張ダビデ牧師 ― 聖霊の嘆き
1. 現在の苦難とやがて現れる栄光 ローマ書8章18節で、使徒パウロはこう宣言します。「思うに、現在の苦難は、やがて私たちに現れる栄光に比べれば取るに足りないからです」(新改訳2017 参照)。張ダビデ牧師はこの御言葉を解き明かしながら、キリスト者が経験する苦難と神の栄光は、まるでコインの両面のようなものだと強調します。苦難なしに栄光だけを語ることはできず、栄光もまた、苦難を完全に排除したり無視したりする形ではなく、苦難を通過することで得られる神の尊厳と聖さなのだというのです。 パウロが語る現在の苦難とやがて現れる栄光の関係は、「比較にならない(比較できない)」という表現から明らかなように、次元の違う価値を浮き彫りにしています。人間の目には、現在の苦難は非常に大きく重く見えるかもしれません。しかし神の救いの計画の中で見ると、その苦難でさえも、後に現れる栄光に比べれば、極めて軽いものだという意味です。 張ダビデ牧師は多くの説教や講演で、パウロの「未来の栄光」に対する確信はどこから来るのかについて度々説明します。すなわち、「キリストの愛に対するパウロの強烈な体験と信頼、そして未来に関する神の約束への信仰が、その確信の基礎となっている」というのです。実際、パウロがローマ書8章で展開する思想は、苦難や痛みが神の子どもである私たちから決して切り離せないことを認めつつ、それが決して私たちの破滅や絶望を意味するものではないと宣言しています。パウロが「現在の苦難はやがて現れる栄光と比べものにならない」と断言したのは、「苦難が小さい」ということを言いたかったのではなく、「未来の栄光がはるかに大きく輝かしいので、どれほど今の苦難が大きくても、それに比べれば取るに足りない」という確信から来たのです。 現実の世界で私たちが味わう苦難は、多くの場合「希望のない苦しみ」のように見える時が少なくありません。しかし、張ダビデ牧師は「キリスト者は未来があり、約束がある苦しみを背負っている」と語ります。苦難が完全に消え去る世界が来るまでは、私たちは依然として多くの痛みや困難に直面するでしょう。しかし、その終わりには必ず神の栄光が広がるという確信を持って耐え忍ぶのです。これはイエス様が約束された福音の本質の一つでもあります。イエス様が山上の説教で「義のために迫害される者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:10)と仰せられたことも同じです。つまり、この世には理解されない方法であっても、信仰者が背負わねばならない苦難の場に祝福が臨み、将来にはさらに確固たる栄光が与えられるという宣言なのです。 パウロが言う「報いの信仰」は、世俗的な代償とはまったく異なる次元にあります。イエスを信じる者として行った善行と義のゆえに受ける迫害に対して神が必ず祝福を与えてくださるというのは、最終的な栄光の主導権が神にあることを意味します。張ダビデ牧師は、信仰生活を送るすべての聖徒たちに対して「この地上で享受するささやかな祝福や現世的な豊かさ」だけに目を奪われず、究極的に私たちすべてが招かれる天上の栄光を見つめるべきだ、と何度も説いてきました。こうした視線は、私たちが目の前の困難を別の角度から解釈するように導きます。目の前にある苦痛、財政的困難、迫害、差別、健康問題、人間関係の破綻などは、私たちを打ち倒すために存在しているのではなく、むしろ後に受ける栄光をより鮮明に見据える道具にもなり得るのです。 張ダビデ牧師はローマ書8章を解説しながら、パウロが「栄光のために与えられた苦難の意味」を見抜いている点を強調します。パウロ自身もダマスコ途上でイエス・キリストに出会うまでは、意識的にも宗教的にも「自分こそ正しい」と考え、行いを積み上げていた人物でした。しかし、イエス・キリストの十字架と復活を悟った後は、かつてのすべてのユダヤ教的な熱心さや知識をむしろ「排泄物」のようにみなすようになり(ピリピ3:8)、もはやキリストのために苦難を受けることをためらわない人間へと変えられました。