十字架の後 ― 張ダビデ牧師


1. 十字架の後に開かれる安息の世界と律法の意味

張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書19章31~42節に描かれたイエス・キリストの死後の状況を深く黙想する際、十字架の出来事が単なる悲劇的な死で終わらないことを強調する。特に本文にある「その日は準備の日であり」「その安息日は大いなる日であった」との言及が示唆的だと述べる。これはイエスが亡くなられた時点が金曜日、すなわち安息日の前日であるだけでなく、とりわけ過越の祭りの準備日でもあったことを示している。当時のユダヤ人は夕方6時から一日が始まるため、金曜日の日中にイエスの処刑が行われ、日没前までに遺体が十字架にかかったままでいることを律法上も伝統上も認められなかった。

申命記21章23節には「木にかけられた者は神に呪われた者」と規定され、たとえ呪われた者であろうと、その遺体を夜通し木に掛けてはならず、その日のうちに降ろして地を汚すなというおきてがあった。ユダヤ人たちはこれを厳守していたので、イエスとともに十字架につけられた罪人たちの遺体を日没前に処理しようと、まだ息がある者の足を折ってでも早く死に至らせてほしいとピラトに要請したのである。ローマの慣習では、罪人を十字架に長く放置し、ときには遺体を埋葬させず猛獣の餌として放置することもあった。しかしユダヤ人にとっては、安息日と過越の祭りを目前に控えた“聖なる地”をそんな状態で汚すわけにはいかなかったため、死にきっていない罪人の足を折るという残酷な方法を選択したのだった。

張ダビデ牧師は、ここに表れるユダヤ人たちの逆説的な姿に注目する。彼らは律法を守るという理由で、すでに十字架で極度の苦痛を受けた者たちをさらに残酷に扱おうとしたのだ。表向きには安息日を守り、土地を聖く保つという宗教的熱心を示しているが、実際には「安息」と「聖さ」の真の意味を全く理解せず、人間性を失った暴力的行為を続けていた。特に張ダビデ牧師は、彼らを「律法の殻だけを握りしめ、本当のいのちの道を見失っている者たち」と評する。彼らが徹底的に守ろうとしていた律法は、外面的な儀礼レベルにとどまり、神の御心と愛、そしてメシアの恵みがこもる真意を理解できていなかったというわけだ。

しかし皮肉にも、イエス・キリストは彼らの「形式的な律法遵守」という要求の下で早めに死を迎えられたことによって、結果的に「過越の小羊」としての贖いのみわざを成就されることとなる。ヨハネの福音書は「イエスの骨は折られなかった」と明確に記す。これは民数記9章12節の「過越の小羊の骨を折ってはならない」、また出エジプト記12章46節の「小羊の骨を折ってはならない」という過越の規定がイエスのうちに成就したことを示している。十字架で死に至ったが、その骨が折られることはなかったイエスは、律法全体を成就する真の過越の子羊となられたのだ。その死によって、もはや旧約のいけにえ制度は必要なくなり、罪人には新たな救いの道と安息の世界が開かれる。張ダビデ牧師は、ここで「金曜日の苦難」と「安息日」が断絶した出来事ではなく、イエスにあって真の安息へと導く過程であることを強調する。イエスの死はただの闇と絶望で終わるのではなく、人間を真の安息へと招く序幕となるのだ。

ところで、ユダヤ人たちは安息日を厳格に守るために「準備の日」を活用した。安息日にはいかなる「仕事」もしないように、安息日の前日(金曜日)を準備日と定め、万全の用意をするようにしていた。張ダビデ牧師は、この「徹底した準備日遵守」自体は本質的に悪いことではないと説明する。実際、安息日を本当に目覚めた心で準備し、聖別する姿勢は優れた信仰態度とも言えるだろう。だが彼らの問題は、その準備日を守る行為があくまで「形式的な律法遵守」にとどまり、十字架につけられた人々の人間的な苦痛や、イエスこそ真のメシアとして来られたことを全く考慮していなかった点にある。結局、彼らは一方では安息日を聖く守ろうと躍起になりながら、他方ではイエスを早く殺して取り除くべきだと主張する自己矛盾に陥っていたのである。今日的にたとえれば、「表面的には信仰生活を熱心にしているように見えても、実際には神の御心を少しも思わず、人間性を踏みにじる宗教的偽善」とでも言える姿だと張ダビデ牧師は指摘する。

