義や革新は、本当に福音的なものなのか」をたえず自問しなければならないことを意味する。張ダビデ牧師は、歴史の中で教会がしばしば「十字軍」のような暴力的形態で福音を利用してしまった暗い面を反面教師とすべきだと説く。信仰は剣を取らせるのではなく、むしろ「剣を鞘に収めなさい」という主の命令の前に従う形で現れるべきであり、犠牲的愛によって世を変革することがこそが福音の本質だというわけである。  こうした文脈の中で、張牧師が重ねて強調するのは「自分自身の意思ではなく、聖霊の導きによって働きを行え」という点だ。ヨハネ18章でイエスが示された態度こそ、まさに聖霊の力のうちに神の御心にご自身を委ねた模範だという。彼はこの本文を引用するとき、イエスがゲッセマネで祈られた際、汗が血のしずくのようになった場面(ルカ22章44節)や、マタイ・マルコ福音書に記されたゲッセマネの祈りの場面も必ず言及することが多い。ヨハネ18章では簡潔にしか触れられていないが、イエスの十字架への決断が祈りを通して聖霊の助けを求め、苦悩の末に選び取られた道である事実を知らせるためである。そこで張牧師は、今日の教会が福音宣教をするときも、個人的な熱意や知識だけでは不十分であり、必ず聖霊の知恵と力を求めなければならないと説く。その例として、教会が地域社会を仕え奉仕するときにも、奉仕の規模や華やかさに焦点を当てるのではなく、隣人に向けたイエスの思いと視線を実際に抱いているかどうかを振り返るべきだと具体的な助言を示す。  このような適用点を展開しながら、張ダビデ牧師はゲッセマネの園で師を裏切ったユダが、実は「主から大きな愛と教えを受けていた者」であった事実も見落とすべきではないと語る。ヨハネ18章2節の「そこはイエスが弟子たちとときどき集まっておられた所なので、イエスを裏切るユダもそこを知っていた」という一節に注目すれば、ユダはイエスからしばしば御言葉を聞き、教えを受けていたにもかかわらず、銀貨三十枚で師を売り渡した裏切り者となったのだ。張ダビデ牧師は、これを通じて「福音の恵みを受けたからといって、自動的に正しい選択をするわけではない」という事実を強調する。信仰共同体の中で御言葉が宣べ伝えられ教えが与えられても、結局は各人が自分の心をどう守るかによって、いくらでも別の道へ逸れてしまう可能性があるというわけだ。そこで彼は、教会が外面的成長やプログラムの豊かさだけに執着するのではなく、各信徒と緊密にコミュニケーションを取りながら共に祈り、心を配る牧会的ケアをいっそう深めねばならないと見る。ユダの例を鑑みると、御言葉を聞きイエスの奇跡を体験した人であっても、いくらでも自分の欲望や世俗的目的に目がくらんでイエスを裏切る可能性があることに気づかされる。ゆえに教会は信徒それぞれの霊的状態を見守り、継続的に点検し合い、互いに励まし合う関係を形作る責任があるのだと彼は述べる。  ここで張牧師は、教会共同体が「霊的な家族」であるという意識を回復すべきだと主張する。家族とは互いの弱点も知り、互いを傷つけ得る関係であるが、最終的にはその関係の中でケアと責任を分かち合いながら共に成長していく存在であるという。教会も同様に、単に礼拝を捧げて帰る「匿名の集まり」ではなく、互いの魂に責任を負う共同体として機能しなければならず、そのためには牧会者だけでなくすべての信徒が互いにとりなし祈り、仕え合う関係に参加すべきだと助言する。彼は、ゲッセマネでイエスが弟子たちに「誘惑に陥らないよう目を覚まして祈りなさい」(マタイ26章41節)と切に願われたにもかかわらず、弟子たちが眠り込んでしまい、結局その瞬間を逃してしまった状況をしばしば取り上げながら、教会が本当に「目を覚まして祈っている共同体」なのかを省察せよと促す。単に行事や礼拝プログラムを増やすだけでは真の霊的覚醒は起こらず、実際に信徒たちが「神の御心」と「隣人の必要」を共に負い祈る文化が醸成されなければならないのだという。  さらに張ダビデ牧師は、ゲッセマネでのイエスの「主権的行動」を教会のリーダーシップにも結びつけて解釈している。イエスは十分逃れることができたはずの状況でも、「わたしだ」と宣言して自らを差し出された。それは、真のリーダーシップとは自己保身よりも共同体の益を優先し、ときには犠牲をもいとわない姿だということを示しているというのである。張牧師は、教会が安定や利益を追い求めるために世の権力と手を組んだり、逆に暴力的・強圧的な方法で内部を統制しようとするとき、結局イエスが示された神的権威とはかけ離れてしまう可能性があると指摘する。彼は「福音とは、自らを犠牲にして愛を実践することによってこそ真の権威が現れる」という原則を繰り返し強調する。これこそが教会の指導者や奉仕者が必ず心に刻むべき福音の原理であり、組織やプログラムよりも先に置かれるべき価値だというのだ。  さらに進んで張ダビデ牧師は、イエスが捕らえられる瞬間でさえ弟子たちを先に「この人たちは去らせてください(ヨハネ18章8節)」と守ろうとされた姿を見て、教会は世から迫害を受けることがあっても信徒を守り養い、さらに世の中で弱い立場にある人々をも抱える重要な使命を改めて悟らされると語る。彼は、この地の教会が世の声に過剰に反応したり、教勢拡大だけに没頭したりするあまり、貧しく疎外された人々を放置しているのは大きな問題だと指摘する。イエスは「羊を一匹探すために、九十九匹を残してでも出かけて行かれる」(ルカ15章のたとえ)と仰せになるが、今日の教会はその「一匹の羊」を顧みず放置しているのではないかと自省する必要があるというのだ。これはゲッセマネにおいて主が示された犠牲的なケアの延長線上で理解できる。もし今も教会が隣人や信徒の痛みに真に寄り添うことに力を注ぐなら、世は教会を通じて初めて「キリストの愛」を現実的に体験し得るだろうからである。  一方、張牧師は、ヨハネの福音書でたびたび用いられる「光」というイメージに基づいて、教会が光を持つ共同体として果たすべき役割を改めて想起する。すでに述べたように、ゲッセマネの園は満月の夜で明るかったにもかかわらず、人々は灯火とたいまつを持ってイエスを捕らえに来た。ヨハネの福音書全体の神学において「光」はイエスご自身を象徴し、「闇」は真理を拒否し排斥する勢力を意味する。張ダビデ牧師は、本来なら闇を照らして明るくするはずの灯火やたいまつが、この本文では逆説的に真理そのものであるイエスを捕らえ殺す手段に利用されてしまったことを指摘する。これは、宗教が本来もつはずの役割、すなわち真理を知らせ命を与える役割が歪められたとき、いかに恐ろしい結果をもたらすかを示す事件として解釈される。ここで教会は自らの本質を絶えず点検すべきである。私たちは本当にイエス・キリストの光を伝える共同体なのか。それとも宗教的制度や世俗的欲望に流され、真理に従うのではなく、むしろ真理を拒絶してはいないか。張牧師はこの問いを胸に刻むべきだと教えている。  では、この反省と点検が最終的にどこへ向かうべきかについて、張牧師は「教会はよりへりくだり、悔い改める共同体とならなければならない」と語る。イエスの歩まれた道、すなわち十字架の道は、徹底的に自分を低くし、人類の罪を担った神の完全な愛が現れた道であるがゆえに、その道を教会がたどるならば、自らを高めたり独善的な態度をとったりすることはできないからである。そこで彼は、ゲッセマネの物語に向き合うたびに、教会の地位や権威を主張する前に「私が間違っていました。私たちは主の道を外れていました」と告白できる共同体であるべきだと強く訴える。こうした告白がなければ、結局は表面上イエスの名を唱えながらも、実際にはイエスを排斥して捕縛する群れに加担した大祭司やパリサイ人たちと大差なくなってしまうというのだ。張牧師は「悔い改めは教会の絶え間ない刷新の原動力」であるという表現をよく使うが、それはまさに教会が福音の光を完全に受け止めるために、自らの罪性と限界を認め、ただイエス・キリストの義にすがるしかないというメッセージにつながっている。  結論として、張ダビデ牧師の解説を通してヨハネの福音書18章1節から11節に記されたゲッセマネの園での捕縛事件を眺めると、単にイエスの劇的な捕縛シーンだけが際立つのではない。その背景には、「贖いの子羊」となられるイエスの決断、その道を自発的に歩まれた信仰の勇気、さらにキリスト者の祈りや共同体のケア、そして教会が見習うべき犠牲的リーダーシップなどが有機的に組み合わされた統合的な解釈が据わっている。この出来事はイエスの時代に限られた苦難であると同時に、それを越えてあらゆる時代の教会が直面する信仰的決断の象徴として読むべきだというのが、張牧師の中心的主張である。ゆえに彼は説教や著述を通して、「教会がイエスを裏切り捕縛する群れの側に立たないよう常に目を覚ましていなければならない」という警告と、「イエスのように十字架の道を選ぶことでこそ、真の救いと癒し、そして新しい命の道へと進める」という希望とを同時に提示してきたのだ。  具体的には、この希望は個人の次元では罪の鎖が断たれ新しい人生が開かれる「再生(新生)」の体験として現れ、共同体の次元では互いに愛し仕え合う関係を通じて「神の国」をこの地に部分的ながらも実現していく姿へとつながる。張ダビデ牧師はゲッセマネのイエスについて「福音のための自己献身を最も完全に示されたお方」と呼ぶ。そして教会は、この福音を伝えるにあたり、単に言葉や知識にとどまらず、イエスのように生きねばならないことを繰り返し思い起こさせる。それは時として苦難を伴い、世からの誤解や迫害を招くかもしれないが、最後には復活の栄光へとつながることを、私たちは十字架と復活を通してすでに知っている。だからこそ彼は、教会の歩みがこの「十字架と復活」のリズムの中でいっそう大胆になり、さらに聖霊の力によって豊かになるべきだと説くのである。  張牧師はまた、ヨハネ18章9節の「これは『あなたがわたしにくださった人々のうち、ひとりも失うことはありませんでした』という御言葉を成就するためであった」という箇所を非常に重視する。この一節がヨハネ6章39節、10章28節などともつながりながら、イエスが最後まで弟子たちを守り責任を負われる姿がよく示されているからだ。ここで彼は、教会がイエスのその思いを継承すべきだと語る。教会は人を安易に裁いたり排除したりせず、最後まで抱え、とりなし祈ってあげる共同体であるべきだ。なぜならイエスは罪人のために十字架を負われた方であり、私たちの弱さをご存じでも捨てなかったからである。ゆえに彼は「福音は、単に人を教会の内側に引き入れる道具ではなく、教会の内外を問わずすべてを生かそうとする神の絶対的な愛の表現」であることを改めて思い出させる。この愛が具体的に機能するためには、イエスのように教会が自らの安全と都合を捨て、献身と犠牲の場へと自発的に踏み出さなければならない。それこそがゲッセマネの主に倣う道であり、この捕縛と十字架の出来事が私たちに与える永遠の教訓だと彼は結論づけ、信徒たちに共にその道へ進もうと励ましている。  まとめるならば、張ダビデ牧師はヨハネの福音書18章1節から11節のゲッセマネ捕縛事件を通して、イエスが自ら十字架の道を歩まれた理由と、その過程で現れた神的権威と愛、そして教会が見倣うべき犠牲的リーダーシップと共同体的責任を論じている。彼は、ゲッセマネの出来事が当時の歴史的文脈で起こった受難である一方、それを超えてあらゆる時代の信徒に「十字架を負って従う」とは何かを悟らせる強力な象徴だと見なす。そこで彼は、信仰の道で味わう困難や決断の瞬間をこの本文と関連づけて解釈してきたのであり、教会が自らを振り返り、「本当に福音の光を掲げているのか、それとも灯火とたいまつを持ちながらイエスを拒む群れに属していないか」を省察せよと促す。同時に、イエスの自己犠牲は、人間の力や意思では解決できない罪と死の問題を「贖罪」という形で完全に解決された神の救いの計画の頂点であるため、この出来事は単なる裏切りと捕縛の物語ではなく救済史の核心だと強調する。ゆえにキリスト者ならば、この本文を黙想するたびにイエスの従順と愛を深く心に刻み、教会共同体がその道を辿る実践的な行動様式を備えねばならないと、張牧師は絶えず教えてきたのだ。  張ダビデ牧師の宣教全般と神学的立場は、ゲッセマネの園でのイエスの捕縛場面をはじめとする福音書の核心的事件を「今日の教会と信徒がともに生きていくべき現在進行形の真理」として捉えるところによく表れている。彼は神学的思弁や外形的成果よりも、実際に福音が生活に深く根を下ろし、教会と社会を変えていく実践を何より重んじる。そして、その実践の原動力は人間的努力や熱意ではなく、イエスが示された神の愛に対する信仰と従順、そして聖霊の満ち溢れる働きにあることを浮き彫りにする。この点において張ダビデ牧師が解釈するヨハネ18章1節から11節は、単に「イエスが捕らえられる」という歴史的出来事の記録にとどまらず、教会が日々の生活の中で出会う「小さなゲッセマネ」の瞬間にどう応じるべきかを示す生き生きとした指針と言えよう。またペテロとユダ、大祭司とパリサイ人、そして主の姿がそれぞれ象徴するところを通して、私たち自身や教会の姿を投影し、いかなる道を歩むべきかについて深い洞察を与えるというのである。こうした視点は張牧師の説教や著述、そして具体的な宣教の方向性にも一貫して反映されてきており、それこそが彼が絶えず教会の福音的アイデンティティと使命に問いを投げ続けてきた理由でもある。  最終的に、張ダビデ牧師が伝えるメッセージを一言で要約するならば「福音へ立ち返ろう」となる。ヨハネ18章1節から11節に示されたイエス・キリストの姿、そして主が選ばれた道は、教会がどのような組織やプログラムによって定義されるのではなく、イエスの十字架の愛と復活の力によって形作られる共同体であることを改めて確認させるのである。教会は世の非難や反対、あるいは世の権力と結びつこうとする誘惑に直面し得る。しかしゲッセマネで示されたイエスの姿勢は、そうした状況下で教会が取るべき模範をはっきりと提示する。自らを差し出し、弟子を守り、神の御心に徹底して従うことによって、ついには罪と死に打ち勝たれる道を行かれた主の姿こそ、今日の教会と信徒がいかなる形であれ実践すべき「愛の革命」であり「犠牲の原理」を鮮明に示している。張ダビデ牧師は、これこそ私たちの信仰がいかなるときも放棄し得ないアイデンティティだと強調してきたのである。  ゆえに、このすべての議論の結論として、ゲッセマネの園で捕らえられるイエスを通して教会が学ぶべき教訓を次のように要約できる。第一に、イエスの道は自発的従順の道である。自ら捕らえられることで罪人を救う道を選ばれた事実は、教会も神の召しの前に後ずさりするのではなく献身するべきことを示す。第二に、この道は人間的熱意や暴力ではなく、愛と犠牲によって世界を変革する道である。ペテロの抜いた剣ではなく、イエスの十字架が究極的勝利をもたらすように、教会も剣ではなく十字架の愛を前面に掲げねばならない。第三に、この道は共同体的な配慮と責任を要求する。イエスが弟子たちを守られたように、教会も構成員と隣人を守り仕え、「ひとりも失わない」という思いで進まねばならない。第四に、この道は光を持つ者として、ともし火やたいまつを正しい意味で使うことを象徴する。間違った灯火やたいまつはイエスを排斥する手段となり得るが、福音の真の光は世を照らし命を生かす道具となる。張ダビデ牧師は、これらの原理が単なる教理や言葉にとどまるのではなく、教会の現実の生を通じて証明されねばならないと力説する。彼が牧会と宣教の場で最も強く訴えるメッセージこそ、この「福音実践の絶対性」なのであり、ヨハネ18章に描かれたイエスの姿は、教会がその絶対性を忘れないよう常に思い起こすべき場面である。何より、十字架の道へと進まれたイエスの決断こそ、教会が歩むべき真実の「十字架の道」を鮮明に示しているのだ。 www.davidjang.org

ピラトによる尋問と十字架 – 張ダビデ牧師