キリストを知り、その中にある栄光を見いだした以上、この世が与える誘惑も、逆にこの世が加える迫害も、パウロを折れさせることはできなかったのです。 パウロがローマ書8章で強調する希望は、「現在の生活苦や困難」を単に回避するための精神的勝利ではありません。張ダビデ牧師はこれを「神が計画された私たちの人生の未来は、単に幸せな結末ではなく、神の子として栄光に共にあずかることだ」と表現します。ですから、この地上でどんなに豊かさを享受できず、世の価値基準では失敗した人生のように見えたとしても、信仰の中に生きる者は天上の豊かな栄光を期待できます。こうした理由から、イエス・キリストの福音を単なる倫理や道徳に還元するのではなく、その中にある壮大で宇宙的な救いの計画に目を開かなければならない、と張ダビデ牧師は教えています。 続くパウロのローマ書8章19節からは、被造物が何を切望しているかが語られます。「被造物は、神の子たちの現れを切望しているのです」(ローマ8:19)。張ダビデ牧師は、ここで言われる「切望(apokaradokia)」に込められたギリシア語のニュアンスを非常に重視します。アポカラドキア(ἀποκαραδοκία)とは、「必死に待ち焦がれること、苦痛の中で首を長くして待つこと」を指しています。子どもが遠足を前にして前の晩に興奮して眠れない気持ち、あるいは夜明けを待つ人が夜を徹して窓を開け「いつ東の空が明るくなるのだろう」と長い夜を過ごすような心境にも似ています。漢字で書くなら「苦待」であり、つまり「苦しみながら待つ」ということです。 この苦しみながらの待望を、パウロは被造物がしているのだと言います。注目すべきは、通常「待つ」という主体は人間を思い浮かべますが、ここでは「被造物」が主語となっていることです。自然界や宇宙万物が、キリストにあって回復された人々、すなわち神の子たちが現れることを切に待ち焦がれているというのです。これは「宇宙的回復(cosmic salvation)」を示す聖句です。創世記3章17節を見ると、人類の堕罪によって「地が呪われた」と記されています。「地はあなたのゆえに呪われ、あなたは一生苦しんでその産物を食べることになる」との宣告を通して、もともと神が美しく創造された世界は、人間の罪によって破壊されてしまいました。主となるはずだった人間が罪を犯し、自然を適切に世話し治めるどころか、むしろ横暴をふるって自然を痛めつける存在になってしまったからです。 張ダビデ牧師は、人類が行ってきた大規模な自然破壊を見ながら、「人間の悪は単なる道徳的犯罪にとどまらず、被造物までもうめき声を上げさせる」と指摘します。世界各地で起こっている環境問題、生態系破壊、気候変動は、人間の貪欲と傲慢さがどんな結果をもたらしたかをはっきり示しています。本来、神の愛のもとで美しく保たれるはずだった地球は、人間の誤った支配によって瀕死の状態に追い込まれています。こうして被造物はもはや自分の思うままに生きられず、「虚無に服従」させられる存在となってしまいました(ローマ8:20)。ところがパウロによれば、これらすべての破壊と嘆きが「永遠の結末」ではないというのです。そこには「服従させた方がおられる」からだとパウロは言います。神が、被造物が報復的に人間を破壊してしまわないように、「もう少し待て」と万物を押しとどめておられる、という洞察です。 張ダビデ牧師は、人間の能力や技術でいくら自然をコントロールしようとしても、結局は自然の力にどうすることもできなくなる場合が多いことを挙げつつ、「自然は人間よりはるかに大きな潜在的力を持っているが、神がそれを許されない限り、その裁きの力を完全に爆発させることはない」と語ります。これはパウロが「被造物も滅びの束縛から解放され、神の子たちの栄光の自由にあずかるようになることを切望している」(ローマ8:21)と宣言することとつながっています。人類の堕罪によってともに堕落した被造物ですが、彼らもいずれは回復される世界を熱望しているのです。 ここで私たちは、パウロが描く未来像をさらに具体的に確認できます。