兵士たちはユダヤ人の要求に従い、イエスの両隣で十字架につけられた二人の罪人の足を折った。そしてイエスにも同じ処置をしようとしたが、すでに息を引き取っているのを確認した。そこである兵士がイエスのわき腹を槍で刺したところ、「血と水が流れ出た」とヨハネは証言している。張ダビデ牧師は、ここで「血と水」が単なる医学的・生理学的現象では説明できない、重要な神学的・霊的意味をもつと強調する。血は罪の赦しを、そして水は清めと命の象徴を示す。教会の伝統では、これを洗礼(水)と聖餐(血)の意味として理解してきたが、イエスの死が私たちに永遠の贖いと清めを同時にもたらすことを示しているのだ。また、その血と水が流れ出た事実は、十字架の代償が単なる出来事で終わるのでなく、キリストにあって新しい命を生み出す源となることを物語っている。張ダビデ牧師は、血と水が流れ出た出来事によって、私たちがイエス・キリストのうちに洗礼によって新生し、聖餐によって交わりを得る恵みにあずかったのだと力説する。

また、他の福音書が「聖所の垂れ幕が上から下まで裂けた」と記録していることについて、張ダビデ牧師は、この垂れ幕の裂け目こそが、神と人間の間を隔てていた壁が打ち壊されたことを示すと教えている。旧約時代、至聖所に入る道は大祭司であってもいつでも入れるわけではなく、贖罪日など定められた時だけだった。しかしイエスの十字架の死によって、その仕切りが破られ、今やイエスの血によって大胆に聖所に入ることができる道が開かれた(ヘブライ10章19節)。このように、十字架の出来事こそが神と人間との和解を成し遂げた決定的な出来事であり、真の安息はこの和解によって可能となる。つまりイエスが安息日の前日に死なれたことによって、私たちには律法的安息ではなく「メシア的安息」、すなわち罪と死の力から解放されて神との親しい交わりを得る真の休みが与えられた、と張ダビデ牧師は説く。

「彼らはその突き刺した者を見るであろう」(ヨハネ19:37)という言葉も、ゼカリヤ書12章10節の引用であり、メシアが刺し貫かれ、その姿を見て嘆く民の予言がなされていた。ヨハネの福音書は、十字架でイエスのわき腹が槍で突き刺されたことによって、このゼカリヤの予言までもが完成したのだと示す。張ダビデ牧師は、ここからイエスの死が突発的または偶然的な出来事ではなく、既に旧約に予言されていた救いの摂理であることを力説する。十字架という最も凄惨な死に遭われながら、その方法と結果が神の言葉の通り「骨は折られず」「わき腹は刺されて血と水が流れ」「ついには予言が成就」に至った事実は、イエスこそ真のメシアであり人類の贖い主であることを示す確かな証拠なのである。

結局、張ダビデ牧師は、十字架の後にキリストが死に葬られたこの出来事自体が「完全な終結」ではなく、むしろ復活と安息へと続く「新たな始まり」であることを読者に見落とさないよう促す。金曜日の準備日に十字架にかけられたイエスは、土曜日の安息日には墓にとどまられ、その安息日の後の夜明けに復活の出来事が起こる。これは単なるイエス個人の復活ではなく、イエスを信じるすべての者の罪の鎖と死の力が解き放たれる永遠の安息の道が開かれた出来事であるというのだ。ここで張ダビデ牧師は読者に問いかける。「私たちはいまだに律法の形式にとらわれ、人を裁き排斥する位置にいないか? 主が成し遂げた十字架の愛と復活の命の喜びを知りながら、いまだに外面的なものに縛られ、主の真の安息を享受できずにいるのではないか?」 そしてイエスがもたらしてくださった「新しい安息」に入るべきであり、それがすなわち神が備えておられる真の救いであり、旧約のひな型が完成した実体、イエスにある命なのだと改めて確認させる。


2. アリマタヤのヨセフとニコデモ、そしての仕えの道

張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書19章38~42節に登場するアリマタヤのヨセフとニコデモの姿を通して、イエスの遺体を葬る過程が何を意味するのかを深く探る。イエスの公生涯期間中、人々の注目を集めていた時期でさえ、彼らは公にイエスに従えなかった「隠れた弟子」だったと言える。アリマタヤのヨセフはサンヘドリン(ユダヤ最高議会)の議員であり、ニコデモもユダヤ人の指導者として夜中にこっそりイエスを訪ねた人物(ヨハネ3章)であった。彼らはユダヤ教の指導的立場に属していたため、イエスを公然と支持したり、イエスこそメシアであると告白するのは難しかった。いわゆる「宗教エリート」として、イエスを擁護すれば面目を失い、深刻な不利益を被る可能性があったからだ。