1. ピラトの人物像とイエス様への尋問の過程 ヨハネの福音書19章1節から16節に描かれるピラトとイエス様との出会いは、福音書全体の中でも非常に重要な分岐点です。この場面は表面的にはローマ帝国の総督であるピラトが、一人のユダヤ人であるイエスを尋問するプロセスですが、その奥には永遠の真理をめぐる対立が浮かび上がっています。そしてその対立の核心には、「神の子」であるイエス様が否定され、嘲られる姿があります。本文に登場するピラト、ユダヤの宗教指導者たち、そしてイエス様の態度を綿密に観察すると、最終的には神と人との間に結ばれた契約、そして神の子イエス・キリストが受けられる試練の決定的瞬間に立ち会うことになるのです。特に、張ダビデ牧師はこの本文を解釈する際、ピラトの内なる葛藤と、動じることなく従順の道を歩まれるイエス様の姿とが強い対比をなしている点を強調します。ピラトの心にも、わずかながらイエスを解放しようとする慈悲の念があったものの、結局は政治的圧力と自己保身の誘惑に屈してしまいました。一方、イエス様は「上から与えられていなかったならば、あなたはわたしに何の権限も持ち得なかったのだ」と宣言され、ご自身の死さえも神の主権下にあることを明らかにされます。 まずピラトは、イエス様に罪がないことを何度も確認しながらも、やむを得ずイエス様を鞭打ちにかけます。鞭打ちを行なった理由は、当時、被告に苛酷な体罰を加えることで訴えを起こした者たちの鬱憤や要求をやわらげ、処罰の強度を下げたり、あるいは解放する余地を作れるのではないかという期待があったからです。ルカの福音書23章16節と22節では、ピラトが「懲らしめて釈放する」と三度も繰り返して宣言している箇所がありますが、これが当時の慣習を示唆しています。ピラトはユダヤの指導者や群衆の前でイエスをとことん鞭打ちにかけたのち、「これほどまでに酷い姿にしたのだから、もうこの男を釈放してもよいではないか」と提案しようとしたのです。残酷な方法ではありますが、政治的な圧力にさらされていたピラトが最終的な妥協策として考えうる手段だったわけです。 しかしヨハネの福音書では、ピラトが鞭打ちの後にイエスを解放しようとしたという直接的な言及はあまり目立ちません。これは本文の焦点が、ピラトの寛容や個人的葛藤にあるのではなく、結局「十字架に引き渡されるイエス様」の運命と、その運命に加担する諸勢力の悪意に置かれているからだと考えられます。ヨハネは、他の福音書に出てくる「鞭打ってから釈放する」というピラトの言葉を省略することで、結果的にピラトもイエス様の死に決定的に加担した人物であることを際立たせます。罪のないことを知りながらも、自らの地位(総督職)と政治的安全を守るために無実のイエスを十字架刑に引き渡した責任を、ピラトは負うことになったのです。 では、ピラトはもともと残酷で無慈悲な人物だったのでしょうか。歴史家たちの記録によると、ローマの第5代ユダヤ総督として在任した彼(紀元26〜36年)は、ユダヤ人やサマリア人を何度も無慈悲に虐殺し、皇帝を神格化した軍旗をエルサレム神殿の近くに立てるなど宗教的侮辱とされる行為を行い、悪名を高めていました。彼はユダヤの伝統や民族感情を軽んじ、大小さまざまな対立が絶えなかった人物です。しかし、そんな人物であっても、イエス様と直接向き合った瞬間だけは、その無罪性と何らかの神秘性を直感的に感じ取ったのだと言えます。だからこそ「この人に罪を見いだせない」と繰り返し述べ、またイエス様が「神の子」であるという話を聞いたとき、いっそう恐れを抱いたのです(ヨハネ19:8)。 この段階でユダヤの指導者たちはむしろ「神の子」という宣言を聞き、さらに激しい憎悪と怒りに燃え上がります。ピラトは「もし本当に神の子であるならば、自分がむやみに死刑にするのは大きな罪になるのではないか?」と恐れを感じましたが、大祭司や指導者たちはその言葉に激昂してしまいます。ヨハネの福音書19章6節で、大祭司や下役たちが「十字架につけろ!」と叫ぶ姿は、血まみれのイエス様の姿を見ても微塵の同情すら持たないことを如実に物語っています。これは単なる政治的陰謀ではありません。張ダビデ牧師はこの場面を解釈するにあたり、「神の民」を自称してきた彼らの内に潜む霊的暗闇と無知が、どれほど深刻だったかを暴露するのだと強調します。ピラトのような異邦人の総督ですら真実を恐れ戦いていたのに、神の律法を知り、メシアを長く待ち望んでいたはずの大祭司や長老、律法学者たちは「我々にはカイサルのほかに王はない」という暴言さえ平然と口にするのです。 これは事実上、自らの信仰告白—「ただ神だけが私たちの王である」—を正面から否定するものでした。イスラエルのアイデンティティは『サムエル記』や『列王記』、さらには預言書全般にわたって、「神ご自身がイスラエルの王となられる」という土台の上に築かれています。それにもかかわらず、イエス様を殺すために、彼らはピラトに対して「この人を釈放するなら、あなたはカイサルの忠臣ではない」という脅し文句を投げつけるのです(ヨハネ19:12)。神への冒涜容疑を政治的な反逆罪にすり替え、ローマの権力にすがるという矛盾した態度を取るわけです。そして結局、ピラトもこの脅しに屈します。 最終的にピラトは「見よ、あなたたちの王だ」(ヨハネ19:14)と宣言し、イエス様をローマ帝国に対する反逆者として訴えるユダヤ人たちを逆に嘲ります。皮肉なことにこの言葉は、ピラトがある程度真実に近づいていたことを示唆します。イエス様が本当に王であることを、ピラト自身も朧げながら感じ取っていたかもしれません。しかしユダヤ人たちは「カイサルのほかにわたしたちには王がない」と声を張り上げ、自ら神の統治を否定する罪の奈落に陥っていきます。その劇的な瞬間、ヨハネの福音書19章16節は、ピラトが結局イエス様を十字架につけるために引き渡してしまったことを告げます。 このように、ピラトとイエス様の尋問の過程は、最終的に私たちに「真理とは何か?」という問いを投げかけます。ピラトが告白したように、「真理とは何か?」という懐疑に陥る人々もいれば、大祭司たちのようにそもそも真理に対する畏敬を失ってしまう人々もいます。ヨハネ18章37節でイエス様は「真理に属する者はわたしの声を聞く」と仰いますが、ユダヤの指導者たちはその声を拒みました。真理を切実に求め、へりくだって受け入れるよりも、自分たちの既得権や立場を最優先した結果、あらゆる正しい分別力を失ってしまったのです。信仰が深そうに見えるとか、熱心さが人一倍あるとか、そうしたこと自体が直ちに真理を追う証拠にはならないという事実が、この本文で明白になります。張ダビデ牧師は「熱意が即、真理追求の標識とは限らないことに常に警戒すべきだ」と強調します。大祭司や律法学者たちのように、自分たちは神の業をしていると確信しながら、実際には神の子を殺すという信じがたい罪悪に陥ることもあるからです。 イエス様が「どこの出身なのか?」と問うピラトの問いに沈黙されたこと、さらに「上から与えられていなかったならば、あなたはわたしを害する権限を持ち得なかった」と答えられた場面は、とりわけ重要です。イエス様はピラトの権威やユダヤ人たちの圧力によって死を迎えるのではなく、あくまで神のご計画と摂理のうちに従順してご自身を差し出されるのだということを強調されます。これは十字架へと至る道ですが、その道は決して敗北ではなく、永遠の勝利をもたらす道です。イエス様は必然的に死を迎えられなければなりませんでしたが、その死は贖いの死であり、全人類に救いの道を開く決定的な出来事でした。人の目には敗北のように見えても、張ダビデ牧師が幾度となく説教で語るように、「十字架は最大の勝利の現場」です。ピラトさえ恐れおののいたその惨たらしい死は、神の子どもたちを生かす命の道であり、死を滅ぼす勝利の道だったのです。 したがって、ピラトとイエス様の尋問は歴史のアイロニーであり、同時に霊的ドラマの頂点とも言えます。ピラトのように罪がないと知りつつもイエスを死に渡す者がおり、大祭司たちのように「カイサルのほかに王はいない」と宣言して神を捨てる者もいます。しかしその中にあってもイエス様は揺らぐことなく十字架の道を進まれます。これはある意味で「主の道を従う者」がいかに堅固に真理に立たなければならないかを問いかける場面です。真理に対して懐疑的なピラト、怒りで真理を拒むユダヤの指導者たちを見ながら、私たちは自分自身を省みる必要があります。自分の宗教的熱心が実は神の業に敵対する姿になっていないか、あるいは世の権力と妥協して真理を薄める行動を取っていないか、といった問いかけです。 一方で、ピラトがイエス様に「どこから来たのか?」と尋ねたとき、私たちはヨハネの福音書全体が提示するイエス様の正体性を思い起こす必要があります。つまり「上から来た方」、「この世に属していない方」、「父から来られた方」が、ヨハネが繰り返し描くイエス様の超越的なアイデンティティです。この壮大な真理をはっきりと理解できない限り、ピラトの疑問は解決せず、ユダヤ人たちの憎悪も解決しません。ただイエス様を「神の子」と信じ告白する信仰のうちに立つときだけ、真理とは何か、そしてなぜ主が十字架につけられねばならなかったのかを知ることができます。そしてこの信仰こそ、私たちに命と救いの道を開いてくれるのです。 ピラトは「あなたを釈放する権限も、十字架につける権限も私にはあるのだ」と豪語しましたが、実際イエス様はそれ以上の神の権威に依拠されていました。世の権威はピラトやユダヤの指導者たちのように揺らぎやすく、妥協しやすいものですが、イエス様が示された神の権威はむしろ沈黙と従順、そして自己を捨てることによって完成されます。これは世の常識からすると敗北に見えますが、霊的な目で見るなら、神の国の決定的勝利であり、罪と死を打ち破る絶対的力です。このように十字架へと向かわれるイエス様の姿は、私たちに神のご計画と主権を信頼させるものでもあります。 ヨハネの福音書19章1節から16節は、結局ピラトがイエスを十字架につけるように引き渡す場面で終わります。これは歴史的にも神学的にも深い意味を持つ出来事です。ローマ帝国の法廷で、その法を最も熟知していたはずのピラトが政治的圧迫に屈し、無罪のイエス様を死刑へと引き渡しました。そしてそのイエス様の処刑に最も積極的に協力したのは、皮肉にも神の選民だと自負していたユダヤ人の指導者たちでした。この矛盾だらけの歴史は、人間がいかに簡単に罪や自己保身の本能に屈し、妥協してしまうかを端的に示すものです。一方で、イエス様はどんな暴力や憎しみにも揺さぶられず、「上から与えられていなければ、何もできない」というお言葉の通り、ひたすら神の御旨のうちにあって、あらゆる侮辱と苦痛を受け入れられます。 張ダビデ牧師は、これこそ真の信仰の姿だと説きます。つまり、世の権力やプレッシャー、そして自分の命さえも父なる神の主権に委ね、揺らぐことなく従順する姿がイエス様の生涯と死に最も際立って現れているということです。そしてそれこそが私たちにも求められる弟子道(デサイプルシップ)の本質であり、ピラトとイエス様、そしてユダヤの指導者たちの対立は、単なる過去の歴史ではなく、現代の私たちにも直接的な挑戦を投げかけるものなのです。 2. 十字架の道と真の王であるキリストの意味 前述のピラトとイエス様の尋問過程を通じて、私たちはイエス様の十字架の出来事が単なる政治的陰謀や司法上の誤審に終わる話ではなく、神の救済計画の中で必然的に起こるべき出来事だったということを見いだします。十字架は、イエス様が選べた数ある死の形の中でも最悪の死でした。石打ちの刑で死ぬ可能性もあり、公権力の誤判によって牢獄で処刑されることも想像できたでしょう。けれどもイエス様は最も苛酷な苦痛と最大の恥辱を伴う十字架を「自発的に」負われました。これはヨハネ3章14節で「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と仰せられた通り、人の子が「上げられる(高く掲げられる)」という救いの象徴が十字架だったからです。 十字架刑は古代ローマで最も凶悪な犯罪者に適用された処刑方式で、イエス様の時代のユダヤ人たちにとってはさらに「呪い」の意味合いが強いものでした。申命記21章23節に「木にかけられた者は神に呪われた者である」とあるため、彼らは十字架刑を神への冒涜に等しいものと見なし、恐怖し嫌悪しました。しかしイエス様はその呪われた者の位置にご自身で降りて行かれることで、むしろ全人類が負うべき呪いをその肩に背負われるのです。そこには、神の独り子であるイエス様がなぜ「しもべのかたちをとり、人間の姿をもって現れたのか」(ピリピ2:7)という根本的な答えが含まれています。このようにしてご自身を空しくし、死に至るまで従順されたイエス様の歩みが、神の国の価値を実現する道なのです。世の国では理解されがたい、また受け入れられにくい方法ですが、神の国の秩序は「仕えること、自己犠牲、従順」で要約できるのだといえます。 張ダビデ牧師は、この十字架こそが神の国が動く原理、すなわち「愛と犠牲、そして従順の中心」であると強調します。私たちが一般にイメージする「王」とは、王座に座って支配し命令を下す存在ですが、イエス様の王であることの完成形は、むしろ十字架につけられ死ぬことによって顕されます。これはヘーゲル流の正反合の逆説ではなく、そもそもイエス様が宣べ伝えられた神の国の価値観自体が「ご自身を低くする」ことにあるのだという預表でもあります。イエス様が弟子たちに「あなたがたの中で偉くなりたい者は仕える者になり、いちばん上になりたい者はみなのしもべとなりなさい」と仰ったのも、同じ文脈です(マタイ20:26-27)。 それゆえ、ピラトが「見よ、あなたがたの王だ!」と叫んだとき、イエス様は血にまみれた惨めな姿で立っておられましたが、霊的な意味ではそこが真の王座のような場所でした。なぜならイエス様こそが神の子、すなわち万王の王だからです。ユダヤの指導者たちはこれを嘲りの言葉として受け取り、ピラト自身も皮肉をこめて使ったかもしれません。しかし福音書は、この言葉が実は真実を宣言していると逆説的に示します。イエス様が十字架につけられたとき、その頭の上には「ユダヤ人の王」と書かれた札が掲げられました(ヨハネ19:19)。これはローマ法によって犯罪事実を掲示する名札でしたが、皮肉にもイエス様の本当の身分を宣言する称号となったのです。 この「王」であるイエス様を私たちはどのように理解し、どのように従うべきでしょうか。十字架の本質を正しくつかめないと、イエス様を誤解する可能性があります。単に「力の王、奇跡の王」としてキリストをとらえるならば、自分の生活に利益をもたらす道具あるいは神的存在としてのみイエス様を扱うことになりかねません。しかしイエス様が実際に示された王権は、死に至るまでの従順によって、すべての人を生かす犠牲の道でした。それゆえ、十字架は信じる者にとっては神の力ですが、信じない者には愚かしく見え、華々しさとは無縁に映るのです(コリント第一1:18)。 張ダビデ牧師はイエス様が受けられた二重の苦難—鞭打ちと十字架—を通して、私たちが覚えるべきことは、信仰の歩みが決して容易ではないことを示している点だと言います。「死に至るほどの苦難」という言葉の通り、イエス様は鞭によって肉が裂かれるほど打たれ、茨の冠で頭を刺され血を流し、最後には十字架に釘付けにされました。これは人類史上でもっとも残酷な処刑方式の一つです。ですが、その道こそが命へと向かう道でした。イエス様に従うとき、私たちの信仰生活にも時に大きな試練や迫害があるかもしれませんが、それは決して敗北ではなく、神が私たちを通して霊的な実を結ぼうとしておられる過程なのです。ヨハネ12章24節でイエス様が「一粒の麦が地に落ちて死ななければそれは一粒のままだが、死ねば多くの実を結ぶ」と仰った通りです。 このように十字架の道がどのようなものかを黙想するとき、私たちは自然に「弟子道の道」を思い起こします。主の生涯がそのまま私たちの手本となり、主の死がそのまま私たちの模範ともなるからです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい」(マタイ16:24)という御言葉は、イエス様がたどられたその道を、私たちもともに歩むよう招いています。ところが実際、ピラトや大祭司、群衆たちの姿は、十字架の道がいかに私たち人間の本性と衝突するかを赤裸々に示しています。人は自分の利益、メンツ、権力を守るため、必死で十字架を回避したり、より大きな暴力で十字架にかけられたイエス様を排除しようとするのです。 結局、十字架は私たちが罪人であることを悟らせるだけでなく、神の愛がいかに大きく広大であるか、そして同時に私たちに何を要求するのかを明確に示します。「私も主のように十字架の道を歩めるのか?」という問いは、私たちの信仰を深い悩みへと導きます。張ダビデ牧師は「十字架の霊性を、単なる感傷や涙の訴えだけで終わらせず、生活の実際的応用にまで引き下ろす必要がある」と強調します。つまり、教会の中で口先だけ「十字架」を唱えたり、その象徴性だけを抱きしめるのではなく、実際の日常のさまざまな状況で自己否定と従順、そして犠牲の姿勢を実践しなければならないのです。 あるいは、私たちは十字架がもたらす「死」という言葉に本能的な恐れを抱くかもしれません。ピラトもイエス様が「神の子」だという話を聞いて恐怖を感じましたが、それと同じように私たちも真理の前に自分自身を直視するとき、恐れに襲われることがあります。「私は本当に神の前に正しく立っているのか? あのユダヤ人指導者たちやピラトのように、罪のない主を遠ざけ、世の権力に妥協していないか?」という自覚が生まれるかもしれません。しかしその恐れを越えて、イエス様が示された道を信仰によって見上げるなら、私たちが得るものは解放と自由です。罪悪感に縛られて生きるのではなく、イエス様の十字架の死と復活の中で「すでに私は罪赦されたのだ」と気づき、新しい命へと生きる道が開かれるからです。 十字架に向き合う私たちの態度は、どう変わるべきでしょうか。第一に、ピラトのように真理を目の前にしながらも、政治的な計算や現実の損得を優先する態度を警戒しなければなりません。ピラトは本心ではイエス様を釈放したかったものの、民衆の声と「カイサルの忠臣ではない」という脅しに屈服しました。その結果、彼は永遠にイエス様を死刑に引き渡した責任者として歴史に名を刻むことになったのです。私たちも社会との衝突や個人的損害を恐れるあまり、時に福音を妥協したり、真理をねじ曲げる行動をとっていないか振り返ってみる必要があります。もしそうしているなら、無実のイエス様を引き渡したピラトと本質的には変わりません。 第二に、ユダヤの指導者たちのように、宗教的熱心が神の御旨に最も反する行動に結びつきかねないことを自覚する必要があります。彼らは自らが正統性を持ち、律法を厳守し、メシアを本気で待望していると自負していました。しかし実際のメシアであるイエス様がおいでになると、逆にその方を十字架にかけて殺せとピラトに差し出すことに率先したのです。あれほど待ち望んでいたはずの「神の子」を排斥するという矛盾に陥りました。信仰の熱心さが増すほど、私たちは常に御言葉と御霊のうちに正しい分別力を求める必要があります。さもなければ、盲目的な熱情が異端的で偏狭な道へと逸れてしまいかねません。 第三に、イエス様の十字架がただの宗教的シンボルではなく、私たちの生活における実体的な力であることを思い起こさねばなりません。イエス様が歩まれた道は、最後まで父の御旨に従う道でした。ゲッセマネの園で「アッバ、父よ」と叫びながら、自ら死の杯を拒まずに飲み干すと決断されたのは、愛なる父に結ばれた子としての信頼に基づいています。そしてその結果が、もっとも恐ろしい処刑方法である十字架でした。しかしそれは同時に、復活と命の入り口でもありました。イエス様の道を心から従い、強制ではなく喜びをもって従うためには、父なる神の真実を絶対的に信頼する必要があります。この信頼がないなら、十字架に参与することは単なる「自己苦行」や「不可能な理想」にしか残らないでしょう。 第四に、イエス様の死は「最も悲惨な姿」でありながら、同時に「最も栄光ある勝利」であるという事実をしっかり捉えるべきです。十字架はすべての霊的世界が転覆するパラダイム転換の場です。サタンはイエス様を十字架につけてしまえば自分たちの勝利だと考えました。しかしイエス様が死なれることで、すべての人の罪の代価が支払われ、むしろサタンが握っていた「死の権威」が破壊されます。イエス様の復活は十字架によって可能となり、その十字架によって救いの道が開かれました。私たちが信じ仕える王は、人間的な王座で豪華に支配する方ではなく、十字架で万民のためにご自身を捧げられた方なのです。 