張ダビデ牧師によれば、パウロがローマ書8章でほのめかしている宇宙的救いの姿と、ヨハネの黙示録21章に予言される「新しいエルサレム」の姿は、結局同じ絵を異なる表現で示しているのだといいます。もともと神が創造された完全な世界が、堕罪によって崩れました。しかし最後には完全に回復された栄光に満ちた世界へと帰結します。その回復された世界こそが「神の子たちの栄光の自由」が満ちあふれる場であり、そこに被造物も共に喜びを味わうようになるというのです。 張ダビデ牧師は、この黙示録の結末を「グランドフィナーレ(Grand Finale)」と呼びます。歴史の悲劇や絶望が決して終わりではなく、ついには神が王座に座して「見よ、わたしは万物を新しくする」(黙示録21:5)と宣言される壮麗な結末へと至る、ということです。このような救いの大きな絵図があるからこそ、キリスト者は現在の混乱と痛みの中でも究極的な希望を抱くことができます。張ダビデ牧師は、聖書全体を貫くメッセージを「神と人間と万物が一つとなって、天と地が重なり合う完全な世界に戻ること」と解説します。神学的に言えば、旧約の預言と新約の終末論が合流し、「神の国」という結実をもたらすのです。 自然にパウロのメッセージは、この宇宙的救いだけでなく、個人の救いとも密接に結びつきます。ローマ書8章23節で、パウロはこう語ります。「被造物だけではなく、初穂として御霊をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち私たちの体のあがないを待ち望んでいるのです。」 これは単に霊魂の救いへの渇望だけではなく、体の救いをも含みます。張ダビデ牧師は、聖書が語る「体」の重要性を決して軽視してはならないと繰り返し強調しています。彼によれば、「体」とは実際の私たちの肉体であると同時に、「教会」という「キリストの体」の次元までをも包括しているのです。私たちが教会共同体の中で一つとなり、頭であるイエス・キリストが目指される愛と聖さへと進むこと、そのプロセスを通じて教会が完全に建て上げられることが「体のあがない」に含まれる、と彼は解釈します。 最終的に、ローマ書8章24節でパウロは「私たちは、この望みによって救われているのです。ところが、目に見える望みは望みではありません。だれでも見ていることを、どうしてさらに望むでしょうか。」と言います。張ダビデ牧師はここで、「すでに(Already)」と「まだ(Not Yet)」という神学的概念をうまく紐解きます。すなわち、救いはすでに私たちのうちに到来しているものの、一方でまだ完成していないということです。イエス・キリストを信じ、聖霊を受けた時点で、私たちはすでに救いという賜物を得ています。しかし、最終的かつ完全な形での神の国がこの地に実現したわけではないため、私たちは今もなお期待しつつ待つ「まだ」の状態に生きているのです。この緊張の中で、信徒は未来の栄光を「信仰」によって先取りし、忍耐をもって生きていくのです。 張ダビデ牧師は、この部分を説教する際、ヘブライ書11章1節の言葉と合わせてよく説明します。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」(新改訳2017)というように、信仰によって、まだ目に見えていない神の国と約束を、今この瞬間に生き抜くことができるのだ、と。だからこそ苦難のただ中でも喜べるし、迫害を受けても忍耐でき、絶望的な状況にあっても確信を失わずにいられるのです。パウロも、また現代において私たちが尊敬する多くの信仰の先達も、この信仰を携えて生きてきました。そして張ダビデ牧師も、自身のすべての宣教・牧会の働きを通じて、「聖徒は未来の栄光を先取りすることによって今日を勝ち取るのだ」という視点を繰り返し提示しています。 さらに、張ダビデ牧師は救いを単に「個人の魂の救い」に限定して理解してはならないと言います。ローマ書8章の核心は、人間の罪性の問題を超えて、宇宙的スケールへと拡張されているからです。