しかし十字架の出来事の後、彼らは大きな決断を下す。ピラトのもとへ行き、イエスの遺体を下げ渡してほしいと直接願い出て、まだだれも葬ったことのない新しい墓に安置し、没薬と沈香を混ぜ合わせたものをおよそ百リトラ(約30~35kg)にもなる量で用意し、その遺体を亜麻布で包んで心を込めて葬った。張ダビデ牧師は、この場面を「遅れてはいるが、勇気のある美しい献身」と呼ぶ。十字架で完全に処刑された人の遺体を引き取ること自体、大きなリスクを伴う行動である。ローマ当局の視線、ユダヤ指導者たちの非難、群衆の激しい批判にさらされるかもしれなかった。だがアリマタヤのヨセフとニコデモは「恐れを押して」ピラトのもとへ行き、イエスを運んで盛大な葬りを行ったのだ。ヨハネの福音書は、「イエスの墓が新しい墓だった」と強調するが、これは旧約時代の死者の葬られ方とは対比的な意味合いもある。イエスに対しては、いわゆる「中古の墓」ではなく、清い新しい墓が用意され、そこに葬られたことが、イエスの復活の出来事を紛れもなく明確に示す根拠ともなった。

張ダビデ牧師は、彼らが用意した香料の量や亜麻布が、王族や貴族の葬儀で見られるような豪華なレベルだった点にも目を向ける。実際、30~35kgもの没薬と沈香は、並大抵の人物ではあり得ない大量のもので、イエスをそれほど「尊いお方」として扱ったことを象徴する。一方で、こうした誠実な礼遇が葬りの時点でようやく行われたという事実には、ある種の惜しさも残る。イエスが生きておられたとき、彼らは目立った援助ができなかった。イエスがサンヘドリンで尋問を受け、ピラトに引き渡され死刑宣告を受ける場で、少なくとも議員の一人として弁護に立ったり、イエスの無罪を証言する行動が取れたはずだった。しかし彼らは恐れゆえに、自分の体面や地位を失うリスクを負えず、隠れたり沈黙していた。そしてイエスが亡くなって初めて、墓と香料を用意することで、自分たちの信仰と尊敬の念を表した。張ダビデ牧師はこれを「時期を逃した献身」と呼びつつも、それでも「主に仕える道」を最後まで放棄しなかった点を高く評価する。

この文脈で張ダビデ牧師は、生前のイエスに「一続きに織られた下着」(ヨハネ19:23-24)を差し出した女性たちの物語にも思いを巡らせる。他の福音書の並行箇所では、イエスのそばで仕えていた女性たちが、どのようにイエスに香油を注ぎ、衣服を用意したかにも言及されている。女性たちはイエスが生きておられる間に、惜しみなく愛と物質を捧げ、イエスが十字架で処刑されるその場までも最後まで付き添った。それに対してアリマタヤのヨセフとニコデモは、危険が高まるや否や隠れてしまい、イエスが亡くなったあとになってようやく姿を現した。どちらの方がより尊い献身だろうか。張ダビデ牧師は「もちろんどちらも大切だ」としつつも、「生きておられる主に対して時期を逃さず直接的にお世話や献身をする方が、はるかに尊い信仰の道である」と語る。誰かが世を去ってしまってから、どんなに立派な葬儀や墓を設えても、当人はすでにこの世にいないのだから、実のところその慰めは大きくない。しかし生きているうちに捧げられる愛と献身は、当人に直接的な喜びや慰めをもたらし、主もまたその献身を喜ばれるというわけだ。

張ダビデ牧師は「私たちの信仰も復活の主に対して現在形で応答すべきだ」と力説する。イエスは2,000年前にすでに死んで復活されたが、今も生きて働かれるお方として私たちは信じ、礼拝しているのなら、その信仰の実践は「今、ここで」現れるべきだというのだ。今日でも多くの人がアリマタヤのヨセフやニコデモのように、周囲の目や体面を気にして、主に対する積極的な献身を後回しにしたり隠して生きている。そして状況が大きく変わったり、いざ誰かが亡くなってしまうと、後になって花束を持ち「その方を本当に尊敬していた」と告白する。ところが、その時にはすでに遅すぎるのだ。生きている間に伝えられなかった感謝や愛はあまりにも惜しく、真実な交わりの機会は失われてしまう。そこで張ダビデ牧師は「私たちが持っている貴いもの、イエスに捧げうる最も尊い仕えは、今この瞬間にこそ実行されるべきである」と教える。