第五に、十字架は個人的救いにとどまらず、共同体的次元でも変化をもたらします。初代教会がイエス様の復活後、ローマ帝国の圧制やユダヤ人指導者の弾圧の中にあっても揺らぐことなく福音を伝えられたのは、この十字架の意味を深く自分たちのものとしていたからです。彼らは「主がすでに最も苛酷な道を喜んで進まれ、ついに復活されたのだから、どんな患難や迫害にも落胆しない」と告白しました。この告白が教会を一つにし、迫害の中でもかえって成長へと導いたのです。 最後に、現代を生きる私たちにも同じメッセージが与えられています。現代社会はイエス様の時代とは異なる文化や技術、制度を備えていますが、人間の内面に潜む罪性や世の価値観はさほど変わっていません。私たちは依然としてピラトのように政治的利益と真理の間で葛藤し、ユダヤの指導者たちのように宗教的熱心でキリストの本質を踏みにじることがあり、また群衆のように単純に世間の空気に流されて無実の人を責め立てることもあります。このような混沌と葛藤のただ中で、十字架はなおも私たちに道を示してくれます。それは真の王であるイエス様を仰ぎ見つつ、従順と犠牲へと進む道です。 張ダビデ牧師は、十字架神学を通して「教会が世の中で光と塩となるためには、まず十字架の前で自らを徹底的に低くし、悔い改めねばならない」と強く語ります。もし教会が世俗の権力や社会文化と結託してピラトやユダヤの指導者たちのようにイエス様を放置したり拒否したりするなら、それは十字架の精神を裏切ることです。教会が真の影響力を発揮するためには、第一に「ご自身を空にされたキリスト」に倣わなければなりません。第二に世の権勢を恐れるのではなく、「天の権威」に対する畏敬の念を持たなければなりません。そして第三に、いつも御言葉と祈りのうちに真理をわきまえつつ、互いに愛し合う共同体の中で十字架の霊性を実践するのです。 結局、ヨハネの福音書19章1節から16節に描かれるピラトの尋問シーンは、イエス様が十字架へと引き渡される過程を詳細に示すと同時に、私たちの信仰における最も重要な問い—「私はいったい誰を王としてお迎えしているのか?」—を投げかけます。大祭司や律法学者たちは口先では「神」を王と呼んでいたかもしれませんが、実際には「カイサルのほかに王はいない」と言ってイエス様を追い出しました。ピラトは表向きにはローマ皇帝に忠誠を誓う姿を見せましたが、実は自分の生存と保身のためにイエス様を十字架に追いやりました。彼らはいずれも、自称「王」であるイエス様を否定したのです。ですがイエス様は十字架を通して、まことの王であること—すなわちすべての人を救ってくださる神の支配者であること—を示されました。 十字架は完全な愛、完全な犠牲、そして完全な従順の集約点です。クリスチャンになるとは、この十字架の道を認め、それを自らの生活に受け入れることです。私たちの熱意がどれほど強くても、それが十字架の精神と食い違うならば、結局は大祭司たちのような歪んだ宗教的憎悪を再現するだけです。逆に世の権勢がいかに強大に見えても、十字架が示した神の権能と愛を体験するなら、私たちはピラトのように揺さぶられず、恐怖を乗り越えることができます。 したがって、ピラトの尋問過程を通じて明らかになるイエス様の十字架への歩みは、私たちに信仰と従順、そして犠牲の価値をあらためて思い起こさせます。神が私たちに与えてくださった救いの恵みはただで受け取ったものである一方、それはイエス様が莫大な犠牲によってもたらしてくださったものでもあります。私たちはこの真理を深く黙想しつつ、信仰の名のもとに他者を安易に裁いたり、暴力を正当化したりしないよう、自らを点検すべきです。同時に、どんな状況にあっても「真理に属する者はわたしの声を聞く」という主の言葉に耳を傾け、この時代を見極めながら神の御心にかなう生き方をせねばなりません。 今日でもキリスト教信仰が嘲笑され、一部の地域では激しい迫害が続いています。また、ある人々はイエス・キリストの福音を政治的に歪曲し、敵対勢力として扱うこともありますし、逆に宗教という名を借りて互いを攻撃する様子も見られます。このような混乱の中で、私たちが再びつかむべき中心は「十字架のイエス様」です。十字架上でイエス様は、罪のない方であったにもかかわらず、侮辱と苦痛をその身に負いながら、神の救いのご計画を完成されました。これこそが真の栄光であり、真の王としての力が示された瞬間なのです。 そして、この十字架の死を私たちが信じて従うとき、「復活の希望」が私たちの内に生きます。イエス様が十字架で終わったのではなく、復活されて死に打ち勝たれたがゆえに、十字架は敗北ではなく勝利となります。張ダビデ牧師は繰り返しこの点を強調し、「死に対抗する復活の生命力がなければ、十字架はただの過酷な刑罰譚で終わってしまう」と述べます。復活は十字架を正当化する言い訳ではなく、十字架の持つ愛と犠牲の意味が本物であることを証明する完成なのです。 結局、私たちはイエス様の歩みを通して「王」の定義を新たに学ぶことになります。世は力と制圧、武力によって支配する王を求めましたが、イエス様は愛と仕え、自己犠牲によって王であることを明らかにされました。そして私たちにもその道を歩むよう招かれます。ピラトの尋問や大祭司たちの裏切り、群衆の声にも動じることなく、最後まで十字架を選ばれたイエス様を黙想するとき、私たちはクリスチャンとしてのアイデンティティが何なのかを改めて自覚するのです。それは「神の子」イエス様と共に死に、共に生き、この地上で「神の支配」を証しすることにほかなりません。 もし私たちの生き方が、世の権力者や宗教指導者たちのように、自分の欲やプライド、政治的安全や宗教的独善に縛られているのなら、いくらでもイエス様を再び十字架につける罪を犯しうるでしょう。しかし十字架の道が狭く困難そうに見えても、その道が真の命の道であると信じて歩むとき、私たちは初めて神の子どもとして世に仕え、それを変革する力を体験することができます。その道に恐れがないとは言えませんが、イエス様がすでに歩まれ、復活によって完成された道であるという事実が私たちに勇気と確信を与えます。 ヨハネの福音書19章1節から16節に描かれるこの尋問事件は、表面上はユダヤ宗教指導者とローマの権力者との単なる政治的な結託や司法的不正の象徴のようにも見えます。しかし信仰の目で見るなら、それは人類を罪から救うための神の贖いの物語が最高潮に達する場面です。罪と不正が荒れ狂うただ中で、イエス様はご自分を最後まで差し出して「死に至るまで従順」され(ピリピ2:8)、私たちはその従順によって救いを得ました。これこそ福音であり、私たちが望みを置くメッセージなのです。 結論として、ピラトとユダヤの指導者たちの悪しき姿、そしてイエス様の苦難を対比させて眺めるとき、私たちは三つの教訓を得ます。第一に、真理を知らなければなりません。真理を知らないままでは、宗教的熱心であろうと政治的権力であろうと、そこには希望がなく、結局罪のない者に最も酷い暴力を加える危険性をはらんでいます。第二に、十字架の道を回避してはなりません。十字架は苦難と犠牲を意味しますが、同時にそこが復活の栄光へとつながる唯一の道であることを覚えるべきです。第三に、「神の子」であるイエス様の正体を単なる教義として暗記するのではなく、私たちの生活の中で日々体現すべきです。イエス様を「王」として認めるなら、私たちのあらゆる決定や言動がその王の統治にふさわしいものへと変えられていくはずです。 張ダビデ牧師はこの箇所で、「真理を握りしめ、十字架に従う者だけが、真の教会を形づくることができる」と力説します。教会が世のただ中でイエス様の十字架の愛を体現する共同体となるためには、自己中心的な宗教や世俗的権力とは決して両立しえません。教会はいつも十字架で殺されたイエス様を見上げ、その方が復活を通して告げられた新しい命の約束をしっかりと握るべきです。これこそ主の弟子として歩む道であり、真に福音の力が示されるところです。 このようにヨハネ19章1節から16節まで続くピラトの尋問場面と、イエス様が最終的に十字架刑を言い渡されるプロセスを深く黙想するなら、一方では私たちの内なる「ピラト的要素」や「大祭司的要素」、「群衆的要素」に気づかされるかもしれません。しかし同時に、そうした罪人に向けてご自身の命をささげてまで救いを施されるイエス様の限りない愛と従順を仰ぎ見ることにもなるのです。「見よ、この人だ」とピラトが言ったときに人々の前に示されたイエス様の姿は、血でまみれた哀れな人間の姿でしたが、実際には私たちに救いをもたらす「神の子」であり、真の王でした。この逆説的なイメージこそが福音の真髄です。 最終的に、イエス様は世の拒絶と悪意に屈さず、喜んで十字架につけられることで真理を証しされます。その真理とは、「神は愛である」ということ、そしてその愛はこのように自分のすべてを犠牲にできるほどの愛であるということです。この愛のうちに入れられた者は、もはや死の奴隷ではなく、義と命の奴隷—すなわち神の子ども—となります。私たちがこの福音をもって生き伝えていくとき、世はなおも反発し嘲笑するかもしれません。しかし、それにもかかわらず十字架が持つ力は決して消え失せることがありません。 張ダビデ牧師がたびたび語ってきたように、「私たちが真理を握るとき、世のどんな力も神の愛から私たちを引き離すことはできない」のです。ピラトがイエス様を鞭打ち、大祭司たちが虚偽の証言を広め、群衆が「十字架につけろ」と叫んでも、結局イエス様は勝利されました。その勝利は世のやり方とは異なりますが、死の権威を打ち破る真の勝利です。そしてその勝利は、今も私たちと共にあります。私たちが十字架の前でへりくだってイエス様を王としてお迎えし、神の子である主に従順して歩むとき、その恵みと力が私たちの生き方を変え、私たちが属する共同体も新しくしていくのです。 結論として、ピラトの尋問過程(ヨハネ19:1-16)は、一人の人間の葛藤と政治的妥協に映し出された不正や、宗教的熱心という仮面に隠された致命的な悪を同時に照らし出すとともに、イエス様が罪人の救いのために栄光の玉座ではなく、恥辱の十字架を選ばれた壮大な決断を示しています。そしてこれらすべては「上から与えられていなかったなら、わたしに害を及ぼす権限はなかった」というイエス様のお言葉通り、神の主権のもとで起こった出来事なのです。私たちはこの御言葉を通じて、十字架が単なる不当な死ではなく、あらかじめ定められた贖いの出来事であったことを悟ります。また、私たちも日常生活の中で「十字架の道」をそれぞれの形で歩めるよう、神の御旨に従う信仰を求めるべきだと教えられます。 こうして二つの小主題に分けてヨハネ19章1節から16節を考察すると、張ダビデ牧師が語るように、真のクリスチャンのアイデンティティがどこに根ざすべきかが鮮明になります。すなわち、十字架の精神を通じて、高慢や暴力、偽りや偽善を捨て、人となられた神の愛に倣うことです。ピラトのように真理をつかむ力がなく世の声に屈したり、大祭司たちのように宗教的プライドゆえに真の真理を拒んだりしないように、日々自分を振り返り、悔い改めることが求められます。そして十字架で象徴されるイエス・キリストの死と復活を私たちの生の軸に据え、今日も聖なる従順と熱い愛をもって歩んでいくのです。 「見よ、あなたたちの王だ」というピラトの嘲り混じりの言葉が、信仰者の告白の見出しのように聞こえるアイロニー。そのアイロニーを通じて、私たちは「最も弱々しい姿をした神の子」が、実は「最も強大な救いの力」を持っていることを知ります。ゆえに、その道を選ぶことは決して敗北ではなく、新たな命と栄光へと至る近道です。聖書の数多くの証言がこれを裏付け、教会史における信仰の先人たちは命がけでこの告白を継承してきました。私たちがその道を喜んで歩むとき、神は私たち一人ひとりと教会を通して、ご自身の国と義を広げてくださることでしょう。 願わくは、ヨハネ19章1節から16節の御言葉に向き合う中で、ピラトやユダヤの指導者たちの姿に自分を重ねて悔い改める部分を見いだし、またイエス様が最後まで守り抜かれた十字架の従順に倣って、私たちの信仰告白が言葉だけでなく、生活によって証される成熟へと導かれることを望みます。張ダビデ牧師が説くように、真の福音とは私たちをキリストの十字架へと招き、自己否定の道を歩ませる力です。そしてその道の果てには、必ず復活の希望と命の冠が約束されています。これこそが、ピラトの法廷から始まった十字架の出来事が私たちに与える永遠の響きであり、教会共同体が世のただ中で証ししなければならない核心的な真理なのです。 www.davidjang.org

動じない信仰の土台 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 疫病と人間の死に対する恐怖 人間は本来、死への恐怖を抱えて生きる存在です。詩編62編が語るように、人は時に揺れ動き、動揺せざるを得ない弱い存在であり、死の影をほんの少しでも感じると、すぐに不安にとらわれてしまいます。張ダビデ牧師は、この人間の死への恐れが疫病が流行するとき、より鮮明に現れると説教します。実際に歴史を振り返ると、どの時代でも周期的に襲ってくる伝染病の前で人々は為す術なく崩れ、恐怖に震えてきました。ヨーロッパを席巻した黒死病の際には、数多くの命が奪われ、その後も東洋と西洋を問わず周期的に発生した伝染病は、人類の歴史に大きな恐怖の痕跡を残してきました。科学や医学が発達した現代においても、突然現れるウイルスの前で世界は無力になり、人々は感染を恐れてソーシャルディスタンスを取ったり隔離に入るなど、同じ状況が繰り返されます。こうした状況が繰り返される中で、私たちはいったい何によって慰めを得ることができるのでしょうか。 特に疫病は、人間がいかに簡単に脅威を感じる存在であるかを実感させます。病にかかり命を失うかもしれないという恐怖が世界中を席巻すれば、現代人も日常で享受している豊かさを手放し、心を閉ざしてしまいます。死の淵に立たされるときに感じる恐れこそが、最も原初的な不安であることを誰もが体験する瞬間なのです。そうであるからこそ、疫病の前での不安は、単に肉体的苦痛への恐れや経済的損失への懸念だけでなく、「死が訪れたらどうなるのか」という存在論的な悩みを内包しています。傲慢だった人間が自然災害や伝染病の前で限りなく謙虚になり、自分の弱さを思い知らされるのは当然のことかもしれません。 張ダビデ牧師は、ある国で罪人を刀で首切り処刑にしようとしたとき、突然落雷が起きて処刑を執行しようとした者が逆に死んだという逸話を紹介します。この物語の焦点は「いのちは結局、神にかかっている」という事実です。死といのちの主権が完全に神にあると見つめるとき、人間の高慢は瞬く間に崩れ、自分自身で自分を守ることには限界があると告白せざるを得ません。すべてのいのちを司るのは神だというこの信仰は、聖徒たちが死そのものへの恐怖からある程度自由になることを助けます。しかし現実には、死への恐怖の前で揺れ動く人が大勢いるのも事実です。だからこそ、より重要なのは「私たちがどこに望みを置くか」という問題です。クリスチャンであれば、「わが魂よ、黙してただ神を待て、まことに私の望みは神から来るのだ」という詩編62編の言葉をしっかり握らなければならない、それが説教の大きな要点の一つなのです。 人間は動物よりも“知性”が優れていると自負しますが、ときに動物が自然の変化を先に察知して危険から逃れるのに、当の人間は気付くのが遅れて被害を被るという話が伝えられています。津波が襲来する前、海辺の動物たちが海とは反対の方へ避難するという逸話や、地震が始まる前にネズミが先に気配を察知して逃げ出すという事例が代表的です。こうした様子は不思議に見える一方で、人間が自然災害や伝染病といった危機に対してどれほど気づくのが遅く、それゆえどれだけ大きな被害を受けるのかを示しています。最終的に、人間は世界のあらゆる被造物の中で知的に優れていると自負し、高度な文明を発展させてきたにもかかわらず、疫病や自然災害の前ではやはり無力な姿をさらすことが多いのです。 この無力さを前に、私たちは改めて死の問題に直面します。人間の理性や高慢な心、そして世俗的な技術が、死を完全に阻止してくれるわけではないという事実を、まさに伝染病が蔓延するときに痛感するのです。たとえ科学がワクチンを開発し、ある程度の治療法を提示したとしても、死そのものを根本的に消し去る力は人間にはありません。歴史的に見ると、第一次世界大戦が勃発した頃、人間の理性の力を絶対視する自由主義神学が蔓延し、文明や科学、進歩を盲信する風潮が極まっていました。しかし戦争がもたらした破壊と莫大な死者は、その高慢を粉々に打ち砕き、“人間中心”の楽観主義が一瞬にして崩れ去ることを示したのです。張ダビデ牧師は、この歴史的教訓が今の私たちにも同じように有効だと語ります。人間が自分は強いと自負するその瞬間に、疫病や戦争のような大規模災害が現れることもあるのだ、と。 結局、伝染病の蔓延は、人間がいまだに自然と死の前で無力であるという事実の再確認でもあります。それは人々を「自分も死ぬのではないか」という恐怖に陥れ、日常的な集まりや行事、さらには対面礼拝など、あらゆることを萎縮させる結果をもたらします。多くの人は外出を嫌がり、社会的にはマスク着用や手洗いなどの衛生指針を義務化する動きが生まれます。特に教会もまた政府の防疫指針に従い、一定期間集まりを制限したり、オンライン礼拝を行ったりする方法を模索します。問題は、このような状況の中で信徒たちが「死を恐れて礼拝までも手放すのか」という自己点検に直面することです。もちろん、不必要なリスクを犯して信徒たちを危険に晒そうという意味ではありません。張ダビデ牧師は、私たちが政府の指針に従いつつも、主日礼拝を含む霊的生活を断ち切ってはならないと強調します。教会の本質は礼拝し神をあがめる共同体であり、疫病はいずれ過ぎ去ります。しばらく困難な時期を過ごす間に、私たちがもっと神の前で自分自身を省みるようにと示されているメッセージがあるのです。 教会の歴史と聖書を振り返ると、死の影が濃く覆いかぶさる時期であっても、神は常に人間に希望への道を示してくださいました。出エジプト記の場面で、エジプトに疫病や災いが臨んだとき、イスラエルの民は家の門柱に小羊の血を塗ることで、死の使いがその家を過ぎ越すように守られました。