キリストにあってすべての万物が回復され、自然も再び本来の姿を取り戻し、神と人間と自然が一つとなって築かれる国こそが、救いの最終的な姿なのです。パウロがローマ書全体で救いを深く説き明かしたあと、8章後半で「被造物の嘆き」と「やがて回復される世界」を強調しているのも、まさにこのためです。このように救いの「個人的側面」と「宇宙的側面」の両方を統合的に見るとき、人間中心的な偏りから脱却し、神の壮大で美しい計画に参与することができるようになります。 そうしたわけで、張ダビデ牧師は「神の国」というキーワードに注目する必要があると言います。使徒の働きの最後の節は、パウロが「神の国と主イエス・キリストのことを、少しもはばかることなく大胆に説き続けた」(使徒28:31)という言葉で締めくくられます。これはつまり、パウロがその宣教を通じて一貫して強調してきた中心メッセージが「神の国」であったことを示しています。イエス・キリストが福音を宣べ伝えられたときも同様であり、私たちが暗唱する主の祈りも「み国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」(マタイ6:10)という部分に要約されます。このように、パウロの宣教、イエスの教え、初代教会の伝承はすべて「神の国」という結論へ向かっているのです。 張ダビデ牧師は、「神の国と主イエス・キリスト」が新約全体の核心であり、私たちの終末論も結局はその国が到来することにあると説きます。ときに教会が、終末を「恐ろしい裁き」の枠組みだけで捉えたり、あるいは過度に世俗的な願望(現世的欲望の充足)に没入してしまうことがありますが、それは聖書が語る救いの大きく美しい結末を見失う道なのです。なぜなら、聖書が究極的に示しているメッセージは、「神の国」という聖なる新しい世界への明るい展望だからです。かつて世界史で登場した世俗的ユートピア運動は、ある意味聖書が語る希望を模倣しつつも、それを歪めて適用した例が多く、最終的に限界を露呈して消えていきました。しかし私たちが聖書に明示された「新天新地」をしっかりと握っていれば、誤った終末論や虚無主義に陥ることなく、真の希望の中で人生を歩むことができる、と張ダビデ牧師は説きます。 そしてパウロが語るローマ書8章の結びは、私たちに一つの結論を示します。「私たちは、まだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望むのです」(ローマ8:25)。張ダビデ牧師は、この「忍耐」の重要性を何度も強調してきました。忍耐とは、苦難を意味なく耐える受動的な態度ではなく、未来の栄光をつかんで、今日を能動的に踏みとどまる成熟した信仰の姿です。農夫が種をまいてから実がなるまで労苦して待つように、私たちも人生という畑に福音の種をまいて、時には涙で、時には喜びで耕しながら生きていくのです。そうして耐え忍ぶとき、神が備えてくださった栄光にあずかることができるのです。 2. 被造物の嘆きと聖霊の助け ローマ書8章26~27節へと進むと、パウロは読者を祈りの世界へと誘います。「同様に、御霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちは何をどう祈るべきかを知りませんが、御霊ご自身が言いようもないうめきをもって、とりなしてくださるのです」(ローマ8:26)。張ダビデ牧師は、ここで「祈りの本質は自分の弱さを認めるところから始まる」と語ります。つまり、祈りとは「自分ですべてを解決できる力を持つ存在」ではなく、「弱く、未来を知ることができず、神の助けなしには生き抜けない存在」であることを悟った人だけが行う行為だというのです。 「なぜ祈らなければならないのですか?」という問いは、しばしば投げかけられます。人間の知性を重んじる人の中には、祈りを漠然とした自己安慰だとみなす人もいます。しかし、聖書と神学はまったく違うことを語ります。祈りは、単に心理的な安定をもたらす道具ではなく、全能の神に参与し、神の働きを願い求めるための通路なのです。