とはいえ、だからといってアリマタヤのヨセフとニコデモの行いを全面的に卑下すべきではない。たとえ遅くなったとはいえ、彼らが示した「勇気ある葬りの仕え」は、十字架を目の当たりにした後にもたらされた真実な悟りの実りでもある。イエスが十字架の上で血と水を流し尽くすほど徹底的にご自身をささげられたことを知り、彼らは恐れを乗り越えてピラトのもとへ出向いた。それは決して容易い選択ではなかった。十字架刑を受けた人物を公に尊び扱う姿勢は、宗教指導者・議員という自分たちの身分に致命的なダメージを与えかねなかった。しかしそれでも「この方こそ本当に神の子であり、真のメシアだった」という告白が心の奥底から湧き上がり、どんな不利益があってもイエスの遺体を尊く扱うべきだと決断したのだ。張ダビデ牧師は、この選択こそ「すべての人を引き寄せるキリストの力」(ヨハネ12:32)であると説明する。キリストの犠牲の前では、人の地位や体面、利益計算などは色あせ、結局は真実な信仰だけが残るのである。

さらに、彼らはイエスの復活を予測できていなかった。そのため亜麻布や没薬、沈香といった埋葬のための用品をふんだんに準備したものの、イエスは三日後に復活され、事実上それらは「必要なくなってしまう」。これは復活の出来事の驚きであり、神の救いの摂理がいかに人間の予想を超えるかを示す。張ダビデ牧師は「人間は死んだ遺体に対して最上の香料や葬りの衣を用意したとしても、復活の力の前ではそれらすべてが過剰供給となる」と語る。とはいえ、こうして「不要となった」献身さえも神は虚しく捨てることはなく、その人の思いと奉仕を尊く受け止めてくださる。結局、ヨハネ20章でイエスはその墓からよみがえられ、弟子たちに姿を現し、墓の中には畳まれた亜麻布だけが残される。アリマタヤのヨセフとニコデモは死後のイエスを最高の敬意をもって葬ろうとしたが、イエスは墓を破って出られることで「死の葬り」そのものを無力化なさったのである。

この出来事は、張ダビデ牧師が強調する「死んだ信仰 vs. 生きた信仰」の対比を連想させる。彼は「もし私たちの信仰生活が、ただ儀式や制度、礼拝の形式にばかりとらわれ、実際には生きておられる主との交わりと従順がないなら、それはイエスの遺体に亜麻布と香料を包んで差し上げる『死後の礼遇』にとどまる宗教行為にすぎない」と警告する。教会へ通い、礼拝に参加し、献金を捧げるあらゆる行為が、本当に復活のイエスを信じ、愛して行う「生けるいけにえ」(ローマ12:1)でなければ、結局は形だけで終わってしまう。ゆえに私たちに必要なのは、「いまだ生きておられるイエス、今も働かれる主の御前に捧げる実質的で現在的な献身」なのである。それがたとえ小さく、一見地味に見えるものであったとしても、主は生きておられる間に捧げるその仕えを大いに喜んでくださる。

同時に、張ダビデ牧師は「アリマタヤのヨセフとニコデモも決して『遅すぎた』と嘆いて終わったわけではなく、自分たちに与えられた機会の中で最善を尽くして献身した」と言う。そして神の恵みの中で、彼らの決断と勇気は聖書に永久に記録された。私たちもまた過去に機会を逃して悔やむことが多々あるかもしれないが、主は今この時にでも心を翻し、主の御前に進み出る決断を受け取ってくださる。人によって信仰のきっかけやタイミングは異なるが、結局、十字架と復活を通して主のもとへ「戻る道」こそが、真理と命に至る道なのだ。大切なのは「今」である。張ダビデ牧師は「まだ息があるうち、そして福音を聞けるこの時に、生ける主に自分の人生と心をささげる礼拝と献身の場へ踏み出すべきだ」と強く語る。