今の時代も改めて、いのちと死、そして神の守りについて思い巡らす機会を得ていると言えます。「いのちはすべて神にかかっている」という告白が再び私たちの口から出てくるのです。私たちは、シカやイノシシのように突然エサや隠れ家を求めて下りてくる動物たちの姿や、津波を察知して逃げ出す動物たちと同じく、「生きねば」という本能的な渇望と同時に、真の救いの箱舟、すなわち神の懐へ行くしかないことを認めるようになります。人間の高慢を抑制する道具が、ある意味で疫病であり得る、という視点に立つとき、私たちは不安と恐怖の中で一層謙遜になるべきだと張ダビデ牧師は言うのです。 突き詰めれば、死の恐怖というものは、人間の限界を最も鮮明に示す装置です。伝染病は外的環境を脅かすと同時に、内面的にも自分がいかに無力な存在であるかを突きつけます。人々はここで大きく二つの道を見ます。一つは完全に落胆して絶望する道、もう一つは神を仰ぎ見て希望を見いだす道です。聖徒は恐れを乗り越える力が、唯一神にあると信じます。詩編の記者も「わが魂よ、なぜうなだれているのか」と嘆きつつ、同時に「ただ神のみが、わが岩、わが救い、わがやぐらなるゆえに、私は揺るがされない」と告白しました。生死を司る主権が人間ではなく神にあると信じるからこそ、究極的には死ですら、その中にあっては永遠の終わりではなく、永遠のいのちへと入る門となるのだと確信できるのです。 Ⅱ. 神だけが岩であり救いである 詩編62編は、「神だけを待ち望め」という中心メッセージを何度も繰り返します。「私の魂は黙してただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」「まことに神こそわが岩、わが救い、わがやぐら、私は大いに揺るがされない」といったくだりが代表的です。張ダビデ牧師は、この詩編が死への恐れをはじめとする人生のあらゆる不安要素から、ただ神だけが完全な救いの源となる事実を強調する本文だと解説します。特に疫病の前で自分が揺れ動く存在であることを改めて思い知らされるとき、詩編の記者の告白はより切実に響いてきます。 詩編の記者は「岩(Rock)」というイメージを用いて、神こそが揺るぎなく堅固な土台であることを示します。岩は外部からのどんな衝撃にも簡単には砕けない堅さを象徴します。旧約時代のイスラエルの民は荒涼とした荒野やパレスチナ地方の険しい地形を体験し、「岩」というイメージが「安定、保護、支え」を意味することを充分に理解していました。同様に現代人にとっても、神は“岩”としての意味を持ちます。疫病が起こり、戦争が起こり、経済が揺らぐときにも、神の存在だけは揺るがない絶対的な土台となり得るという信仰です。人間が作り上げた制度や帝国は時代とともに崩壊し得ても、神は永遠に変わることのない方です。 さらに詩編の記者は「要塞(Refuge, Fortress)」という表現で、神がどのようなお方なのかを示します。要塞とは、敵の攻撃から安全を保証してくれる防御基地のようなものです。聖書の至るところで神は民の避難所や砦として言及され、信じる者が危機に直面したときに駆け込むことのできる存在として描かれています。これは単なる詩的表現ではなく、イスラエルの歴史の中で何度も繰り返し体験された実際の経験に基づく信仰告白です。疫病により死の恐怖が現実化すると、人々は本能的に自分を守ってくれる「要塞」を探します。世の方法ではもはや安全を確保できないという結論に達すると、そのとき初めて多くの人が教会や神に目を向けるようになるのです。生死を支配し、永遠の安全を保証してくださるお方は、神以外におられません。 張ダビデ牧師はヨハネによる福音書11章に目を向け、「わたしはよみがえりであり、いのちである。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる」と宣言されるイエスの言葉に注目します。イエスは友人ラザロがすでに墓に入って四日が経った頃にようやく訪れ、その遅れによって死を経験した家族は深い悲しみに沈んでいましたが、結局イエスはラザロを再び生かされました。ところがヨハネ11章35節によると、イエスは彼らの悲しむ姿をご覧になり涙を流されたとあります。これは、人間が味わう苦しみや恐れ、悲しみを主が共に感じ、その限界を痛んでくださることを示しています。その過程でイエスは、よみがえりといのちの主権者であることを宣言することで、究極的に死の力を超越する権威がご自身にあることを明らかにされています。 さらにイエスは「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない。このことを信じるか」と問いかけることで、信仰の本質を正面から提示しています。生死が全的に神の御手に委ねられているならば、人間は死の前でも永遠の希望を捨てずにいられます。イエスが死を超越されるお方であり、死の権威が彼の前で無力であるという事実を信じる者は、この世的な視点から感じる「死」という恐怖を乗り越える力を得ることができるのです。パウロもコリントの信徒への手紙一15章で「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえの棘はどこにあるのか」と死を嘲笑します。死を嘲笑するという表現は、キリストの死と復活によってすでに死の権威が廃されたと信じる信仰告白なのです。 結局、詩編62編とヨハネ11章、そしてパウロのコリント第一15章に見られる死に対する理解は一つに収れんします。神だけがいのちの主であり、イエス・キリストによって死はもはや永遠の終わりではなくなったという事実です。だからこそ、疫病が蔓延し多くの人が死を恐れていても、聖徒はそれによって完全に絶望に陥ったり、不安と恐れの中に閉じ込められてしまうべきではありません。むしろ張ダビデ牧師が語るように、このようなときこそさらに神に近づき、生死を司る方の前で謙遜になることに焦点が置かれるのです。これこそが「主だけがわが岩、わが救い、わが要塞なので、わたしは揺るがされない」という告白の現代的意義と言えるでしょう。 たとえ私たちがウイルス感染にさらされ、肉体の死を迎えることになったとしても、それが私たちの永遠の運命を決定づける終わりではないという信仰があれば、世が与える恐怖からある程度解放されることができます。もちろん、人間的な感情としてまったく怖くないというわけではありませんが、究極的には「主はよみがえりでありいのちである」ということを思い起こして心を支えることができるのです。教会はこの信仰に基づいて、「たとえ死んでも生きるいのち」についての福音を世に伝えなければならないと、張ダビデ牧師は強調します。特に疫病が蔓延するとき、不安を訴える人々には、生の福音が緊急に必要とされる時期がほかにあるでしょうか。誰かにとっては、この瞬間こそが生きる道を示される、最も重要なタイミングなのです。 こうした文脈において、詩編62編は「岩」「要塞」「避難所」という言葉で神がどのようなお方かを劇的に描写します。私たちの救いと栄光はすべて神に属するゆえ、たとえ全世界が揺れ動き伝染病が広がっても、神を仰ぎ見る私たちの望みは揺るがないというのです。「庶民たちよ、いつも神に信頼せよ。その御前に心を注ぎ出せ。神はわれらの避難所である」といったくだりのように、落胆し不安に陥っている人々に対して、私たち聖徒が伝えるべきメッセージは「もっと神に近づきなさい。私たちを救われる方はただ神だけです」という呼びかけになるでしょう。 聖書は、疫病や戦争、飢饉、自然災害などが訪れたとき、それを単なる「運の悪い出来事」として済ませるのではなく、神の前で自分たちを省みる機会にしなければならないと教えます。ソロモンが神殿を奉献した後に神が「もし飢饉や疫病が起こったら、悔い改めてわたしに立ち返るなら、その祈りを聴きこの地をいやす」と約束された部分(歴代誌下7章など)は非常に象徴的です。罪悪がはびこり、自らを高ぶらせていた人々や社会が、疫病の危機の中で神の憐れみと慈しみを求めて自白し悔い改めるとき、ようやく神はその地に癒やしをもたらされるというのです。これは現代にも通じる原理です。今日、伝染病が広がっていく時代にあって、教会と信徒たちに求められている役割は、単に肉体的な防疫対策を守るだけでなく、霊的にも自分を省みて罪を告白し、神の憐れみを願うことです。張ダビデ牧師は「こうした危機の時こそ私たちがより深く悔い改め、みことばをしっかり握り、いのちの支配者である神に駆け込むときなのです」と説教します。 詩編62編に描かれる神こそ、まさにそれにふさわしいお方です。全宇宙と全地を造られた創造主であり、歴史を支配され、個人のいのちすらも守り導かれる方。神は生と死の鍵を握っておられるので、私たちが現実的に感じる死の脅威を究極的な終結とは見なさないようにしてくださいます。信仰なくしてはこれを受け入れ難い面もありますが、一度その偉大な力と恵みを味わうと、最終的には「わが救いと栄えは神にあり、わが力の岩、わが逃れ所も神にある」という告白に至らざるを得ません。つまり、疫病やほかのいかなる災厄が私たちの限界を浮き彫りにするきっかけとなったとしても、むしろそれを神にもっと近づく踏み台にするならば、決して揺るがない霊的基盤を持ち続けることができる、というわけです。 このように、死に関する根源的問題や疫病・災厄の現実の中で、聖徒がとらえられる唯一の道は「岩なる神」であり「私の救いなる主」です。罪と死の権勢に勝利されたイエス・キリストの十字架と復活は、それを決定的に示しています。十字架は神の愛を表し、復活は神の力を証明します。伝染病の前で、人間がどれほど無力かを痛感するその瞬間においても、私たちはその愛と力を同時に握り、「私たちに対する神のご計画は善であり、永遠だ」という信仰に生きることができるのです。 Ⅲ. 教会の役割と祈り、そして実践 疫病の時代は、教会と聖徒がどのような態度を取るべきかを鮮明に示します。張ダビデ牧師はローマ書13章、すなわち「上に立つ権威に従わなければならない」という原則に則り、政府の防疫指針にきちんと従い、他者の安全にも細心の配慮をすべきだと強調します。教会がソーシャルディスタンスやオンライン礼拝への切り替えなど、現代的なツールを活用して信徒の安全と健康を図ることは、国家の法や方針をまったく無視せず、同時に信仰の本質を守るための賢明な姿勢になり得ます。ただし、その過程で主日礼拝と礼拝共同体そのものを完全に放棄する態度になってはならないという点が大切です。 信仰は公の礼拝だけでなく、生活のあらゆる領域において表れなければなりませんし、教会は世の光と地の塩としての役割を果たさねばなりません。疫病が世界中を覆い、不安が極度に達したとき、人々は霊的な安息所を求めて教会に目を向けるかもしれません。そのとき、教会が誠実に礼拝を捧げ、信徒たちが力強い信仰の中で行動し、さらに謙遜と従順な態度で社会の安全に貢献するならば、世は教会を見つめて「どうして彼らは死の恐怖の前でも揺るがされないのだろう」と疑問を抱くことでしょう。そしてその問いこそ、「ただ神こそわが岩、わが要塞、わが避難所である」という福音を明かしする絶好の機会となるのです。教会はこの使命を忘れてはなりません。 現実的には、教会の中にも不安や恐れにとらわれる信徒が大勢いるかもしれません。だからこそ、お互いを励まし合い、共に祈る雰囲気が切実に必要となります。ヤコブの手紙5章によれば、苦難に遭う者は祈り、病む者は教会の長老を呼んで祈ってもらいなさいと勧めています。お互いに罪を告白し、癒やしを願って祈るよう促す言葉もまた、共同体的なケアの重要性を強調します。「正しい人の祈りは大きな力がある」と言われますが、これは教会を通して力強く現実化され得るのです。実際、エリヤが祈ったときには3年半もの間雨が降らず、再び祈ると雨が降ったという記録(列王記上17〜18章)は、たった一人の祈りが共同体や社会全般にどれほど大きな影響を及ぼすのかを示しています。ゆえに、今まさに疫病が広がっているこの時代に、教会がまず自分たちの罪を悔い改め、この地を癒やしてくださるように祈らなければならないのです。「私たちと同じような性情を持つ」普通の人間だったエリヤですらそうであったなら、ましてイエスの御名によって祈る特権を与えられた私たちには、どれほど大きな責任とチャンスがあることでしょうか。 さらに張ダビデ牧師は、隔離生活やソーシャルディスタンスを霊的訓練の機会にすべきだと提案します。普段の忙しさに追われ、十分に聖書を読み祈る時間を確保できなかった人々が、むしろ強制的に家にとどまることで“内面をより深める時間”を享受できるというわけです。強制的にでも立ち止まる状況になったときこそ、信徒たちは神の前で自分を振り返り、罪を悔い改め、みことばによって自分自身を清める機会を得るのです。子どもたちが学校に行けず家にいる時間も、“家庭礼拝”や“親による信仰的養育”を実践する時期にすることができます。教会が公に集まれないときには、各家庭が小さな教会として機能し、みことばと祈りを絶やさずに続けていくのです。 イエスの言葉の中に「めんどりがひなを羽の下に集めようとするように、わたしはおまえたちを集めようとしたが、あなたがたはそれを望まなかった」というマタイ23章の一節があります。イエスがエルサレムを見て泣かれたその場面は、本来神がどれほどご自分の民を守ろうとされているか、彼らの罪を赦し守ってあげようとなさっているかを象徴的に示しています。ところがもし民が自ら拒むならば、神は強制的にそれを押し付けはなさいません。疫病が猛威を振るうとき、ある意味では神は私たちにもっと近づいてこられ、「私の翼の下へおいでなさい」と招いておられるのかもしれません。それにもかかわらず、教会が世俗的な価値観や恐れだけに囚われるなら、結局私たちは主の守りのうちにとどまることができません。だからこそ教会はこの機会を逃さず、「主の翼の下へ来なさい」という招きを広く伝えるべきなのです。 また、私たちが得られる実践的な教訓の一つは「謙遜」です。人間が科学や文明を誇るほど、予想外の災害の前で無力になる姿がいっそう劇的に浮かび上がってきます。インフルエンザが原因で毎年数万人が亡くなるという統計があるように、伝染病は常に身近に存在してきました。ところが大きな流行が起こると、人間は「手をこまめに洗わなければならない」という最も基本的なことから見直すことになります。どれほど文明が発達していても、「基本と原則」を守らなければ簡単に崩れてしまうという事実を思い知らされるのです。さらに、信仰者であれば「神が許されなければ、私の呼吸も一日で止まる可能性がある」ということを認めて、いっそう祈りに進むべきです。疫病にかからないためにあらゆる努力をしつつも、最終的な生死の権能が神の主権にあることを忘れない姿勢こそが、真の謙遜と言えます。 教会はこのような危機の中で、世が恐怖で混乱しているときこそ、むしろより大胆な信仰と愛を実践することで、キリストの香りを放つことができます。ただし、このときの「大胆さ」とは、防疫指針を無視したり、社会的責任を放棄して強引に集会を行うような軽率さを意味しません。政府の要請事項を守り、手洗いや適切な距離の確保などもきちんと実施しながら、それでも「礼拝と祈りはやめない」という信仰的な決断を貫くことこそ、真の大胆さです。教会は不用意に社会に反感を買うのではなく、むしろ社会が教会を通して慰めと希望を見いだすようにしなければなりません。信徒一人ひとりが自分は「地域社会を代表する存在」であるという責任感を抱いて、心を閉ざし恐れている隣人たちに福音と愛を伝えることに力を注ぐべきです。 特に張ダビデ牧師は、「たとえ死んでも生きる」という主の言葉を全幅で信頼しなければならないと、繰り返し説教します。実際に死ぬかもしれないという可能性が、伝染病の時代にはいっそうリアルに突きつけられるとき、私たちは自問せざるを得ません。「私は本当に、死んでも生きるいのちを信じているのか?」「死の向こう側にある復活の希望を見つめているのか?」 これは観念的な宗教ではなく、生死がかかる現実の中で初めて胸に刻まれる真理です。教会がこの希望を握って揺るがないとき、世は教会に宿る霊的な力を目撃することになります。その目撃こそが、福音伝播の決定的なきっかけになるのです。 結局、疫病の時代は教会がさらに目を覚まして祈り、この世がどこへ向かえば真の平安と救いを得るのかを示すときです。信徒一人ひとりは自らの罪を悔い改め、生活を清め、家族と共にみことばを学び祈る中で、霊的なリバイバルを体験することができます。そしてこれが深まると、疫病が過ぎ去った後には、さらに堅固になった信仰共同体として世に道標を示すことになるでしょう。「主こそわが岩、わが要塞、私は決して揺るがされない」という告白が、スローガンではなく実際の生活の証しとして表されるようになるからです。こうして変えられた教会は、疫病前には当然と思っていた集会や礼拝、奉仕への尊さを新たに発見し、隣人を仕える愛と伝道の情熱を改めて回復することで、世は教会を通して神の国の現実と希望をうかがい知るでしょう。 要するに、張ダビデ牧師は疫病が蔓延する状況から感じる死の恐怖と人間の弱さを深く認識しつつも、それを超える希望がただ神にのみあることを宣言します。「わたしはよみがえりであり、いのちである」と言われたイエスの言葉を握り、詩編62編の告白を通して、神だけが真の岩であり要塞であることを心に刻むようにと勧めています。同時にヤコブの手紙5章の勧めに従って、教会が目を覚まして祈り合い、互いに罪を告白し、病んでいる人のために祈るなら、「正しい人の祈りは大きな力がある」と信じて実行しようと呼びかけます。政府の防疫方針や社会秩序を尊重しながらも、主日礼拝の本質を失わず、この困難な時期をむしろ霊的成熟と福音伝達の機会とすべきだと強調しています。そうすることで教会と聖徒は、「死が終わりではない」という復活の希望を世に示す光と塩の役割を十分に果たせるのです。何よりも私たちは、生死のすべてが神の主権にあることを覚え、このようなときこそ、いっそうへりくだって主の御前に伏し求めるべきです。そうするならば神がこの地をいやし、教会をいっそう堅固に立たせてくださるという信頼が、私たちのうちに芽生えるでしょう。世が恐れに支配されるとき、教会は散らされた人々やまだ信じていない人々に対しても福音の門を開け放たねばなりません。主の岩の上に立つ者は決して倒れないという、このシンプルでありながら力強い事実を証しすること──まさにそれこそが、疫病の時代に私たちが召された理由であることを忘れてはならないのです。