張ダビデ牧師は、パウロが「私たちは何をどう祈るべきかを知らない」と率直に認めた部分に着目します。罪によって私たちの判断力は曇っており、そもそも何を求めるべきなのかさえわからないほど弱いのです。ところが、聖霊がその弱さを助けてくださる。「助ける」とは、聖霊が私たちを引き上げ、私たちの祈りが不十分で歪んでいたとしても、それを「執り成し」として神へと取り次いでくださるという意味です。 張ダビデ牧師は、この「聖霊のとりなし」という概念を理解するには、イエス・キリストが私たちと神との間に立って成し遂げられた仲保の働きも併せて見る必要があると言います。テモテへの手紙第一2章5節は「神は唯一であり、神と人との間の仲保者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」と宣言します。私たちの祈りは、本来罪深い人間の唇から出るものなので、それ自体では神の前に届きません。しかしイエスは十字架の血潮によってその道を開いてくださいました。その結果、私たちはイエス・キリストの名によって大胆に神の御座へと近づけるようになったのです(ヘブル10:19)。さらにイエスが昇天された後、聖霊が教会に降臨されたことで、イエス・キリストがもたらした救いの現実を私たちは日々享受できるようになりました。聖霊は単に私たちの心に「漠然とした宗教的感覚」を与えるだけの霊ではなく、神の御心と人間の状況を知り尽くしておられる方であり、私たちの祈りさえも「神の御心」に合うように整えてくださるのです。 張ダビデ牧師は、「聖霊が私たちのためにとりなしてくださる」という表現、すなわち「言いようもないうめきをもって、私たちのために親しくとりなしてくださる」という箇所を深く黙想すべきだと勧めます。私たちが祈る際、「これをください、あれを解決してください」と願うものの、それが本当に私たちに必要なことなのか、神の善なるご計画にかなうのか、目先では判断しづらいところがあります。しかし聖霊は私たちの深い内面を知り、かつ神の善なる御心を正確に知っておられるので、「うめき」という切実で胸を締め付けられるような表現を通じて私たちのために執り成してくださるのです。これは旧約聖書で預言者たちが民の罪と滅びを見て嘆いた姿(たとえばエゼキエル21:6など)にも似ていますが、さらに親密かつ強力な次元で、聖霊は私たちのうちに住んでくださり「腰が砕けるほどの嘆き」の思いをもって私たちの祈りを神へと取り次いでくださるのです。そういうわけで、不十分で力のない私たちの祈りであっても、聖霊の補いと仲保によって神の御座に届くのです。 「人の心を探られる方は、御霊の思いが何であるかをよく知っておられます」(ローマ8:27)という御言葉は、祈りの結論を示すようです。結局のところ、祈りは私たちがどれほど美しい言葉や修辞学的表現を並べたから応えられるのではありません。私たちの心を探られる神が、同時に聖霊の思いをご存じであり、聖霊が私たちに代わって神のみこころに従ってとりなしてくださる、その嘆願をお聞きになるからこそ、応答がもたらされるのです。張ダビデ牧師は、これを「イエス・キリストによって開かれた恵みの祈りの通路の上に、聖霊が私たちを力強く助けておられるのだ」と説明します。だからこそ、キリスト者は祈るときに絶望しないのです。もし自分の祈りが的外れであっても、聖霊がそれを正してくださり、私たちが言い尽くせない部分を補い、神の善なるみこころが成就するよう導いてくださいます。 ここで張ダビデ牧師は、祈りにおける核心的態度として「自らの弱さの自覚」と「聖霊の働きに全面的に拠り頼むこと」を挙げます。人間は本質的に未来を予測できません。賢い大人でも、経験豊富な人でも、一寸先がわからないことは多々あります。古代中国の逸話「塞翁が馬」を思い浮かべてみると、馬が逃げてしまって嘆いていたら、その馬が雌馬を連れて戻ってきて喜び、今度は息子がその馬に乗っていて足を骨折して嘆き、しかしそれゆえ戦場に狩り出されずに命拾いをした、という話です。