一方、本章で強調される「新しい墓」の象徴性にも目を向ける必要がある。ヨハネはわざわざ「まだだれも葬ったことのない新しい墓」と表現しているが、張ダビデ牧師は、これがイエスの復活が他のどんな死とも混じり合うことなく、ただイエスの力とみわざによって示されるように用意された背景だと述べる。もし既に誰かが使っていた墓であったなら、復活の事実をめぐっていろいろな疑問や誤解が生じる余地もあったかもしれない。だが主は、ほかの誰とも混同のしようがない「新しい墓」で復活されることによって、その復活のリアリティと唯一性を証されたのだ。さらに張ダビデ牧師は、「新しい墓」が象徴するのは「新しい創造」の恵みでもあるという。イエスは死の場を墓へと進んでいかれたが、そこから再び生きて出てこられることで、朽ちない永遠の命を指し示された。それはイエスにあって私たちが「新しい被造物」(Ⅱコリント5:17)となるという福音の核心を視覚的に示した場面だと言える。

こうしてヨハネの福音書19章31~42節は、イエスの死後に起こる出来事を詳細に描く一方、その中に驚くべき逆説と恵みを内包している。金曜日の受難と安息日のはざまには「絶望」があるのではなく、「キリストの血と水が流れ出る贖いのみわざ」と「隠れた弟子たちの遅きに失した勇気と献身」が浮き彫りにされているのだ。十字架で死なれたイエスは、律法を完成する過越の小羊となられ、人々が気づいていなかった安息の実体となられ、裁きと呪いの象徴だった十字架を救いと恵みの象徴へと逆転させられた。また、アリマタヤのヨセフとニコデモの仕えは、私たちに「いまだ生きておられる主にささげるべき献身」を思い起こさせるとともに、「たとえ時期を逃してしまっても、今からでも立ち返れば神は受け入れてくださる」という慰めと励ましのメッセージをも与えてくれる。

張ダビデ牧師はこの本文を締めくくりながら、信仰者が取るべき態度を二方向で提示する。第一に、「外面的な律法遵守」にとどまらず、十字架の愛を実践的に生きること。安息日準備日を厳格に守りながら、イエスと隣の罪人たちの足を折れと命じたユダヤ人の姿は、宗教的熱心が人間性を損なう可能性を示す恐ろしい教訓を与える。ゆえに信仰は律法の本質である「愛」をつかむとき、初めて完成される。第二に、「生きておられる主を見失わない礼拝と献身」を捧げること。アリマタヤのヨセフとニコデモのように遅くなってから主を探し求める姿にも学ぶことは多いが、それ以上に、女性たちが示したように、生きておられる主イエスに今まさに私たちの心と時間、そして物質を惜しまず捧げることこそが、はるかに尊い信仰の道だ。それは形だけの宗教を越えて、復活のいのちと直結する「生けるいけにえ」の礼拝であり、主が最も喜ばれる礼拝の姿勢だ。

結局、ヨハネ19章31~42節は、キリストの十字架と死が決して絶望の終わりではないことを私たちに悟らせると同時に、今日を生きる信仰者たちが真の献身の時期と対象を逃さないように促している。張ダビデ牧師は「主が十字架で死なれたとき、すでにいのちの門が開かれた」と語る。また「主が墓にとどまられたとき、すでに復活の新しい歴史と新しい安息が備えられていた」と言う。そして「もし私たちが今、イエスを排斥したり、イエスへの完全な献身をためらっているなら、これ以上遅くならないうちに、生きておられる主に私たちの大切なものをささげるべきだ」と強調する。これこそがヨハネ19章全体が語ろうとしている福音の真髄であり、私たちがキリストの十字架の前に立ち、復活の希望のうちに握るべき真の信仰の道なのである。

張ダビデ牧師はこのメッセージを結論として、改めて問いかける。「私たちはアリマタヤのヨセフやニコデモのように、遅れての後悔を抱えながら大きな献身をするのか、それとも生きておられるイエスに感謝と愛を今捧え、その御心を喜ばせるのか?」遅れての献身も恵みのうちに尊く用いられるが、主は今日、生きておられるその方と共に歩み、愛を実践することを私たちに望んでおられる。十字架の恵みを既に受けた私たちであれば、もう先延ばしにせず、復活のいのちの中に喜んで入り、主の御旨に従う実践的な愛によって準備日と安息日、そして私たちの全生涯を聖別するべきである。こうしてこそ、律法の真髄である「愛」を握り、イエスがくださる新しい契約の恵みにあずかり、聖霊のうちに日々新しくされる真の礼拝者の生き方が可能となるのだ。これこそ、張ダビデ牧師がヨハネの福音書19章31~42節の説教を通して力強く伝える中心的メッセージであり、すべての信仰者が日々噛みしめるべき福音の真髄なのである。

Leave a Comment