十字架の後 ― 張ダビデ牧師

1. 十字架の後に開かれる安息の世界と律法の意味 張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書19章31~42節に描かれたイエス・キリストの死後の状況を深く黙想する際、十字架の出来事が単なる悲劇的な死で終わらないことを強調する。特に本文にある「その日は準備の日であり」「その安息日は大いなる日であった」との言及が示唆的だと述べる。これはイエスが亡くなられた時点が金曜日、すなわち安息日の前日であるだけでなく、とりわけ過越の祭りの準備日でもあったことを示している。当時のユダヤ人は夕方6時から一日が始まるため、金曜日の日中にイエスの処刑が行われ、日没前までに遺体が十字架にかかったままでいることを律法上も伝統上も認められなかった。 申命記21章23節には「木にかけられた者は神に呪われた者」と規定され、たとえ呪われた者であろうと、その遺体を夜通し木に掛けてはならず、その日のうちに降ろして地を汚すなというおきてがあった。ユダヤ人たちはこれを厳守していたので、イエスとともに十字架につけられた罪人たちの遺体を日没前に処理しようと、まだ息がある者の足を折ってでも早く死に至らせてほしいとピラトに要請したのである。ローマの慣習では、罪人を十字架に長く放置し、ときには遺体を埋葬させず猛獣の餌として放置することもあった。しかしユダヤ人にとっては、安息日と過越の祭りを目前に控えた“聖なる地”をそんな状態で汚すわけにはいかなかったため、死にきっていない罪人の足を折るという残酷な方法を選択したのだった。 張ダビデ牧師は、ここに表れるユダヤ人たちの逆説的な姿に注目する。彼らは律法を守るという理由で、すでに十字架で極度の苦痛を受けた者たちをさらに残酷に扱おうとしたのだ。表向きには安息日を守り、土地を聖く保つという宗教的熱心を示しているが、実際には「安息」と「聖さ」の真の意味を全く理解せず、人間性を失った暴力的行為を続けていた。特に張ダビデ牧師は、彼らを「律法の殻だけを握りしめ、本当のいのちの道を見失っている者たち」と評する。彼らが徹底的に守ろうとしていた律法は、外面的な儀礼レベルにとどまり、神の御心と愛、そしてメシアの恵みがこもる真意を理解できていなかったというわけだ。 しかし皮肉にも、イエス・キリストは彼らの「形式的な律法遵守」という要求の下で早めに死を迎えられたことによって、結果的に「過越の小羊」としての贖いのみわざを成就されることとなる。ヨハネの福音書は「イエスの骨は折られなかった」と明確に記す。これは民数記9章12節の「過越の小羊の骨を折ってはならない」、また出エジプト記12章46節の「小羊の骨を折ってはならない」という過越の規定がイエスのうちに成就したことを示している。十字架で死に至ったが、その骨が折られることはなかったイエスは、律法全体を成就する真の過越の子羊となられたのだ。その死によって、もはや旧約のいけにえ制度は必要なくなり、罪人には新たな救いの道と安息の世界が開かれる。張ダビデ牧師は、ここで「金曜日の苦難」と「安息日」が断絶した出来事ではなく、イエスにあって真の安息へと導く過程であることを強調する。イエスの死はただの闇と絶望で終わるのではなく、人間を真の安息へと招く序幕となるのだ。 ところで、ユダヤ人たちは安息日を厳格に守るために「準備の日」を活用した。安息日にはいかなる「仕事」もしないように、安息日の前日(金曜日)を準備日と定め、万全の用意をするようにしていた。張ダビデ牧師は、この「徹底した準備日遵守」自体は本質的に悪いことではないと説明する。実際、安息日を本当に目覚めた心で準備し、聖別する姿勢は優れた信仰態度とも言えるだろう。だが彼らの問題は、その準備日を守る行為があくまで「形式的な律法遵守」にとどまり、十字架につけられた人々の人間的な苦痛や、イエスこそ真のメシアとして来られたことを全く考慮していなかった点にある。結局、彼らは一方では安息日を聖く守ろうと躍起になりながら、他方ではイエスを早く殺して取り除くべきだと主張する自己矛盾に陥っていたのである。今日的にたとえれば、「表面的には信仰生活を熱心にしているように見えても、実際には神の御心を少しも思わず、人間性を踏みにじる宗教的偽善」とでも言える姿だと張ダビデ牧師は指摘する。 兵士たちはユダヤ人の要求に従い、イエスの両隣で十字架につけられた二人の罪人の足を折った。そしてイエスにも同じ処置をしようとしたが、すでに息を引き取っているのを確認した。そこである兵士がイエスのわき腹を槍で刺したところ、「血と水が流れ出た」とヨハネは証言している。張ダビデ牧師は、ここで「血と水」が単なる医学的・生理学的現象では説明できない、重要な神学的・霊的意味をもつと強調する。血は罪の赦しを、そして水は清めと命の象徴を示す。教会の伝統では、これを洗礼(水)と聖餐(血)の意味として理解してきたが、イエスの死が私たちに永遠の贖いと清めを同時にもたらすことを示しているのだ。また、その血と水が流れ出た事実は、十字架の代償が単なる出来事で終わるのでなく、キリストにあって新しい命を生み出す源となることを物語っている。張ダビデ牧師は、血と水が流れ出た出来事によって、私たちがイエス・キリストのうちに洗礼によって新生し、聖餐によって交わりを得る恵みにあずかったのだと力説する。 また、他の福音書が「聖所の垂れ幕が上から下まで裂けた」と記録していることについて、張ダビデ牧師は、この垂れ幕の裂け目こそが、神と人間の間を隔てていた壁が打ち壊されたことを示すと教えている。旧約時代、至聖所に入る道は大祭司であってもいつでも入れるわけではなく、贖罪日など定められた時だけだった。しかしイエスの十字架の死によって、その仕切りが破られ、今やイエスの血によって大胆に聖所に入ることができる道が開かれた(ヘブライ10章19節)。このように、十字架の出来事こそが神と人間との和解を成し遂げた決定的な出来事であり、真の安息はこの和解によって可能となる。つまりイエスが安息日の前日に死なれたことによって、私たちには律法的安息ではなく「メシア的安息」、すなわち罪と死の力から解放されて神との親しい交わりを得る真の休みが与えられた、と張ダビデ牧師は説く。 「彼らはその突き刺した者を見るであろう」(ヨハネ19:37)という言葉も、ゼカリヤ書12章10節の引用であり、メシアが刺し貫かれ、その姿を見て嘆く民の予言がなされていた。ヨハネの福音書は、十字架でイエスのわき腹が槍で突き刺されたことによって、このゼカリヤの予言までもが完成したのだと示す。張ダビデ牧師は、ここからイエスの死が突発的または偶然的な出来事ではなく、既に旧約に予言されていた救いの摂理であることを力説する。十字架という最も凄惨な死に遭われながら、その方法と結果が神の言葉の通り「骨は折られず」「わき腹は刺されて血と水が流れ」「ついには予言が成就」に至った事実は、イエスこそ真のメシアであり人類の贖い主であることを示す確かな証拠なのである。 結局、張ダビデ牧師は、十字架の後にキリストが死に葬られたこの出来事自体が「完全な終結」ではなく、むしろ復活と安息へと続く「新たな始まり」であることを読者に見落とさないよう促す。金曜日の準備日に十字架にかけられたイエスは、土曜日の安息日には墓にとどまられ、その安息日の後の夜明けに復活の出来事が起こる。これは単なるイエス個人の復活ではなく、イエスを信じるすべての者の罪の鎖と死の力が解き放たれる永遠の安息の道が開かれた出来事であるというのだ。ここで張ダビデ牧師は読者に問いかける。「私たちはいまだに律法の形式にとらわれ、人を裁き排斥する位置にいないか? 主が成し遂げた十字架の愛と復活の命の喜びを知りながら、いまだに外面的なものに縛られ、主の真の安息を享受できずにいるのではないか?」 そしてイエスがもたらしてくださった「新しい安息」に入るべきであり、それがすなわち神が備えておられる真の救いであり、旧約のひな型が完成した実体、イエスにある命なのだと改めて確認させる。 2. アリマタヤのヨセフとニコデモ、そして真の仕えの道 張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書19章38~42節に登場するアリマタヤのヨセフとニコデモの姿を通して、イエスの遺体を葬る過程が何を意味するのかを深く探る。イエスの公生涯期間中、人々の注目を集めていた時期でさえ、彼らは公にイエスに従えなかった「隠れた弟子」だったと言える。アリマタヤのヨセフはサンヘドリン(ユダヤ最高議会)の議員であり、ニコデモもユダヤ人の指導者として夜中にこっそりイエスを訪ねた人物(ヨハネ3章)であった。彼らはユダヤ教の指導的立場に属していたため、イエスを公然と支持したり、イエスこそメシアであると告白するのは難しかった。いわゆる「宗教エリート」として、イエスを擁護すれば面目を失い、深刻な不利益を被る可能性があったからだ。 しかし十字架の出来事の後、彼らは大きな決断を下す。ピラトのもとへ行き、イエスの遺体を下げ渡してほしいと直接願い出て、まだだれも葬ったことのない新しい墓に安置し、没薬と沈香を混ぜ合わせたものをおよそ百リトラ(約30~35kg)にもなる量で用意し、その遺体を亜麻布で包んで心を込めて葬った。張ダビデ牧師は、この場面を「遅れてはいるが、勇気のある美しい献身」と呼ぶ。十字架で完全に処刑された人の遺体を引き取ること自体、大きなリスクを伴う行動である。ローマ当局の視線、ユダヤ指導者たちの非難、群衆の激しい批判にさらされるかもしれなかった。だがアリマタヤのヨセフとニコデモは「恐れを押して」ピラトのもとへ行き、イエスを運んで盛大な葬りを行ったのだ。ヨハネの福音書は、「イエスの墓が新しい墓だった」と強調するが、これは旧約時代の死者の葬られ方とは対比的な意味合いもある。イエスに対しては、いわゆる「中古の墓」ではなく、清い新しい墓が用意され、そこに葬られたことが、イエスの復活の出来事を紛れもなく明確に示す根拠ともなった。 張ダビデ牧師は、彼らが用意した香料の量や亜麻布が、王族や貴族の葬儀で見られるような豪華なレベルだった点にも目を向ける。実際、30~35kgもの没薬と沈香は、並大抵の人物ではあり得ない大量のもので、イエスをそれほど「尊いお方」として扱ったことを象徴する。一方で、こうした誠実な礼遇が葬りの時点でようやく行われたという事実には、ある種の惜しさも残る。イエスが生きておられたとき、彼らは目立った援助ができなかった。イエスがサンヘドリンで尋問を受け、ピラトに引き渡され死刑宣告を受ける場で、少なくとも議員の一人として弁護に立ったり、イエスの無罪を証言する行動が取れたはずだった。しかし彼らは恐れゆえに、自分の体面や地位を失うリスクを負えず、隠れたり沈黙していた。そしてイエスが亡くなって初めて、墓と香料を用意することで、自分たちの信仰と尊敬の念を表した。張ダビデ牧師はこれを「時期を逃した献身」と呼びつつも、それでも「主に仕える道」を最後まで放棄しなかった点を高く評価する。 この文脈で張ダビデ牧師は、生前のイエスに「一続きに織られた下着」(ヨハネ19:23-24)を差し出した女性たちの物語にも思いを巡らせる。他の福音書の並行箇所では、イエスのそばで仕えていた女性たちが、どのようにイエスに香油を注ぎ、衣服を用意したかにも言及されている。女性たちはイエスが生きておられる間に、惜しみなく愛と物質を捧げ、イエスが十字架で処刑されるその場までも最後まで付き添った。それに対してアリマタヤのヨセフとニコデモは、危険が高まるや否や隠れてしまい、イエスが亡くなったあとになってようやく姿を現した。どちらの方がより尊い献身だろうか。張ダビデ牧師は「もちろんどちらも大切だ」としつつも、「生きておられる主に対して時期を逃さず直接的にお世話や献身をする方が、はるかに尊い信仰の道である」と語る。誰かが世を去ってしまってから、どんなに立派な葬儀や墓を設えても、当人はすでにこの世にいないのだから、実のところその慰めは大きくない。しかし生きているうちに捧げられる愛と献身は、当人に直接的な喜びや慰めをもたらし、主もまたその献身を喜ばれるというわけだ。 張ダビデ牧師は「私たちの信仰も復活の主に対して現在形で応答すべきだ」と力説する。イエスは2,000年前にすでに死んで復活されたが、今も生きて働かれるお方として私たちは信じ、礼拝しているのなら、その信仰の実践は「今、ここで」現れるべきだというのだ。今日でも多くの人がアリマタヤのヨセフやニコデモのように、周囲の目や体面を気にして、主に対する積極的な献身を後回しにしたり隠して生きている。そして状況が大きく変わったり、いざ誰かが亡くなってしまうと、後になって花束を持ち「その方を本当に尊敬していた」と告白する。ところが、その時にはすでに遅すぎるのだ。生きている間に伝えられなかった感謝や愛はあまりにも惜しく、真実な交わりの機会は失われてしまう。そこで張ダビデ牧師は「私たちが持っている貴いもの、イエスに捧げうる最も尊い仕えは、今この瞬間にこそ実行されるべきである」と教える。 とはいえ、だからといってアリマタヤのヨセフとニコデモの行いを全面的に卑下すべきではない。たとえ遅くなったとはいえ、彼らが示した「勇気ある葬りの仕え」は、十字架を目の当たりにした後にもたらされた真実な悟りの実りでもある。イエスが十字架の上で血と水を流し尽くすほど徹底的にご自身をささげられたことを知り、彼らは恐れを乗り越えてピラトのもとへ出向いた。それは決して容易い選択ではなかった。十字架刑を受けた人物を公に尊び扱う姿勢は、宗教指導者・議員という自分たちの身分に致命的なダメージを与えかねなかった。しかしそれでも「この方こそ本当に神の子であり、真のメシアだった」という告白が心の奥底から湧き上がり、どんな不利益があってもイエスの遺体を尊く扱うべきだと決断したのだ。張ダビデ牧師は、この選択こそ「すべての人を引き寄せるキリストの力」(ヨハネ12:32)であると説明する。キリストの犠牲の前では、人の地位や体面、利益計算などは色あせ、結局は真実な信仰だけが残るのである。 さらに、彼らはイエスの復活を予測できていなかった。そのため亜麻布や没薬、沈香といった埋葬のための用品をふんだんに準備したものの、イエスは三日後に復活され、事実上それらは「必要なくなってしまう」。これは復活の出来事の驚きであり、神の救いの摂理がいかに人間の予想を超えるかを示す。張ダビデ牧師は「人間は死んだ遺体に対して最上の香料や葬りの衣を用意したとしても、復活の力の前ではそれらすべてが過剰供給となる」と語る。とはいえ、こうして「不要となった」献身さえも神は虚しく捨てることはなく、その人の思いと奉仕を尊く受け止めてくださる。結局、ヨハネ20章でイエスはその墓からよみがえられ、弟子たちに姿を現し、墓の中には畳まれた亜麻布だけが残される。アリマタヤのヨセフとニコデモは死後のイエスを最高の敬意をもって葬ろうとしたが、イエスは墓を破って出られることで「死の葬り」そのものを無力化なさったのである。 この出来事は、張ダビデ牧師が強調する「死んだ信仰 vs. 生きた信仰」の対比を連想させる。彼は「もし私たちの信仰生活が、ただ儀式や制度、礼拝の形式にばかりとらわれ、実際には生きておられる主との交わりと従順がないなら、それはイエスの遺体に亜麻布と香料を包んで差し上げる『死後の礼遇』にとどまる宗教行為にすぎない」と警告する。教会へ通い、礼拝に参加し、献金を捧げるあらゆる行為が、本当に復活のイエスを信じ、愛して行う「生けるいけにえ」(ローマ12:1)でなければ、結局は形だけで終わってしまう。ゆえに私たちに必要なのは、「いまだ生きておられるイエス、今も働かれる主の御前に捧げる実質的で現在的な献身」なのである。それがたとえ小さく、一見地味に見えるものであったとしても、主は生きておられる間に捧げるその仕えを大いに喜んでくださる。 同時に、張ダビデ牧師は「アリマタヤのヨセフとニコデモも決して『遅すぎた』と嘆いて終わったわけではなく、自分たちに与えられた機会の中で最善を尽くして献身した」と言う。そして神の恵みの中で、彼らの決断と勇気は聖書に永久に記録された。私たちもまた過去に機会を逃して悔やむことが多々あるかもしれないが、主は今この時にでも心を翻し、主の御前に進み出る決断を受け取ってくださる。人によって信仰のきっかけやタイミングは異なるが、結局、十字架と復活を通して主のもとへ「戻る道」こそが、真理と命に至る道なのだ。大切なのは「今」である。張ダビデ牧師は「まだ息があるうち、そして福音を聞けるこの時に、生ける主に自分の人生と心をささげる礼拝と献身の場へ踏み出すべきだ」と強く語る。 一方、本章で強調される「新しい墓」の象徴性にも目を向ける必要がある。ヨハネはわざわざ「まだだれも葬ったことのない新しい墓」と表現しているが、張ダビデ牧師は、これがイエスの復活が他のどんな死とも混じり合うことなく、ただイエスの力とみわざによって示されるように用意された背景だと述べる。もし既に誰かが使っていた墓であったなら、復活の事実をめぐっていろいろな疑問や誤解が生じる余地もあったかもしれない。だが主は、ほかの誰とも混同のしようがない「新しい墓」で復活されることによって、その復活のリアリティと唯一性を証されたのだ。さらに張ダビデ牧師は、「新しい墓」が象徴するのは「新しい創造」の恵みでもあるという。イエスは死の場を墓へと進んでいかれたが、そこから再び生きて出てこられることで、朽ちない永遠の命を指し示された。それはイエスにあって私たちが「新しい被造物」(Ⅱコリント5:17)となるという福音の核心を視覚的に示した場面だと言える。 こうしてヨハネの福音書19章31~42節は、イエスの死後に起こる出来事を詳細に描く一方、その中に驚くべき逆説と恵みを内包している。金曜日の受難と安息日のはざまには「絶望」があるのではなく、「キリストの血と水が流れ出る贖いのみわざ」と「隠れた弟子たちの遅きに失した勇気と献身」が浮き彫りにされているのだ。十字架で死なれたイエスは、律法を完成する過越の小羊となられ、人々が気づいていなかった安息の実体となられ、裁きと呪いの象徴だった十字架を救いと恵みの象徴へと逆転させられた。