結局、何が福で何が禍なのか、その時点で正確に見極めることは困難です。よって「何をどう祈ればよいかを知らない」私たちの姿を、正直に自覚することこそが、真の祈りの出発点なのです。それは「自分にはできる」という自己確信ではなく、「自分にはできない」という切実さから始まり、同時に「しかし神にはできる」という信仰へとつながる道です。 張ダビデ牧師は「このように聖霊の時代を生きる教会は、もはや旧約時代のように私たちの罪の問題のせいで神から断絶されたまま留まる必要はない」と語ります。イエスの十字架と復活によって罪の道は断たれ、聖霊降臨によって私たちは「神が共におられる現実」を日常の中で体験できるようになったのです。この驚くべき恵みは、仲保者であるイエス・キリストの犠牲に基づいており、その仲保の実りが私たちの心に宿って「いつも生きていて私たちのために執り成してくださる」聖霊の働きとして広がったのです(ヘブル7:24~25)。この事実を悟るとき、祈りは決して機械的な宗教行為や形式的な作業にはとどまりません。「聖霊の嘆き」という不可解な次元に結ばれ、宇宙的な救いの計画とも結び付く強力な通路へと変えられるのです。 このようにローマ書8章18~27節を文脈的に見ていくと、第一に「現在の苦難とやがて現れる栄光との対比の中で、キリスト者の希望がいかに堅固であるか」が明らかになり、第二に「被造物が嘆き、私たち自身も嘆くけれども、聖霊が言いようもないうめきをもって執り成してくださることで、最終的に私たちを栄光の自由と完全な救いへと導いてくださる」という神のご計画が鮮明になるのです。張ダビデ牧師は、これこそパウロが示す「宇宙的救い」のビジョンであり、同時に祈りへとつながる生き方の原動力だと説きます。私たちが目を覚まして祈らなければ、日常の雑多な現実に囚われて簡単に落胆したり、世俗的価値観に飲み込まれやすくなります。しかし「私たちのために執り成してくださる聖霊」を認め、頼るとき、私たちの祈りが拙く弱いものであっても、神はその善なる御心に従って力強く働かれるのです。 総合すれば、ローマ書8章18~27節は、キリスト者が今抱えている苦難が決して「栄光」を妨げることはなく、同時に私たちの弱さが「祈り」を妨げることもないと告げる箇所です。使徒パウロは、誰よりもイエス・キリストにあって新しい被造物となり、過去を精算し、耐えがたい迫害や艱難に遭いながらも疲れ果てなかった人物です。彼の力の秘訣は自分自身にあるのではなく、ただイエス・キリストと聖霊の助けにかかっていました。張ダビデ牧師は、この真理を現代の教会と聖徒たちが絶えず心に刻む必要があると強調します。なぜなら私たちも、依然として苦難がいたるところにあり、嘆きたくなる出来事にあふれ、祈りすら思うようにできないほどの弱さを痛感する現実を生きているからです。 しかし、私たちが希望を握るとき、この希望は私たちを絶えず「信仰の新しい段階」へと運びます。張ダビデ牧師は「キリスト者にとって希望とは、現実を無視したり覆い隠す楽観主義ではなく、イエスの十字架と復活によってすでに宣言された救いが確実であるという信仰に基づく『揺るぎない未来認識』だ」と解釈します。ゆえに、今この時に遭遇する不正や理不尽、迫害や悲しみは決して永遠ではなく、むしろ後にさらに大いなる栄光を目撃することになると宣言します。さらに、私たちが何をどう求めればよいか分からない時でさえ、聖霊が私たちのために親しく執り成してくださるゆえに、私たちは絶望ではなく感謝と賛美をもって祈りの席を守り続けることができるのです。 張ダビデ牧師は、ローマ書8章を説教するたびに、「私たちが虚無に屈しない理由は、神がこのすべてのプロセスを通して最終的に救いと回復を成し遂げられるという約束を堅く信じているからだ」と力説します。神が道徳的世界秩序を治めておられるというキリスト教信仰は、歴史のミクロな局面では無数の混乱や矛盾が一度に解消されなくても、マクロな視点において必ず正義と善へと帰結させてくださる神を仰ぎ見るように私たちを促します。