また、アリマタヤのヨセフとニコデモの仕えは、私たちに「いまだ生きておられる主にささげるべき献身」を思い起こさせるとともに、「たとえ時期を逃してしまっても、今からでも立ち返れば神は受け入れてくださる」という慰めと励ましのメッセージをも与えてくれる。 張ダビデ牧師はこの本文を締めくくりながら、信仰者が取るべき態度を二方向で提示する。第一に、「外面的な律法遵守」にとどまらず、十字架の愛を実践的に生きること。安息日準備日を厳格に守りながら、イエスと隣の罪人たちの足を折れと命じたユダヤ人の姿は、宗教的熱心が人間性を損なう可能性を示す恐ろしい教訓を与える。ゆえに信仰は律法の本質である「愛」をつかむとき、初めて完成される。第二に、「生きておられる主を見失わない礼拝と献身」を捧げること。アリマタヤのヨセフとニコデモのように遅くなってから主を探し求める姿にも学ぶことは多いが、それ以上に、女性たちが示したように、生きておられる主イエスに今まさに私たちの心と時間、そして物質を惜しまず捧げることこそが、はるかに尊い信仰の道だ。それは形だけの宗教を越えて、復活のいのちと直結する「生けるいけにえ」の礼拝であり、主が最も喜ばれる礼拝の姿勢だ。 結局、ヨハネ19章31~42節は、キリストの十字架と死が決して絶望の終わりではないことを私たちに悟らせると同時に、今日を生きる信仰者たちが真の献身の時期と対象を逃さないように促している。張ダビデ牧師は「主が十字架で死なれたとき、すでにいのちの門が開かれた」と語る。また「主が墓にとどまられたとき、すでに復活の新しい歴史と新しい安息が備えられていた」と言う。そして「もし私たちが今、イエスを排斥したり、イエスへの完全な献身をためらっているなら、これ以上遅くならないうちに、生きておられる主に私たちの大切なものをささげるべきだ」と強調する。これこそがヨハネ19章全体が語ろうとしている福音の真髄であり、私たちがキリストの十字架の前に立ち、復活の希望のうちに握るべき真の信仰の道なのである。 張ダビデ牧師はこのメッセージを結論として、改めて問いかける。「私たちはアリマタヤのヨセフやニコデモのように、遅れての後悔を抱えながら大きな献身をするのか、それとも生きておられるイエスに感謝と愛を今捧え、その御心を喜ばせるのか?」遅れての献身も恵みのうちに尊く用いられるが、主は今日、生きておられるその方と共に歩み、愛を実践することを私たちに望んでおられる。十字架の恵みを既に受けた私たちであれば、もう先延ばしにせず、復活のいのちの中に喜んで入り、主の御旨に従う実践的な愛によって準備日と安息日、そして私たちの全生涯を聖別するべきである。こうしてこそ、律法の真髄である「愛」を握り、イエスがくださる新しい契約の恵みにあずかり、聖霊のうちに日々新しくされる真の礼拝者の生き方が可能となるのだ。これこそ、張ダビデ牧師がヨハネの福音書19章31~42節の説教を通して力強く伝える中心的メッセージであり、すべての信仰者が日々噛みしめるべき福音の真髄なのである。

大胆な信仰 – 張ダビデ牧師

1. パウロの裁判とローマ総督フェストゥスの決定 張ダビデ牧師は、使徒の働き25章から26章にかけて続くパウロの裁判過程を通して、神の摂理とイエス・キリストの福音がどのように人間の歴史の中で展開していくのかを深く黙想させる。ここでは、パウロが既に以前の裁判で無罪同然の状況にあったにもかかわらず、新しく赴任した総督フェストゥスが着任すると、再びユダヤ人の指導者たちが訴えを試みる。しかし、これは神のご計画のもとで最終的にパウロをローマへ送り、福音をさらに拡張させる道具となる。 張ダビデ牧師はまず、ローマ総督たちの存在と性格に注目する。彼らは行政面でも軍事面でも絶大な権力を持っていたが、ときに苛酷な暴政を行い、税の搾取や暴力などでユダヤの民と深刻な軋轢を生んでいた。しかし意外にも、フェストゥスはパウロを安易にエルサレムへ移送しなかった。ユダヤ人たちが「再びエルサレムへパウロを連れてきてほしい」と強く要望した時、そこで待ち受けていた刺客たちはパウロを殺害しようと企んでいたが、フェストゥスは「証拠がない者に罪を課せない」というローマ法の基本原則を守った。張ダビデ牧師は、これが偶然ではないと言う。鉄拳政治がまかり通るローマ帝国の時代にもかかわらず、フェストゥスが最低限の原則を守ることが起こったのは、既に神がパウロをローマへ導かれようとして摂理のうちに働かれた結果だというのである。 そして張ダビデ牧師は、ここでパウロの「カイサルに上訴する」という宣言が決定的だと説く。パウロはユダヤ人の奇襲や刺客の脅威を避け、さらに主が直接エルサレムで「あなたはローマでも証しをすることになる」(使徒の働き23章11節)と言われたみことばを実現するため、与えられていたローマ市民権を積極的に活用した。ユダヤ人でありながら同時にローマ市民として生きてきたパウロは、この二重のアイデンティティを福音伝播に最適な道具として用いたのだ。何よりも張ダビデ牧師が強調するのは、パウロが自分の安全だけを望んだり苦痛を回避するために上訴したわけではないという点である。パウロは自分の意志を捨て、「これは神が既に定めておられる道であり、復活のイエスが与えてくださった使命だ」という確信のもとに進んだ。したがって、単に不当な扱いから逃れるための手段ではなく、福音のために自分はどうしてもローマへ行く必要があると悟り、決断した告白なのである。 張ダビデ牧師は、この場面において「神の絶対的計画(プロビデンス)は既に完了した状態」であることを改めて指摘する。フェストゥス総督が善良であれ悪しき者であれ、また総督の性格や政治的欲望がどうであれ、神は「罪が確定していない者に罰を下せない」という法の原則一つを通じてパウロを安全に守られた。張ダビデ牧師は、私たちも人生で遭遇する様々な試練や苦難をどのような視点で見るべきか、この出来事から挑戦を受けると言う。一見「偶然」に見える出来事の中にも神の綿密な主権が既に働いており、世の無慈悲な権力でさえ、神の救いの計画を妨げられないことをパウロの裁判の場面がはっきりと示しているのである。 さらに張ダビデ牧師は、このエピソードが単なる「パウロ個人の無実を晴らすための裁判」ではなく、「神が定められた福音の道のりを完成するための決定的な道具」であると説く。新任の総督フェストゥスがエルサレムへの道のりにあるカイサリアでパウロを再度審問したが、いかなる証拠も見いだせなかった。ユダヤ人たちは律法を破ったとか、神殿を汚したとか、カイサルへの反逆をたくらんだとか、あらゆる悪行をねつ造したが、全く証明できなかった。これはパウロに本当の罪がなかったことと同時に、神がパウロをローマの法廷へ導かれる確かな摂理があったからでもある。張ダビデ牧師は、この過程を通して「裁判」が一つの“福音宣教の舞台”となるという逆説的な場面に注目すべきだと強調する。 最後に、フェストゥスが「罪を見つけられない」という結論を下しながらも、ユダヤ人に顔を立てようとして、一時パウロに「本当にエルサレムへ上って裁判を受けたいのか」と尋ねた際、即座にパウロがカイサルに上訴した決断を“信仰の行動”と見なす。エルサレムには既にパウロを殺そうとする陰謀が公然化していたし、ローマ市民権を持っている彼には皇帝の法廷で裁きを受ける権利があったゆえに、これは福音拡張のために最善の選択だったのだ。結局パウロはこの選択によって、ユダヤ人たちのすべての攻撃と陰謀をかわし、さらに大きな舞台へと進んで、ローマ皇帝の前でさえ福音を証しする機会を得ることになる。 張ダビデ牧師はここで、イエス・キリストを伝える者が必ず備えるべき態度を説く。困難や陰謀が降りかかるときに落胆したり恐れに縛られるのではなく、私たちにあらかじめ開いておられる神の摂理を切に仰ぎ見て、信仰をもって従うべきだというのだ。パウロがカイサルに上訴したのは、臆病や卑怯の選択ではなく、「復活の主が備えてくださった道を行く」という大胆な献身の表れである。張ダビデ牧師は、この点で私たちも人生のさまざまな岐路で、理不尽でつらい状況に直面しても、「もしそれが神の許される道ならば、その道には必ず福音の拡張があり、神のご計画が実現する」という信仰的洞察を見いだすよう勧める。 2. アグリッパ王とベルニケの前での最後の証言 張ダビデ牧師は、使徒の働き25章の終わりと26章に登場するアグリッパ王とベルニケの存在に注目し、この二人がヘロデ王家の最後の継承者である点を取り上げる。ユダヤ王国は既にローマの支配下に入り滅亡寸前であった。イエスの時代のヘロデ大王、その後を継いだ分封領主たち、さらにヤコブを殺したアグリッパ1世など、暴力の家系である。ここに登場するアグリッパ2世と彼の妹ベルニケは、近親関係への疑惑や、ローマ政界の利害得失を追う複雑な人物背景を持っている。しかし逆説的にも、この陰鬱で堕落した一族の最後の王の前でパウロは福音の頂点を宣言する。 張ダビデ牧師によると、アグリッパ2世が「自分でパウロの話を聞いてみたい」と言い、パウロがその前に立つことになった時点で、実際にはフェストゥスが「この男には死刑や拘束に値する罪がまったくない」と断言している状況だったという。形としては「裁判」の形をとってはいたが、実際は「公開証言会」のようなものだった。パウロはこの機会を福音伝播の場として活用する。総督フェストゥス、ユダヤ王アグリッパ、そのそばのベルニケ、千人隊長や高官たちまでみな席に並ぶ場所で、パウロは“ローマの法廷”ではなく“神の法廷”の上に立つかのごとく復活の福音を証言したのである。 張ダビデ牧師は、ここでパウロが自らの回心(かいしん)の物語を詳細に語るくだりに注目する。使徒の働きには3度(9章、22章、26章)にわたってダマスコ途上の体験が記録されているが、26章には「とげのついた棒(かす)を蹴るのはあなたに痛みを負わせるだけだ」という独特の表現が含まれている。張ダビデ牧師は、イエスを信じる者たちを迫害していた時点で、実は神がすでにパウロを選んでおられ、パウロがいくら拒絶しようとしても結局は自分だけが傷つく“不可能な抵抗”にすぎなかったことを、この一言が雄弁に物語っていると解釈する。また、「なぜわたしを迫害するのか」と復活の主が語られたとき、パウロは単なる驚きではなく、存在そのものを根底から揺さぶられる衝撃を受けた。彼の回心は悔い改めの結果であると同時に、イエスご自身が直接顕現された救いの出来事に対する無条件の降伏にほかならない。 張ダビデ牧師は、パウロがこの真実をアグリッパ王の前で大胆に証言する姿に目を留める。「あなたが見たこと、これから見ることについて、あなたをしもべ(サーバント)と証人として選ぶ」という主の声、「イスラエルと異邦人たちからあなたを救い出し、彼らのもとへ遣わす」という使命、「闇の中から光へ、サタンの権勢から神へ立ち返らせる」という宣言は、パウロ個人に与えられたものにとどまらず、現代において福音を伝えるすべての人に当てはまる命令でもある。張ダビデ牧師は、この箇所でパウロが「悔い改めて神に立ち返れ」と説教するのは、ユダヤ人だけに向けた言葉ではなく、全世界――すなわち「神の救いを必要とする異邦の全世界」への呼びかけになったのだと強調する。 フェストゥス総督は、このパウロの証言を聞いて「お前の多学が、お前を狂わせてしまったのだ」と大声で叫ぶ。張ダビデ牧師は、この瞬間がパウロの大胆な説教がいかに強烈な印象を与えたかを示すと言う。ローマ総督の前で「イエスの復活」と「神の摂理」を長々と説くことは、常識から見れば度を越えた行為であり、「気が変になった」と言われるほどショッキングだった。しかしパウロは「私は狂ってはいません。正気で真実な言葉を語っているのです」と一歩も引かない。むしろパウロはアグリッパ王に向かって「預言者を信じますか? 信じておられると私は知っています」と問いかけ、「イエスが死者の中からよみがえられて、イスラエルと異邦人に光をもたらされることは、すでにモーセと預言者が予言したとおりです」と断言する。 このときアグリッパ王が「そんなに短い言葉で私を説得して、キリスト者にしようというのか」と返す場面にこそ、張ダビデ牧師は妙なる逆説的勝利を見る。圧倒的権力を持つ王が、囚人のように拘束されたパウロの前で「私を伝道しようとしているのか」と反応しており、実はこれがパウロの完全な勝利を示す瞬間だというのだ。パウロは「この鎖は別として、あなたも含めここにいる皆が私のようになることを願います」と宣言する。張ダビデ牧師は、これを「拘束されていながらも霊的には完全に自由なパウロ、命の福音を確信し、どのような場所でも証しすることをやめないパウロの勝利」と見る。反対に権力と自由を謳歌しているかのように見えるアグリッパ王は、現実には歴史の中で罪や陰謀、堕落に絡め取られた悲惨さをさらけ出している。世の目にはパウロが囚人に見えても、神の視点からはパウロこそが自由人であり勝利者だという対照的な図式がくっきりと示されているのだ。 アグリッパ王は最終的に「この人には死刑や拘束に値する行いがない」と結論づける。「もしカイサルに上訴していなければ、釈放できたのに」という最後の言葉は、パウロが無罪であることを公に認める宣言にほかならない。張ダビデ牧師は、この場面が使徒の働きの最終部分まで続く「パウロのローマ行き」を完全に確定する明らかな勝利だと力説する。ユダヤの最高権力者ですらパウロを釈放せざるを得ないほどに、この福音の代弁者はどのような政治的策略や暴力的陰謀も打ち破り進んでいく。しかしこれによってパウロはローマ皇帝の前にまで行って福音を伝えなければならない使命を、さらに明確に自覚するようになる。張ダビデ牧師は、これこそ神が歴史の中で展開される方法であり、「弱く縛られた者をあえて強く自由な者のように用いられ、全世界にみことばを行き渡らせる神の主権的な愛」なのだと説く。 3. 神の絶対的主権とパウロの大胆な信仰 張ダビデ牧師は全体の結論として、使徒の働き25章と26章を貫く核心は「神の絶対的主権とパウロの大胆な信仰」だとまとめる。これら二つの場面は、裁判という形式が続くが、実際にはパウロがイエス・キリストの福音を様々な権力者や聴衆の前で説教する巡回伝道のようでもある。パウロを排除しようとするユダヤ人指導者たちの陰謀、ローマ総督の政治的計算、ヘロデ王家の入り組んだ罪と王権争いなど複雑に絡み合っても、結局神の救いのご計画はそのすべての上にどっしりと立っている。そしてパウロは、そのことを正確に悟ったゆえに揺るぎない大胆さを手にしたのだ。 張ダビデ牧師は、旧約の預言、特にモーセと預言者たちが予言していたメシアの苦難と復活がイエス・キリストにおいて完全に成就し、パウロがその事実を「直接目撃した使徒」であることを繰り返し強調する。ここにおいて「復活」は単なる歴史的事実にとどまらず、人類史全体を貫く決定的出来事であり、預言者たちが待望していた「新しい時代の到来」の象徴なのだ。パウロは復活された主に直接出会うことで揺るぎない確信が生まれ、どんな外的権威もこの事実を動かせなかった。張ダビデ牧師は、このメッセージを通じて、現代のクリスチャンも「私が信じること」を堅く握り、世の嘲笑や暴力に直面しても揺るがない姿勢を身につけるべきだと呼びかける。 さらに張ダビデ牧師は、この本文が「福音宣教の本質」を明確に示していると強調する。パウロが王の前に立っていたとしても、そのメッセージは少しも変質しなかった。異邦人であろうとユダヤ人であろうと、「悔い改めよ、神の憐れみと恵みは既にイエス・キリストのうちに与えられている。ゆえにこの福音を拒んではならない」というのが核心だった。王であれ総督であれ、高官であれ千人隊長であれ、あるいは飢饉や荒廃に苦しむ民であれ、すべての人間は復活されたイエスの前に同じように立つ存在なのだ。張ダビデ牧師は、この実現のために神はパウロの人生に数多くの困難や刑罰を許されたが、結局そうした苦難が、より多くの人に福音が伝わる結果をもたらすのだという点を見逃してはならないと訴える。 そして張ダビデ牧師は、パウロが抱いていた「私が伝えている福音は宇宙的真理であり、片隅で行われた私事ではない」という認識を、すべての信仰者が持つべきだと説く。西暦66年に勃発したユダヤ戦争、70年にローマの将軍ティトゥスがエルサレム神殿を破壊し、73年にマサダ要塞で最後の抵抗軍が自害してしまう悲劇へと至る歴史的状況を振り返るとき、歴史の大きなうねりは決して人間の力や計画だけで動くものではない。張ダビデ牧師は「歴史は神が運行される大いなる車だ」と語り、その中で聖徒たちは神の摂理のままに用いられる存在であると改めて強調する。パウロは人間的には苦痛を伴う過程を通ったが、結果的には自分が与えられた使命を全うする道へと導かれたという事実が、このメッセージの頂点だといえる。 張ダビデ牧師は、「自分が罪無きことが既に明らかなのにもかかわらず、パウロがローマ皇帝の前まで行かなければならなかったこの不思議な状況こそ、実は宣教の機会だったのだということを改めて思い巡らしてほしい」と訴える。神に仕える者にとって、一見“理不尽な状況”が、実は“神の完全な導き”であるというわけだ。詩編や箴言が強調しているように、人は心の中で自分の道を計画するが、その歩みを導かれるのは神である。パウロはカイサリアの法廷で、エルサレムで、そしてアグリッパ王の前で、繰り返し「福音はすでに成就している、私は狂人などではない、もっとも理性的かつ真実なことを語っている」と大胆に宣言した。その姿は「鎖は身体を縛ることができても、魂を縛ることはできない」という事実を実証している。 張ダビデ牧師は「このメッセージを聞くすべての信者たちも、パウロの裁判過程を深く黙想し、自分の人生に当てはめるように」と勧める。イエス・キリストの死と復活、そして聖霊の臨在によって、信じる者はどのような王や権力者の前でも恐れを知らずに歩むべきである。張ダビデ牧師はパウロにならって「王よ、あなたのみならず、ここにいるすべての人々も、私が持っているもの――この結ばれた鎖以外は私と同じになることを願います」と大胆に叫べるようであれと言う。私たちはいつも復活のイエスの声に耳を傾け、「闇から光へ、サタンの支配下から神へ立ち返る」その恵みの道へと人々を招く福音の使者(ししゃ)であるというアイデンティティを忘れてはならない。 結局、張ダビデ牧師がこの本文を通じて最も強調したいのは、人間の歴史を動かされる方はただ神だけだという点である。パウロはどんな政治体制や軍事力の後ろ盾がなくとも、むしろ囚われの身としてユダヤ最後の王の前で完全なる勝利を収め、ついにカイサルの法廷にまで至って福音を宣べ伝えるに至った。ローマが何百万人もの軍隊を擁する強大な帝国であろうと、パウロと共にあられる神の力と知恵の前ではまったく小さなものとならざるを得ない。これこそ初代教会が世界をひっくり返した真の秘訣であり、復活の主を証する者が持つべき絶対的確信だ。 張ダビデ牧師は、パウロが「イエスが復活された」ということと「私はこの復活の主に直接出会った」という確信をいついかなるときにも叫び続けたと強調する。もし私たちが同じ信仰を持つならば、社会的地位や環境に振り回されることも、悪しき陰謀に揺らぐこともなく、たとえ死の脅威を突きつけられても福音をためらうことはなくなるだろう。パウロがアグリッパ王とベルニケの前で大胆に語ったように、私たちも与えられたすべての場で福音を誇りをもって宣言すべきである。そしてその宣言の根拠は常に復活と神の摂理、つまり人類に対する神の救いの情熱なのだ。 こうして張ダビデ牧師は、使徒の働き25章と26章から私たちが学ぶべき核心的教訓をまとめる。第一に、世の権力はいかにしても神の主権を越えられない。第二に、理不尽や陰謀に遭遇するときでさえ、神はご自分の民を安全に守られ、むしろさらなる証しの機会へと変えてくださる。第三に、パウロの証言が示すように、福音は王にも総督にも千人隊長や高官たちにも同じく適用される宇宙的真理だ。第四に、福音の宣教者は常に大胆であるべきだ。人々の前で萎縮せず、「キリストの死と復活」という最も本質的なメッセージを語らなければならない。これらすべては、イエスにあってすでに完成された「神の絶対的計画」だからである。 最終的に張ダビデ牧師は、現代を生きる教会共同体や信者たちに対しても、パウロのこの裁判物語を自らの現実に当てはめてみるよう勧める。私たちも多様な形で拘束され、理不尽に追い詰められる状況に直面することがあるが、それでもなお神が歴史を支配しておられるただ中で、イエス・キリストの復活を証しし、悔い改めと救いを宣言することを決してやめてはならない。パウロが暗殺者たちに殺されかけた張り詰めた緊迫感や、総督と王の前で「気が狂った」と嘲笑されるほど情熱的に福音を証言した場面は、決して過去の一時的な出来事ではない。どの時代においても、福音を知らない世はしばしばキリスト者を誤解したり迫害したりする。しかしパウロがローマへ導かれたように、最終的にはキリストが成そうとされる目的はそのまま成就していく。 張ダビデ牧師は最後に、この結論の前で私たちが祈るべきだと強く促す。復活の主を裏切ることなく、与えられた使命に忠実であり、いかなる苦難の中でも大胆に福音を伝える霊的な勇気を求めて祈ろうではないか。そして、パウロが拘束された身でありながら「神よ願います、この人々も皆、私のようになることを」と叫んだように、私たちの持っている霊的自由と復活の喜びを世に流し伝えよう。たとえ私たちには政治的権力や世俗的な力がないように見えても、最終的に神の絶対的主権のもと、最も大いなる喜びと栄光にあずかる道が開かれるのである。 張ダビデ牧師は、すべてのメッセージを総括しながら「神は私たちが後ろ足で蹴ろうが、従順しようが、結局はご自身の道へと導き出される。であるならば私たちは無用な痛みを作り出さず、神の導きを全く受け入れようではないか」と勧める。これこそ、棘の棒に押し返され痛みを覚えながらも抵抗していたサウロが「主よ、あなたはどなたですか」と降伏した瞬間であり、同時に「なぜわたしを迫害するのか」という主の問いに対して「この復活の主のために生きていこう」と決断した使徒の姿でもある。この決断はアグリッパ王の前でも、フェストゥス総督の前でも、またあらゆる人の前でも続き、ローマにまで至ってついに世界史に福音の炎を燃え上がらせた。今日も同じである。張ダビデ牧師は、同じ召命が今まさに私たち一人ひとりにも与えられていると宣言し、キリストの血によって贖われた聖徒であるならば、少しもためらうことなくこの福音を握りしめようと呼びかける。そして、使徒の働き26章が描く「縛られていても自由なパウロの偉大なる最後の証言」を、私たちも自分の人生に再現すべきだと力強く訴えるのである。

神の怒りと救いへの道 – 張ダビデ牧師

ローマ書の本文(1:18~32)は、使徒パウロが罪の問題を扱う上で非常に重要な区画です。ローマ書における最も核心的なテーマは救い論ですが、パウロはその救いを正確に理解する前に、まず罪とは何かを深く見つめる必要があると強調しています。もし罪が病であるならば、救いはその病を治療する過程です。ですから、病である罪の実態を徹底的に考察しなければ、救いへの感謝と感激を完全に理解することは難しいのです。イエス様が「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのである」(マルコ2:17)とおっしゃったのも、私たちの根本的な状態が病人であり、その病を正確に知らなければ治療を受けることができないという真理を示しています。したがって、ローマ書1章18節から3章20節まで展開されるパウロの「罪論」は救い論の基盤であり、その罪論の冒頭を飾るのが、1章18節以下に示される異邦人の罪なのです。 張ダビデ牧師は、このローマ書1章18~32節の本文を強調する中で、パウロが「神の怒り」という表現で本論を始めた理由に注目しなければならないと説きます。人々は往々にして神を「愛の神」としてのみ捉えがちですが、パウロは罪に満ちた人類をご覧になる神が確かに怒っておられることをはっきりと語ります。これは全能なる神が無感情な超越的存在ではなく、私たち人間を子どもとして迎え入れたいと願いつつも拒まれ、裏切られたゆえに、深い嘆きと悲痛をあらわにされるお方であることを示すのです。聖書のさまざまな箇所で、神は人間の不義や不敬虔に対し、悲しみと怒りが入り混じった心をあらわにされますが、これはギリシア神話や世の哲学で描かれる「無感情の神」とはまったく異なる、聖書的な神の姿です。張ダビデ牧師は、このローマ書1章における罪論が「神を拒絶する人間の実存的悲惨」を赤裸々に描いていると捉えています。人間が神を捨てるとき、神も最終的には彼らを見捨てるほかなくなる——それは裁きの暗い影であり、同時に神の愛を拒んだ者たちに正当に下される結果でもあるのです。 さて、ローマ書1章18節から32節までの流れは、大きく三つのポイントに区分することができます。第一は「神の怒りと不敬虔」に関する内容、第二は「人間の不義と道徳的堕落」、そして第三は「永遠の裁きと救いの希望」です。これら三つのポイントを中心に、パウロは異邦人の罪を明るみに出し、ひいてはすべての人間が必然的に陥っている滅びの道を示します。そしてその滅びから救われる唯一の道がイエス・キリストであることを示唆します。張ダビデ牧師はここで、私たちが必ず覚えておかねばならないのは、「不敬虔」は垂直的な関係において神に反逆する罪であり、「不義」は水平的な関係において隣人を害する罪だという点だと強調します。また、不敬虔という根が解決されない限り、どんなかたちであれ世の倫理や道徳も結局は崩れてしまうと指摘します。パウロはこのような流れに沿って論理を展開し、罪の実態がいかに致命的であるか、そしてそれが最終的に私たちへの神の怒りを招くことになるのかを体系的に説き明かしているのです。ここからは、この本文を三つの小主題に分けて詳しく考察していきましょう。 第一の小主題:神の怒りと不敬虔 パウロはローマ書1章18節で「神の怒りが現われる」と宣言します。一般に人々は神を愛と恵みの神としてのみ捉えやすいのですが、なぜパウロは強い言葉である「怒り」を用いたのでしょうか。その背景には、「人間が神を知りながら神をあがめもせず、感謝もしない」という深刻な不敬虔が横たわっています。ここで言う「不敬虔(ungodliness)」という言葉は英語でも“godlessness”と表され、生活から神を排除し、否定する態度を意味します。神を敬わず、神を心に留めようともせず、神に対して少しも感謝しない——この心こそが罪の根本的な根なのです。 神は全能なる創造主でありながら、ご自分を人間に強制的に押し付けたり、無理やり愛を押しつけたりされません。愛というものは自由な意思から流れ出るものであってこそ意味があるからです。ところが、人間が「心に神を留めることを好まず」(ローマ1:28)生きようとするとき、ついには神も「彼らを見捨てる」ほかなくなる——パウロはそう語ります。これは一種の「遺棄(reprobation)」状態です。張ダビデ牧師によれば、ここで言われるのは、神が「あなたがそこまで望むのなら、そのまま好きにしなさい」と放任されるという意味だというのです。これは決して神の側から愛が消え失せたとか、神に力がないということではなく、人間の側が頑なに拒絶し続けることで、自ら破滅へ追いやられているのです。このように不敬虔の本質は「神なしで生きる」と高慢に宣言するところにあります。 パウロは、このような不敬虔がどこから生じるのかをより具体的に説明するために、「神を知りうる証拠はすでに人間の内に十分に与えられている」と述べます(ローマ1:19-20)。人間に与えられた理性と良心、そして私たちを取り囲む雄大な自然世界は、すべて神を証明するものです。創造主なくしてこれほど秩序正しく精巧な宇宙が存在するはずがないということは、少し目を凝らせば誰にでも認識できる常識的な結論だと言えます。これをもって張ダビデ牧師は、神を拒むことは知識不足ではなく、むしろ心の問題なのだと力説します。つまり「神(神々)が見えないから存在しない」と主張する人々の言葉は、要するに「自分が望まないから存在しないことにしたい」という自己欺瞞に近いのです。 パウロは1章21節で「彼らは神を知りながら神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その愚かな心は暗くなった」と語ります。ここで言う「むなしい」という言葉は、空虚で偽りに満ちた状態を指します。栄光ある神という実体を無視してしまった人間の心には、むなしさと闇だけが満ちていくのです。続く23節では、このようにむなしくなった人間が「朽ちることのない神の栄光を、朽ちる人間や鳥、獣、はうものなどの像と取り替えた」と言います。偶像崇拝は不敬虔の代表的な実りです。本来神にこそ捧げられるべき礼拝と栄光を被造物に向け、その被造物があたかも人間の問題を解決してくれるかのように錯覚してすがりつく——これこそ不敬虔の典型的な姿です。歴史を見ても、あらゆる迷信や天体崇拝、皇帝の神格化など、神ではない対象を拝む行為は絶えず起こってきました。古代ローマ帝国でも皇帝崇拝が広まり、それに抵抗した初期キリスト者たちは迫害を受けたのです。 このように不敬虔は、垂直的な関係における罪であり、すべての罪の根と言えます。張ダビデ牧師は、現代もなお、人々が神よりも金銭や権力、あるいはさまざまな物質的なものを偶像化して不敬虔な道を辿っていると指摘します。そして「神への真の礼拝と畏敬が捧げられない場所では、結局ほかの何かに従属したり、すがったりすることが繰り返される」と述べています。私たちが神を無視して心に留めるのを嫌うならば、その空いた場所に別のものを据えるのは当然の帰結なのです。これこそ不敬虔の結果であり、偶像崇拝の始まりです。パウロによれば、これが神の怒りを引き起こすゆえんです。愛を注ぎ込まれたにもかかわらず徹底的に拒絶され、むしろ被造物が神の座に置き換えられる状態——そうした人間を前にした神の御心はいかばかりでしょうか。ついには怒りと裁きが備えられるのは当然の論理なのです。 第二の小主題:人間の不義と道徳的堕落 不敬虔が神との垂直的な関係において神を無視する罪ならば、不義(unrighteousness)は隣人や世界との水平的な関係における罪を指します。パウロは1章18節で「不義をもって真理を押し留める人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが現われる」と宣言しましたが、ここで不敬虔が先に挙げられ、その後に不義が続くのは決して偶然ではありません。神なき心は、結局倫理的・道徳的破綻を招きやすく、多種多様な不義が横行する社会を生み出すからです。パウロはその代表例として性的堕落、特に同性愛の問題を挙げます(ローマ1:26-27)。ここで同性愛が特に言及されるのは、それが創造の秩序そのものに反する極端な堕落だからです。 聖書の創造秩序によれば、人間は男と女として創造され、結婚と家庭は男と女が一体となり、生めよ増えよという前提で成り立ちます。ところが、この秩序が崩れ、男が男同士、女が女同士で「恥ずべきこと」(ローマ1:27)を行うようになるとき、その結果は個人・社会の破壊につながる——これがパウロの警告です。もちろん、これがすべての罪の中で特にもっとも悪いと言いたいわけではありません。パウロが1章後半で列挙する数多くの罪——妬み、殺人、争い、欺き、悪意、中傷、誹謗、親不孝、無情、無慈悲など——はいずれも不義の範疇に含まれます。しかし同性愛は、秩序破壊の象徴的な例として提示されることで、神を拒絶した人間がどこまで倫理的に墜ちていくかを端的に示していると言えるのです。 張ダビデ牧師は、特にこの本文を取り扱いながら、現代社会が直面している道徳的混乱や倫理的相対主義を指摘します。「この世は神なしでもいくらでも善や高貴な価値を維持できる」という楽観論がある一方、歴史を見ると神への畏敬の念が消えるや否や、道徳的放縦と混迷が恐ろしいほどに広がってきたのです。古代ローマも全盛期にはある程度の道徳律と価値を保っていましたが、次第に物質的豊かさと快楽、性的堕落に溺れて内部から腐敗し、結果的に帝国は崩壊の道を歩みました。その核心には不敬虔があり、その不敬虔が大規模な不義を生み出しました。 張ダビデ牧師は、こうした文脈において教会と信徒が果たすべき役割を強調します。私たちがこの世で「光」と「塩」の役割を果たすには、まず「神を畏れる生き方」を回復しなければならないということです。神を心に留めなければ、どれほど倫理的に高尚に振る舞おうとしても、結局は利己的欲望や快楽が優先されてしまいます。パウロが言う「見捨てる」という行為は、人間の欲望が際限なく猛威を振るうのをただ放置されることを意味します。その結果、人間はとめどなく堕落の道を下り、あらゆる醜い罪の数々を実行するようになります。1章29~31節に列挙される21もの罪のリストは、決して他人事ではなく、不敬虔な世のどこにでも見られる現象です。そこには殺人や争い、貪欲、悪意といった直接的な暴力や悪事だけでなく、親に逆らい、陰口を叩き、傲慢で、契約を破り、無情で、無慈悲な姿も含まれています。すべての人が神の前で罪人であることを証明する、一種のカタログのようです。 パウロはこうした罪の拡大が単なる個人的逸脱にとどまらず、集団的には「それを行う人々を当然だと認め、さらに奨励する」段階にまで至ると指摘します(ローマ1:32)。すなわち、社会全体が罪を黙認し、当たり前と見なすようになり、さらに文化や制度そのものがそれを正当化し始める。これは「罪の構造化」あるいは「制度化」と呼べるもので、不敬虔と不義が結合し、個人と社会を同時に崩壊へ導いてしまうのです。科学や文明がどれほど発達しても、神を拒む心が根底にあるならば、倫理と価値観を正しく打ち立てるのは難しい。現代においても腐敗や暴力、あらゆるスキャンダルが蔓延している現実は、人間が自分自身を制御できない弱い存在であることを改めて証明しています。 張ダビデ牧師は、こうした現実を非常に痛烈に診断します。教会が本来の役割を果たせず、世から非難されることも多々ありますが、真の問題は教会が世と妥協して同じ不義や不敬虔に手を染めていることだと見ています。教会が神を畏れ、その御心を正しく伝えるならば、この世から迫害されようとも教会は聖なる光を保つでしょう。しかし教会の中にさえ堕落が入り込むと、パウロが指摘したように、他人を裁きながら自分自身も罪を犯すという偽善的な姿が現われてしまいます。結局、パウロはこの手紙を通じて、異邦人であれユダヤ人であれ誰一人例外なく罪の中にあると宣言しますが、1章ではとりわけ異邦人の罪・不敬虔・不義、そしてその結果として現れる性的堕落が強調されているのです。 第三の小主題:永遠の裁きと救いの希望 パウロは1章32節で「このようなことを行う者は死に値するという神の定めを知りながら、自分だけでなく、それを行う者たちをも是認している」と言います。ここで「死に値する」とは、単に肉体的な死にとどまらず、神の前で下される永遠の刑罰を意味します。パウロによれば、人間の罪がもたらす最終的帰結は滅びであり、それはすなわち地獄という恐るべき結果を伴うものです。人間はみずからその道を選び、神はさまざまな方法で悔い改めを促されたにもかかわらず、頑なに不敬虔を続けてきたがゆえに最終的に直面する結末と言えます。 しかし、パウロの論旨が単に「あなたがたは罪人だから地獄に行くしかない。絶望せよ」で終わらないことが重要です。ローマ書全体の流れを見ると、パウロはこれほどまでに絶望的な罪の状態を徹底的に暴いた上で、ただイエス・キリストによる救いだけが唯一の解決であることを提示しようとしているのです。ローマ書3章23節で「すべての人は罪を犯して神の栄光を受けられなくなった」と言い、続く3章24節で「キリスト・イエスによる贖いを通して、神の恵みにより、価なしに義と認められるようになった」と宣言するのが、その代表的な例です。 張ダビデ牧師は、ここを解説しながら、パウロが非常に論理的かつ段階的に人間の現状を示していると指摘します。1章18~32節の流れは、人間がいかに頑なに神を拒み、堕落してきたか、その結果として神の怒りが下るのはいかに正当なことかを説明しています。そして、そうして罪の中に放置されている人類にも依然として希望の道が残されていることを伝えるため、パウロは次第にキリスト・イエスの福音へと視線を移していくのです。神は罪人を憎まれるが、それでも罪人を立ち返らせて救おうとする愛を最後まで諦めなかった——これこそがローマ書全体を貫く核心メッセージです。 「神の怒り」と「神の愛」は矛盾した概念のように見えますが、実は聖書では、この両者をともに「神の聖なるご性質と義なるご性質から生じる一つの大きな性格」として描きます。