ですから、ローマ書8章が「私たちは希望によって救われたのです」と語るとき、その救いはすでに聖徒たちの内に始まっており、現在も進行形であり、ついには完成すると確信できる救いなのです。 私たちがこの地上に生きる間は、依然として欠乏や失敗を体験し、ときに自然も私たちにとって害となったり、私たちの罪の結果としてうめくこともあるでしょう。しかし、私たちが忍耐をもって待ち望む姿勢を失わなければ、究極的にその日にふさわしい栄光を味わうことになるのです。この事実を疑わない信仰、そしてそれを現実に適用していく祈りこそが、今日の教会が力を注ぐべき領域である、と張ダビデ牧師は語ります。パウロが救い論の頂点を宇宙的ビジョンと聖霊の祈りの働きの中に見いだしたように、私たちも「神の子ども」として嘆く被造物と共に栄光の日を待ち望みつつ、日々聖霊のうちに執り成しを祈り求めることをやめてはならないのです。 ローマ書8章18~27節は、書簡全体、さらには聖書全体の中でも非常に核心的な本文です。それは単なる教理的知識や神学的理論にとどまらず、生活の苦難のただ中で奮闘する聖徒たちに、「なぜ耐え忍ぶべきなのか、どこで希望を見いだすのか、どのように祈るべきなのか」を具体的に示してくれます。張ダビデ牧師はこの本文を講解するにあたり、「私たちはすでに聖霊の時代に生きているゆえ、決して一人ぼっちではなく、私たちが耐えきれない部分にまでも聖霊の嘆きが私たちを包み込んでくださる」という事実を繰り返し強調します。そして、パウロが「私は毎日死んでいます」(第一コリント15:31)と告白したその裏には、「聖霊への全面的な委託」があったことを思い起こさせます。 私たちに残されている課題は、この偉大な保証と約束を日常でどのように適用するかです。張ダビデ牧師は具体的に三つを提案することがあります。第一に、苦難に直面したとき、それをただ避けたい対象とみなすのではなく、やがて現れる栄光をよりはっきり見せる装置として解釈すること。第二に、被造物がうめいている現状を目の当たりにするとき、自然に対して慈しみ深い管理者の役割を果たせと命じられた神の言葉を思い起こし、生命と環境を守り育てる生き方をすること。第三に、自分の弱さを自覚し、日ごとに聖霊の助けを求めること。とりわけ祈りの生活を決してあきらめず、イエス・キリストの名によって近づく大胆さの上に、「聖霊の執り成し」を信頼しながら従う姿勢を持つことです。 これこそが、パウロが「思うに、現在の苦難は、やがて私たちに現れる栄光とは比べものになりません」と宣言した深い理由であり、「私たちは希望によって救われたのです」という逆説的な言葉の真の意味です。パウロにとって、この希望は空想や幻想ではなく、十字架と復活によって既に証明された事実でした。だからこそ彼は、この壮大な希望によって教会を建て上げ、福音を伝え、獄中に囚われ鞭打たれる状況の中でも喜びと賛美を失いませんでした。張ダビデ牧師は、ローマ書8章の講解において、パウロが書簡全体を通じて強調してきた十字架の神学と復活の力が、最終的にこの未来の栄光と聖霊の祈りへと集約されていると指摘し、現代のキリスト者も同じ原理を適用して生きるべきだと助言しています。 ローマ書8章18~27節は、宇宙的救いであると同時に個人的救いの性質も合わせ持っています。被造物がうめき嘆くのは、この地上で続く苦しみの現実を反映しており、私たちも苦しみと無縁ではいられません。しかし、それらすべてを超えて最終的に新しい天と新しい地を与えてくださる神に目を向けるのです。そしてその確信のもと、私たちは聖霊の助けを祈り求めてやみません。張ダビデ牧師が各地で語ってきたメッセージを総合すると、この本文が与える核心的な教えは次のように要約されます。「神の約束を信じ、希望をもって耐え忍び、私たちのために親しく執り成してくださる聖霊の恵みを見失わないようにせよ」。そうするとき、私たちが受けているどんな苦難も無意味な痛みで終わることはなく、被造物のうめきも結局は神の国の栄光へと集約され、私たちは「比較にならない栄光の未来」へと大胆に進むことができるのです。 www.davidjang.org