人間が背を向ければ怒られますが、悔い改めて戻るならその愛で受け入れる。これが旧約の預言者たちが繰り返し伝えたメッセージであり、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセアなど多くの預言者たちが強調した内容です。例えばイザヤ書1章2~3節では、神が「牛はその飼い主を知り、ろばはその主人の飼い葉桶を知っているのに、わたしの民は知らない」と嘆かれます。全能の神が、わざわざ嘆く必要などないとも思えますが、それでも私たちを子としてくださる「愛の神」だからこそ、裏切りや拒絶の前で苦しみをあらわにされるのです。 張ダビデ牧師は、「神が人間に怒りを表されるのは、人間を裁くためというより、最終的には立ち返らせるためだ」と説明します。すなわち、罪の中にとどまり続ければ永遠の死に至るしかないため、神は怒りを通してその事実を警告し、罪を捨ててご自分のもとへ戻るよう促されるということです。しかし、不敬虔と不義に満ちた人間の心は、しばしばこの警告さえも拒んだり、自己正当化しようとします。「神なんていない」と言い張ったり、仮にいたとしても「神は愛だから結局みんな許してくれるだろう」と軽々しく考えたりする。ところが、パウロによれば、こうした思考こそまさに愚かさであり、一方では神の存在を否定しつつ、他方では「愛の神様だから大丈夫」と思い込む——この矛盾こそ、空しくなってしまった人間の典型的姿だと言えるのです。 結論として、人間の罪は死刑宣告、すなわち永遠の刑罰へとつながりますが、ヨハネの福音書3章16節が宣言するように、「神はそのひとり子を与えるほどに世を愛された」という希望の門が開かれています。これこそキリスト教の福音であり、ローマ書が最終的に伝えようとしているメッセージなのです。パウロはこの福音を裏付けるために、まず人間がいかに徹底的に罪のもとにあるかを証明しました。罪の現実を直視してこそ、イエス・キリストによる救いの恵みがいかに大きなものかが分かるからです。張ダビデ牧師は、この点について「自分が死ぬしかない状況にあると知らなければ、救いの尊い知らせを聞いても大きな感動は生まれない」と語ります。しかし、ローマ書1章の御言葉に正直に向き合うとき、私たちは「地獄行きの列車」に乗るしかない自分たちの運命を悟り、だからこそイエス・キリストの恵みがいかに尊いものかを痛感するようになるのです。 このように、不敬虔と不義、そしてそれらによって直面する永遠の刑罰の危機にあって、私たちがしっかりと掴まなければならないのは、ただ十字架の福音です。パウロはローマ書の続く章で、この福音をさらに明確に宣言します。イエス・キリストの血潮によって私たちは義と認められ、聖霊の力によって新しい生き方へと招かれたのだ、と。こうして開かれた恵みの門があるにもかかわらず、人はなお神を心に留めるのを嫌がるかもしれません。その場合、その人に残るのは罪の奴隷状態と、最終的に直面する裁きだけです。ゆえに、ローマ書1章18~32節の警告を軽く受け流してはなりません。パウロのこの警告はすべての時代に向けられており、現代人にも等しく適用されるものです。 今日の世には「もし神が本当におられるなら、なぜこれほど多くの苦しみや不義があるのか」という問いが溢れています。しかし聖書の観点から見ると、実のところ苦しみや不義がはびこる現状は、人間がすでに「神なしで生きよう」と決めてしまった結果でもあるのです。本来礼拝されるべき神を見失えば、その空いた場所をあらゆる欲望や偽りの思想、不条理な構造が埋めてしまいます。そのうちに争いや貪欲、暴力や堕落が蔓延していくのは当然の帰結です。ゆえに問題の根源は「神を捨てた人間の不敬虔」であり、解決策は「神に立ち返って悔い改め、神の統治を受け入れること」なのです。その立ち返りこそが福音の語る救いであり、イエス・キリストを主と告白する信仰の旅路となるのです。 張ダビデ牧師は、「神の怒り」を正しく理解しないと、「神の愛」も単なるロマンチックな概念で終わってしまう危険があると指摘します。聖書が語る神の愛は、正義と公義の上に打ち立てられた愛です。罪を軽んじて「愛だから何でも許してもらえるだろう」と考えるのは、決して聖書的な愛の概念ではありません。神は罪を憎み、罪人が悔い改めない場合は永遠の裁きが避けられないと明言されています。それと同時に、人間を生かすために独り子を差し出される犠牲の愛も示されました。この緊張関係の中で、私たちは神を畏れつつ、同時に感謝と賛美をもって近づくことができます。一方だけを見て「神は愛だから罪を犯しても大丈夫」と考えたり、あるいは「神は怒るから怖くて近づけない」と考えたりするのは、どちらも聖書的なバランスを欠いた偏見です。 ローマ書1章18~32節は、このバランスに気づかせるために私たちを準備させる役割を果たしています。ただ神の愛だけを強調するのではなく、罪を裁かれる聖なる神と公義の神がいかに重々しい御方かを強調します。人間がどれほど自分に言い訳をしようと、どれほど神の存在を否定しようと、創造主である神は被造物を通して確かにご自身を明らかにしておられます。人間の内には神へ向かう理性的・霊的感覚が存在するにもかかわらず、罪ゆえにその感覚は暗くなり、堕落してしまいました。その結果として、あらゆる偶像崇拝や淫乱、殺人、妬み、争い、親不孝、無慈悲など、多くの罪悪が日常の至るところに根を下ろすようになったのです。こうして私たちが直面する現実は暗闇に包まれ、パウロの言うとおり「死刑宣告」から逃れる道はないかのように見えます。ところが、まさにその時、福音が到来するのです。人間が果てしなく堕落しきった場所に至っても、神は悔い改める者のためにイエス・キリストの十字架を差し出されます。それを信じる者は誰でも滅びることなく永遠の命を持つという約束が、ヨハネ3章16節に高らかに宣言されています。 張ダビデ牧師は、この真理こそが私たちの信仰の中心であると強調します。「自分が罪人であることを認めなければ、イエス・キリストの恵みは単なる教理や思想的概念にとどまるだけ」というのです。しかしローマ書1章の罪論に照らして、自分がどれほど惨めな罪人かを痛感すればするほど、神の恵みは私たちの内に一層大きな感謝と喜びとなります。またこの罪の問題をうやむやにしたまま福音を語っても、福音がもたらす真の解放と力を味わうことは難しいのです。パウロはこの大きな枠組みに従って罪論を十分に説いたあと、いよいよ本格的に救いの教えを展開していきます。これは牧会現場においても同様です。まず人々が自分がどれほど悲惨な罪人なのかを悟るように導かれるときこそ、十字架の福音に真剣にすがるのです。それを怠るならば、福音は単なる思想や文化として消費されるか、あるいは宗教的好みの問題に矮小化されてしまう危険が高まります。 結論として、ローマ書1章18~32節においてパウロが語るメッセージは次のような流れに要約できます。人間が神を拒み、不敬虔に生きるとき、その結果として不義や道徳的堕落が蔓延します。それは神がご覧になるとき当然怒りを引き起こすものであり、究極の裁きと滅びへとつながります。しかし、これほど絶望的な状況の中にあっても、神はひとり子イエス・キリストを通して救いの門を大きく開いてくださいました。ただイエス・キリストを信じ、悔い改めることで、私たちは永遠の滅びから永遠の命へ移されることができる——これが福音の核心なのです。ローマ書1章の言葉が伝える「重い真実」は、単に悲観的なメッセージとしてではなく、むしろ私たちに救いの必要性と尊さを改めて思い出させる通路とすべきです。もし私たちの心になお「神を心に留めるのを嫌う頑なさ」が残っているなら、この御言葉を通してその根を抜き去り、真心から神に立ち返る機会としなければなりません。パウロの教えどおり、「人が心に神を留めることを嫌うなら、最終的に神の見捨てられる状態」が訪れ、霊的・倫理的破滅に至るしかありません。しかし「神を心に留め始める」ならば、私たちは聖霊のうちに主に倣い、義と聖なる実を結ぶようになるのです。 このようにローマ書1章18~32節に込められた罪論の教えは、単に昔の異邦人の罪状を暴くものではなく、現代の私たちの時代や、自分自身の内面をも映す鏡でもあります。パウロはすでに2章や3章でユダヤ人も罪の下にあり、結局は全人類が神の裁きの下にあると宣言しています。その意味で、1章18~32節は「すべての人間が置かれている状況」を象徴的に示す代表的な本文と言えるでしょう。そしてこの罪論の終わりに、私たちはイエス・キリスト以外には何の解決もないことを悟るのです。張ダビデ牧師は「こうして罪を直視すればこそ、十字架に走らずにはいられない」と語ります。神の怒りは確かですが、それと同時に、神の愛が私たちを待ち続けているからです。私たちはこの二つの側面を併せ持つ神の御前で謙虚に悔い改め、イエスの代償をつかむときにこそ、真の自由と命を得るのです。 張ダビデ牧師はさらに、ローマ書1章の一節一節が現代社会の倫理的イシューとも深く関係し得ることを指摘します。たとえば同性愛の問題が教会内外で大きな議論になるとき、単に文化的な次元で賛否を唱えるのではなく、聖書が語る創造の秩序と神の御心をじっくりと見なければならないといいます。また貪欲や妬み、争い、悪意、親不孝、無慈悲などは、今日でも私たちが戦わなければならない問題であり、個人や教会共同体がその深刻さを重く受け止めねばなりません。結局、すべての問題の根源は神の座に別のものを据える偶像崇拝にありますが、その偶像は金銭である場合もあれば、権力である場合もあり、あるいは個人的欲望であることもあります。私たちが神よりほかの被造物や現象を高める瞬間、すでに不敬虔の出発点に立っています。そしてこれは必ず不義を生み出し、やがては個人の破局と社会的混乱を引き起こします。 このように見れば、ローマ書1章18~32節は聖書全体の核心メッセージとも深く結びついています。創造主なる神に背いた人類が、旧約時代からどれほど多くの失敗と裁きを経験してきたか、その歴史が随所に記されています。それでも神はアブラハムと契約を結ばれ、ダビデの子孫の中にメシアを送ると約束され、ついにはイエス・キリストを通して人類救済の計画を完成されました。パウロはその壮大な叙事詩の最終的結末を、ローマ書で劇的に展開してみせます。まず人間の徹底的な堕落と無力を示し、その絶望的状況からイエス・キリストの血潮がいかに絶対的な恵みであるかを宣言します。張ダビデ牧師はこれを「天地を創造された神が、罪に染まった人間を回復するために注がれた驚くべき物語」と呼びます。 結局私たちは「神の怒り」がいかに恐ろしいかを知り、それでもなお「神の愛」がいかに大きいかを共に握ることで、初めて福音を正しく理解するようになります。ローマ書1章18~32節は私たちの絶望を容赦なく突きつけますが、ローマ書全体と聖書全体の流れの中では、決して絶望で終わりません。すべての人が神の前で罪人であると告白し、イエス・キリストの贖いを仰ぐとき、初めて永遠の刑罰から永遠の命へと移される道が開かれます。だからこそ、ヨハネ3章16節のように「滅びることなく永遠の命を得るためにイエス様が来られた」という宣言に光が当たるのです。「人間には一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)という御言葉も、その裁きの厳粛さと共に、イエス・キリストによる救いがいかに切実なものであるかを伝えています。 まとめると、ローマ書1章18~32節は、不敬虔と不義という罪の両面性、そしてその罪がもたらす永遠の刑罰という現実を扱います。しかし同時に、それは私たちを悔い改めと救いの道へと導く「恵みの手」でもあります。パウロが真理を伝えるために過酷な伝道旅行を忍耐し、ローマの教会にも手紙を送り、この書簡が2000年を超えて今日まで伝えられ、人々の心を揺さぶる理由は一つです。それは、この御言葉にこそ神の福音があり、人を生かし、回復させ、永遠の命を与えるからなのです。張ダビデ牧師は、これを読む際、「まず自分の罪を見る時間となるよう祈り、同時にイエス・キリストを見上げるよう求めるべきだ」と助言します。そうするとき、パウロが「神の怒り」という重々しいテーマから本論を開始した理由がはっきりとします。それは人間を裁いて終わらせるためではなく、むしろ信仰の最も深い本質である「救い」をいっそう際立たせるためなのです。 最終的にパウロの結論は、ローマ書1章の末尾で「すべての人が地獄に行くしかない」という形で示されますが、ローマ書全体を見渡せば「しかしイエス・キリストによって義と認められ、永遠の命を得ることができる」という結末に至ります。この劇的な逆転と逆説こそ、キリスト教信仰の核心です。私たちが義人だからではなく、全面的に神の恵みにより義とされる——ゆえに、ただ感謝とへりくだり、そして賛美をもって神のもとへ近づかざるを得ません。張ダビデ牧師は、これこそローマ書を学ぶ目的であり、信仰の全過程だと語ります。要約すると、「不敬虔と不義、永遠の滅びと死の道がこれほど確かな現実である一方、イエス・キリストの十字架はそれらすべての罪を洗い、命へ導く力である」ということです。 したがって、ローマ書1章18~32節のメッセージは私たちを二つの道の前に立たせます。一つは、最後まで神を心に留めるのを嫌い、神に反逆し続けて「見捨てられる」に至り、恥辱のうちに滅びる道。他方は、神の怒りを真剣に受け止めて悔い改め、イエス・キリストの恵みのうちにとどまる道です。すべての人は、この岐路において決断を迫られています。昔も今も状況は変わりません。自由意志を持つ私たちは、神に対峙するのか、背を向けるのか、二つしか選択肢がないのです。もし悔い改めず、最後の最後まで拒むならば、結末はパウロの言うとおり永遠の死しかありません。しかし、悔い改めて福音を受け入れるならば、「生きることはキリスト、死ぬことも益」(ピリピ1:21)と告白できるほどの自由と命を享受することができるのです。 このように、ローマ書1章18~32節は「神の怒りと裁き」を告げると同時に、「神の愛と救い」を予告しています。張ダビデ牧師が指摘しているとおり、この御言葉から学べる核心は、「不敬虔が不義へと繋がり、それが結局永遠の刑罰に直結する」という事実です。しかしその暗闇のただ中にも、神が備えてくださった恵みへの道が確かに開かれています。その道へ進むか、それとも背を向けるか——その決断を迫られているのが私たち人間の宿命的な課題なのです。ローマ書はここで終わらず、続く章でより具体的な救いの教理が展開されます。しかしその第一歩は罪の実態を直視することであり、この過程で、あえて「神の怒り」という重いテーマに出会うのが出発点なのです。多くの人々はこの部分を読むときに不快感を覚えるかもしれませんが、聖書は決して私たちの耳に心地よいことだけを語るわけではありません。永遠のいのちと真理のためならば、痛みを伴う診断も進んで受け入れる必要があるのです。 最後に、ローマ書1章18~32節は、今を生きる私たちにとっても有効なメッセージです。人類の文明がどれほど進歩しようと、技術がいかに革新的になろうと、一つの本質は変わりません。それは、神を認めて仕えるのか、それとも拒んで自分勝手に生きるのかという根本的態度の問題です。張ダビデ牧師は、この時代にもパウロの警告が切実に伝えられる必要があると主張します。同性愛や性的堕落の問題に限らず、物質主義や個人主義、あらゆる暴力や搾取など、現代社会が抱える病巣もまた「神を捨てた結果」の一側面だからです。真の解決策は、神に立ち返る悔い改めと福音の力を受けることしかありません。なぜなら根本的問題は霊的な問題であり、私たちは神なしでも表面的には「良い行い」をしているように見えるかもしれませんが、究極的な指針が「神の栄光」ではなければ、やがて限界に突き当たるからです。 ゆえに、ローマ書1章18~32節を通して私たちの心を吟味し、パウロのこの福音の知らせに耳を傾けるべきです。「神はそのひとり子を与えるほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)という言葉の中には、人間の罪を根こそぎ取り除く救いの計画が秘められています。これを信じて受け入れるなら、誰でも永遠のいのちを得て、もはや罪の奴隷として生きる必要はありません。けれどもこれを拒むなら、永遠の刑罰と死から抜け出す道はありません。この二つの岐路において、パウロは迷うことなく福音を握る道を選べと勧めます。この勧めは2000年前のローマ教会だけに与えられたものではなく、現代を生きるすべての人々にもあてはまるのです。 結局、ローマ書1章18~32節の要点は明確です。不敬虔と不義に満ちた人間世界には、神の怒りが当然下るしかありません。しかし、神はイエス・キリストを通して救いへの道を広く開いてくださいました。パウロは人間の悲惨な現実を説きつつも、その悲惨の中にもなお見失ってはならない救いの御手があることを示します。これこそローマ書における罪論の始まりであり、救い論へと進む門口なのです。「人間がどこまで墜ちたのか」を知らなければ、「神がどこまで私たちを救い上げてくださったのか」がいっそう鮮明にはなりません。パウロが少し荒々しくも聞こえる「神の怒り」という表現で本論を始めたのは、決して偶然ではなく、恵みへ至る道の不可欠な段階と言えるのです。 張ダビデ牧師は、こうしたパウロのローマ書執筆の意図を高く評価し、「福音が真の福音となるためには、まず罪に直面する時間が不可欠だ」と繰り返し教えます。人々に耳障りのよいことばかりを語るなら、福音はただの人間的な慰めや道徳的助言にとどまってしまうかもしれません。しかしパウロは罪の実態を一切隠すことなく暴き出すことで、すべての人が悔い改めてこそ真の救いの力を味わえるよう招いているのです。その出発点こそがローマ書1章18~32節における「神の怒り」の宣言です。この宣言の前で私たちが取りうる反応は二つだけです。すなわち、軽視し拒絶するか、畏れかしこみ悔い改めるか。前者を選ぶなら私たちは不敬虔の道を歩み続けることになり、後者を選ぶならイエス・キリストの十字架をしっかりと抱きしめることになります。そしてその道において初めて私たちは罪の赦しと義認を得て、永遠のいのちの確信を得ることができるのです。